しの)” の例文
あはれ新婚しんこんしきげて、一年ひとゝせふすまあたゝかならず、戰地せんちむかつて出立いでたつたをりには、しのんでかなかつたのも、嬉涙うれしなみだれたのであつた。
雪の翼 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
初恋にう少年少女のたわいのない睦言むつごとりに過ぎないけれども、たがいに人目をしのんでは首尾していたらしい様子合いも見え
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
其は其として、昔から家の娘を守った邑々むらむらも、段々えたいの知れぬ村の風に感染かまけて、しのづまの手に任せ傍題ほうだいにしようとしている。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
すべては靜まつてゐて、たゞアデェルのしのび聲のおしやべりばかりであつた(彼女は思ひ切つて、大きな聲では話せなかつたのだ)。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に床下ゆかしたからしのびこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしそれをたれてはなかつた。それでもかれ空虚から煙草入たばこいれはなすにしのびない心持こゝろもちがした。かれわづか小遣錢こづかひせんれて始終しじうこしにつけた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
そのときだれしのあしに、おれのそばたものがある。おれはそちらをようとした。が、おれのまはりには、何時いつ薄闇うすやみちこめてゐる。
藪の中 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
待給まちたま諸共もろともにのこヽろなりけん、しのたまはりしひめがしごきの緋縮緬ひぢりめんを、最期さいごむね幾重いくへまきて、大川おほかわなみかへらずぞりし。
暁月夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
〔譯〕あさにしてくらはずば、ひるにしてう。わかうして學ばずば、壯にしてまどふ。饑うるは猶しのぶ可し、まどふは奈何ともす可からず。
先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえなぐらるるままにはじしのんで去った。今にしてこれをかえりみれば気の毒だと思う。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
御米およねはかう宗助そうすけからいたはられたときなんだか自分じぶん身體からだわることうつたへるにしのびない心持こゝろもちがした。實際じつさいまた夫程それほどくるしくもなかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
おどろいてめたが、たしかにねここゑがする、ゆめかいか、はねきてたらまくらもとにはれい兒猫こねこすはつてゐた、どこからしのんでたのやら。
ねこ (旧字旧仮名) / 北村兼子(著)
日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとってしのびがたい悲哀ひあいであった。
またなんじらのためにすべてのひとにくまれん。されどおわりまでしのぶものはすくわるべし。このまちにて、めらるるときは、かのまちのがれよ。
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
それはこのうちのネコでした。ネコはそっとしのんでいって、あかりのさしているところからふたあしばかりはなれたかべのそばに立ちどまりました。
大佐たいさよ、わたくしすでこのしま仲間なかまとなつたいまは、貴下等あなたがた毎日まいにち/\の勞苦らうくをば、いたずらに傍觀ぼうくわんしてるにしのびません、んでもよい。
さてまた憑司は其夜昌次郎を立せやり草履ざうりに血の付たるをもちて傳吉宅へしのこみには飛石とびいしへ血を付置き夫より高田の役所へ夜通よどほしに往てうつた捕方とりかた
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸がしのびよって来ていました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
五人は部屋から飛びだして、いま博士の出てきた部屋の扉の前にしのびよった。扉の引き手を廻すと、さいわいにこれにも鍵がかかっていない。
超人間X号 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「いよ/\お互の身の破滅だ。しのをとこでも出来たんだな……」と思ふと、男は髪の毛が逆立さかだちになるやうに思つた。そして急いであとを読み次いだ。
父は母の歿後ぼつご、後妻ももらわないで不自由をしのんで来たのであったが、かげでは田舎者と罵倒ばとうしている貝原からめかけに要求され
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
「まあ、いい。手前てめえの口を出すことじゃねえのだ。われあただ、言われたとおり、こっそりこの裏ぐちからしのび出てナ、自身番へ駈けつけて——」
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
俊寛 九州まで! いかなる手段をつくしても! 九州まで着けば身をしのばして都に入り、時機をうかがうことができる。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
「よし、おれが、今日きょうはしとめてくれるぞ。」とりきんで、猟師りょうし足音あしおとしのんで、ちかよって、そのようすをうかがいました。ところがどうでしょう。
猟師と薬屋の話 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「ああ郎女いらつめよ。ひどくくと人が聞いてわらいそしる。羽狹はさの山のやまばとのように、こっそりとしのび泣きに泣くがよい」
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事のしのばるるにけてうたた悪人の夫を厭ふことはなはだしかり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
