たゞ)” の例文
たゞならぬ樣子を見て、平次は女をみちびき入れました。奧の一間——といつても狹い家、行燈あんどんを一つ點けると、家中の用が足りさうです。
たゞこゝにハルトマンが哲學上の用語例によりて、右の三目を譯せば足りなむ。固有は類想ガツツングスイデエなり、折衷は個想インヂヰヅアアルイデエなり、人間は小天地想ミクロコスミスムスなり。
柵草紙の山房論文 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
こゝでは、誰と成績を競ふこともなく、伊藤も、ばア様も、川島舎監長も、下駄屋の亭主もゐなかつた。るものはたゞ解放であつた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
われを君があだおぼし給ふなかれ、われは君のいづこにいますかをわきまへず、また見ず、また知らず、たゞこの涙にるゝおもてを君の方に向けたり。
頌歌 (旧字旧仮名) / ポール・クローデル(著)
記録きろくつゝしまなければらない。——のあたりで、白刃しらは往來わうらいするをたは事實じじつである。……けれども、かたきたゞ宵闇よひやみくらさであつた。
間引菜 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
けれどわたし如何どういふものか、それさはつてすこしもなく、たゞはじ喰出はみだした、一すぢ背負揚しよいあげ、それがわたし不安ふあん中心点ちうしんてんであつた。
背負揚 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
「だから、はないツちやない。」と蘿月らげつは軽くにぎこぶし膝頭ひざがしらをたゝいた。おとよ長吉ちやうきちとおいとのことがたゞなんとなしに心配でならない。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
家庭の悲惨な犠牲になつて青年の希望も勇気も消磨せうましつくしてしまつた兄の苦痛と——人生はたゞ長い苦痛の無意味の連続ではないか。
父の墓 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
たゞ大地震直後だいぢしんちよくごはそれがすこぶ頻々ひんぴんおこり、しかも間々まゝきもひやほどのものもるから、氣味惡きみわるくないとはいひにくいことであるけれども。
地震の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
にちて、アンドレイ、エヒミチは埋葬まいさうされた。祈祷式きたうしきあづかつたのは、たゞミハイル、アウエリヤヌヰチと、ダリユシカとで。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
與吉よきちなゝめくのがすこ窮屈きうくつであつたのと、叱言こごとがなければたゞ惡戲いたづらをしてたいのとでそばかまどくちべつ自分じぶん落葉おちばけた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
この人は、憎むべき『』をほろぼしつ。しかはあれど、吾の祈りえざるは、あながちに、たゞのたかぶりあるのみにあらじよ。
一僧 (旧字旧仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
たゞみなあまり仲間なかまづきあひがさかんにおこなはれたゝめに、うたは、おたがひによい影響えいきようばかりでなく、わるい流行りゆうこうおこすことになりました。
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
たゞ何事なにごとはづかしうのみありけるに、しもあさ水仙すいせんつくばな格子門かうしもんそとよりさしきしものありけり、れの仕業しわざるよしけれど
たけくらべ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
「そんな事が、あらうはづがない。いくら、かはつたつて、そりやたゞとしつた丈の変化だ。成るべくかへつて三千代さんに安慰を与へてれ」
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
開いて見れば不思議にも文字もんじえてたゞの白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は暫時しばしあきはて茫然ばうぜんとして居たりしが我と我が心を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
私はそのあとたゞ一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
なんたる因果のことか、此の貧乏の中へ眼病とは実に神仏かみほとけにも見放されたことかと、たゞわしの困る事よりお前に気の毒でならない
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらもたゞ彼れが本性を見現みあらわさんと思う一心にて其招きに応じ
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
其翌五日そのよくいつか奮然ふんぜんとしてたゞ一人ひとりつた。さむいかぜき、そらくもつた、いやであつたが、一人ひとりで一生懸命しやうけんめいつたけれど、なにぬ。
それには私が無断で家出をしたことについては小言らしいことも書いてなかつた。たゞ、奮発して一人前の人間に早くなるやうにと書いてあつた。
ある職工の手記 (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
『いえ——私はもう死んでしまひましたも同じことなんで御座ます——たゞ、人様の情を思ひますものですから、其を力に……うして生きて……』
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
二人ふたりで何を話したかも覚えず、たゞ繞石ぜうせき君のしばらく散髪をしないらしい頭と莞爾にこ/\して居た顔とが目に残つて居るばかりである。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
山田やまだ読売新聞よみうりしんぶんへは大分だいぶ寄書きしよしてました、わたしは天にも地にもたゞ一度いちど頴才新誌えいさいしんしふのにやなぎえいじた七言絶句しちごんぜつくを出した事が有るが、其外そのほかにはなにも無い
硯友社の沿革 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
