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だいがく
早稻田を
出たものは
早稻田を
愛し。
大學を
出たものは
大學を
愛するのは
當然で、
諸君も
必ず
其出身の
學校を
愛し
且つ
誇らるゝでしよう。
自分が
大學にゐた
時分は、
醫學も
猶且、
錬金術や、
形而上學などと
同じ
運命に
至るものと
思ふてゐたが、
實に
驚く
可き
進歩である。
それは
今から
五十年程前に、アメリカから
日本の
大學の
教授になつて
來たモールスといふ
先生が、
初めてわれ/\に
教へてくれたのであります。
兄は
到底相談になつて
呉れる
人ぢやない、
自分が
大學を
卒業しないから、
他も
中途で
已めるのは
當然だ
位に
考へてゐる。
「
其處に
居る、……
其の
百日紅の
左の
枝だ。」
上野の
東照宮の
石段から、
不忍の
池を
遙に、
大學の
大時計の
針が
分明に
見えた
瞳である。かゝる
時にも
鋭かつた。
〔譯〕
論語を
講ず、是れ
慈父の子を教ふる
意思。
孟子を講ず、是れ伯兄の
季を
誨ふる
意思。
大學を講ず、
網の
綱に在る如し。
中庸を講ず、
雲の
岫を出づる如し。
むかし、
式部大輔大江匡衡といふ
人がありました。まだ
大學の
學生であつた
時のことであります。
從て
何ゆゑとなく
睦ましく
離れがたく
思はれたが、
其後彼は
學校を
卒業して、
元來ならば
大學に
入る
可きを、
他に
大望ありと
稱して、
幾何もなく
日本を
去り、はじめは
支那に
遊び
討取猶三の柵片原町なる
大學が
持場迄此勢ひに
崩れんとする處へ本城より
加勢として
木村長門守重成後藤又兵衞
基次秀頼公の
仰に隨ひ
繰出したりと
讀て彦兵衞
莞爾と
笑ひながら是よりは佐竹樣
大負と成て
御家老衆討死致され佐竹左中將
義宣公も危い處へ佐竹六郎殿
駈付て討死致されたればこそ佐竹樣危き命を
僕は
不幸にして
外國に
留學することも
出來ず、
大學に
入ることも
出來ず、ですから
僕の
教育、
所謂教育なるものは
不完全なものでしよう。
僅な
收入は
母の
給養にも
供せねばならず、
彼は
遂に
此の
生活には
堪へ
切れず、
斷然大學を
去つて、
古郷に
歸つた。
『これは
先日、
此附近を
散歩して
居て
拾つたのです。
如何か
大學へお
納めを
願ひます』と
言ふ。
おなじく
大學の
學生で
暑中休暇に
歸省して、
糠鰊……
易くて、
量があつて、
舌をピリヽと
刺戟する、
糠に
漬込んだ
鰊……に
親んで
居たのと
一所に、
金澤を
立つて、
徒歩で、
森下、
津幡、
石動。
ですからもし
博物館を
詳細に
見て
行つたならば、
中學校や
大學などに
入學しなくとも、ひとりで
學問が
出來るであらうと
思はれるぐらゐに、すべてに
完備してゐるのにはまったく
驚嘆せられます。
所が、
長子のセルゲイは
丁度大學の四
年級になつてから、
急性の
肺病に
罹り
死亡して
了ふ。
當時著者は
大學に
於ける
卒業試驗の
準備中でつて、
机に
向つて
靜座してゐたが、
地震の
初期微動に
於て
既に
土壁が
龜裂しきれ/″\になつて
落ちて
來るので、
自ら
室の
中央部まで
動いたけれども
大學の
人類學教室、
帝室博物館、
此所には
貴重なる
標本が
少からず
集められ、
又集められつゝあるが、
併しながら、
單に
石器時代の
遺物にのみ、
大學なり
博物館なりが、
全力を
盡されるといふ
事は
まだ
我樂多文庫の
發刊に
成らない
以前と
思ふ……
大學へ
通はるゝのに、
飯田町の
下宿においでの
頃、
下宿の
女房さんが
豆府屋を、とうふ
屋さんと
呼び
込む——
小さな
下宿でよく
聞える——
聲がすると