一体いったい出来できが面白い都会で、巴里パリーに遊んでそのいにしえをしのぶとき、今も悵恨ちょうこんはらわたを傷めずにはいられぬものあるが
不吉の音と学士会院の鐘 (新字新仮名) / 岩村透(著)
うしろからしのぶようにしていておとこは、そういいながらおもむろに頬冠ほおかぶりをとったが、それは春信はるのぶ弟子でしうちでも、かわものとおっている春重はるしげだった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
怪人二十面相は、はたして、真珠のゾウを盗みだすために、恩田家へしのび込んできました。やっぱり、目に見えない透明人間としてやってきたのです。
おれは二十面相だ (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
人知ひとしれずしのんできた同じようなくるしみとおたがいあわれみの気持きもちとが、悲しいやさしみをもって二人をむすびつけていた。
ジャン・クリストフ (新字新仮名) / ロマン・ロラン(著)
これ実に仏陀及び祖師に対し我々が黙視もくしするにしのびないことである。どうかインドの国へ仏教をきたいものである
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
事の実際をいえば弱宋じゃくそうの大事すでに去り、百戦必敗ひっぱいもとより疑うべきにあらず、むしろはじしのんで一日もちょう氏のまつりそんしたるこそ利益なるに似たれども
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
しのんでいられるようでもあるし、さっぱりとあきらめていられるようでもあるし、ちょっと見当がつきませんね。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
四晩に一度は屹度きつとしのんで寢に來る丑之助——兼大工の弟子で、男振りもよく、年こそまだ二十三だが、若者中で一番幅の利く——の事も、無論考へられた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
かれらはいいつけられて為朝ためともちにたというだけで、もとよりおれにはあだもうらみもないものどもだ。そんなもののいのちをこの上むだにとるにはしのびない。
鎮西八郎 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
そ我が國に來て、しのび忍びかく物言ふ。然らば力競べせむ。かれあれまづその御手を取らむ一二」といひき。
シャクが弟の屍体の傍に茫然と立っていた時、ひそかにデックのたましいが兄の中にしのび入ったのだと人々は考えた。
狐憑 (新字新仮名) / 中島敦(著)
内に深く残忍の想をひそめ、外又恐るべく悲しむべき夜叉相やしゃそうを浮べ、ひそやかにしのんで参ると斯う云うことじゃ。
二十六夜 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
フィリーモンは彼をおしのびの殿様とか何とかいったような人と思ったわけではなく、寧ろどこかの非常な賢人で、お金やそのほか世間的な慾をすっかり捨てて
で、身體からだひどこゞえてしまつたので、詮方せんかたなく、夕方ゆふがたになるのをつて、こツそりと自分じぶんへやにはしのたものゝ、夜明よあけまで身動みうごきもせず、へや眞中まんなかつてゐた。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
これをあらそう者あるべからず、あきらかみとむるところなれども、日本の武士道ぶしどうを以てすれば如何いかにしてもしのぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功きこうおさめたる以上は
此に於て熬米いりごめみ以て一時のうへしのび、一走駆さうくしてただちに沿岸にいたり飯をんとけつす、此に於て山をくだり方向をさだめて沼辺にいたらんとし、山をくだれば前方の山又山
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
しミツシヨンより金をもらこと精神上せいしんじやうかれかれ教会けうくわいの上にがいありとしんずればたゞちに之をつにあり、我れゆるとも可なり、我の妻子さいしにして路頭ろとうまよふに至るも我はしのばん
問答二三 (新字旧仮名) / 内村鑑三(著)
都鳥に似たる「ごめ」という水禽みずとりのみ、黒み行く浪の上にれ残りて白く見ゆるに、都鳥もしのばしく、父母すみたもう方、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも娼婦がすすり泣きするしのを聞く如き、この裏悲うらがなしく頼りなき色調を忘るる事あたはざるなり。
浮世絵の鑑賞 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
わたしは、もう我慢がまんがならなかった。わたしは彼女に最後のいとまも言わずに、このまま別れてしまうにしのびなかった。わたしは折りをうかがって、傍屋へ出かけて行った。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
階下したでは皆な寝たらしい。不図ふと、何か斯うしのに泣くやうな若い人の声が細々と耳に入る。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
晩秋の黄昏たそがれがはやしのび寄ったようなかげの中を焦躁しょうそうの色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
競馬 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
また一種の大才略さいりゃくある人はじしのびて事を為す、妙(明徐楷が楊継成を助けざるが如し)。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
荒神様へまいるもよい。ついでにここを通ったらば、霎時しばらくこの海岸に立って、諸君が祖先の労苦をしのんでもらいたい。しかし電車で帰宅かえりを急ぐ諸君は、暗い海上などを振向いても見まい。
一日一筆 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)