本艦ほんかんことやく一千米突いつせんメートル——忽然こつぜん波間はかんしづんだとおもしやおそしや、たゞ本艦ほんかん前方ぜんぽう海上かいじやうたちまおこ大叫喚だいけうくわん
ロミオ あゝ、彼等かれらにん、二十にんけんよりも、それ、そのそもじまなこにこそひところちからはあれ。たゞもう可愛かはゆをしてくだされ、彼等かれらにくまれうとなんいとはう。
此處こゝなりれます。』と老爺ぢいさんぼくそばこしおろして煙草たばこひだした。けれど一人ひとり竿さをだけ場處ばしよだからボズさんはたゞ見物けんぶつをしてた。
都の友へ、B生より (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
が、少くとも僕の場合はたゞぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであろう。
闘争 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
「そうだとも、そうだとも。こりや一つなんとかせにあなるめえ」そのくせなに一つたことはないのです。たゞ喋舌しやべるばかりです。たくも出來できないんでせう。
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
たゞ里が工面がよいので、したがつて婿さんが会社で貰ふ俸給をそつくり自分の小使につかふ事が出来る位のものだ。
みぎ次第しだいにて大陰暦たいゝんれき春夏秋冬しゆんかしうとうせつかゝはらず、一年の日數ひかずさだむるものなれば去年きよねん何月何日なんぐわつなんにちと、今年ことし其日そのひとはたゞとなへのみ同樣どうやうなれども四季しきせつかなら相違さうゐせり。
改暦弁 (旧字旧仮名) / 福沢諭吉(著)
南洲も亦曰ふ、天下しんおそる可き者なし、たゞ畏る可き者は東湖一人のみと。二子の言、夢寐むびかんずる者か。
たゞ彼ひとりが、ムクムクと堅く肥え太つて、ゆるやかに張つたお腹を突き出して、非常に威張つた姿勢をして、手を振つて大股おほまたに室の中を歩いてゐるのであつた。
哀しき父 (新字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
が、未亡人ははしを置くとすぐに、レウマチスが痛むと云つて女中に支へられながら、これだけが新築のやしきのうちでたゞ一つの日本間である隠居所に入つてしまつた。
朧夜 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
昨今はたゞ器械的に他人の工場内こうばないに働き居り候へども二ヶ年位後には本式に独立してやる考に候。
新らしき祖先 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
汽車のうちたゞ二人ふたりだけであつた。萌黄もえぎのやうな色合いろあひ唐草模樣からくさもやうり出したシートのさまが、東京で乘る汽車のと同じであつたのは、小池に東京の家を思はせるたねになつた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
たゞ、今時分、この門の上で、なにをして居たのだか、それを己にはなししさへすればいいのだ。
羅生門 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
なかにみどりのがあつたが、それはきつとひつけたのだらう。みんな野育のそだち無知むち子供こどもたちで、どこをしてくのだか、なにしろずんずんあるいてゆく。たゞ耶路撒冷イエルサレムしんじてゐる。
文久錢ぶんきうせんともふべきおあしんだのです、恰度てうどわたくし其節そのせつ其塲そのばりましたが、なに心得こゝろゑませんからたゞあわてるばかり、なに振舞ふるまいのあツたときですから、大勢たいぜいひとりましたが、いづれもあをくなり
たゞぼく心配しんぱいでならぬは家内かない——だ。ことほうべにしたようになつて呼吸こきうせわしくなる。ぼくこれるのがじつつらい。先生せんせい家内かないおなやまいのものが挑動いらだとき呼吸こきうきいことがあるかネ。
罪と罰(内田不知庵訳) (旧字旧仮名) / 北村透谷(著)
いどは勝手口からたゞ六歩むあし、ぼろ/\に腐つた麦藁屋根むぎわらやね通路かよひぢいどふてる。
水汲み (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
こゝろざしは行ふものとや、おろかしき君よ、そはうゑはしるに過ぎず。志はたゞ卓をたゝいて、なるべく高声かうせいに語るにとゞむべし。生半なまなかなる志を存せんは、存せざるに如かず、志は飯を食はす事なければなり。
青眼白頭 (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
たゞ一人心細き旅路にのぼりけるに、車中しやちゆう片岡直温かたをかちよくをんあによめ某女ぼうぢよ同行どうかうせられしに逢ひ、同女が嬰児えいじふところに抱きて愛撫あいぶ一方ひとかたならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ
母となる (新字旧仮名) / 福田英子(著)
ねこあいちやんをて、たゞその齒並はなみせたばかりでした。おとなしさうだとあいちやんはおもひました、矢張やつぱりれが大層たいそうながつめ澤山たくさんとをつてゐたので、鄭重ていちやうにしなければならないともかんがへました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
たゞ一人ひとりたのみとする片山かたやまわかれた彼女かのぢよは、まつたさびしいうへだつた。
彼女こゝに眠る (旧字旧仮名) / 若杉鳥子(著)
己が願ひのたゞ一の目的めあてなる高き光を必ず見るをうる民よ 八五—八七
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
げにたゞわがためにわが爲に、ひとむなしくわれは咲きにほふと
其間そのかんたゞ一歩いつぽだ。なるほど黎明しのゝめ
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
とせい/\、かたゆすぶると、ひゞきか、ふるへながら、をんな真黒まつくろかみなかに、大理石だいりせきのやうなしろかほ押据おしすえて、前途ゆくさきたゞじつみまもる。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
裏長屋の狹い庭越しに、梅から櫻へ移り行く春の風物を眺めて、たゞうぼんやりと日を暮してゐる、この頃の平次だつたのです。