べに)” の例文
「町内の風呂屋へ行って訊くまでもあるめえ、顔へべになんか塗りやがって——御徒士町からここまで、駆けて来て主人を殺したろう」
車の中の人は見えないが、べに裾濃すそごに染めた、すずしの下簾したすだれが、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
べにもさしていましたが、奉公に行けば、もうその子の姿も見られなくなるという甘い別れの感傷も、かえって私の決心を固めさせた。
アド・バルーン (新字新仮名) / 織田作之助(著)
春子はるこさんが、ってみると、それは、うつくしい、べにざらをるように、むらさきのぴかぴかとしたはねった玉虫たまむし死骸しがいでありました。
玉虫のおばさん (新字新仮名) / 小川未明(著)
手水鉢ちょうずばちで、おおいの下を、柄杓ひしゃくさぐりながら、しずくを払うと、さきへ手をきよめて、べにの口にくわえつつ待った、手巾ハンケチ真中まんなかをお絹が貸す……
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一足……また、ズッと迫ってきたが、こんどはお綱、うしろへ退かずに、きりりと蘭瞼らんけんべにを裂いた。が——声はかえって落ちついて
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と書きて贈りしその花にさふらふ。奥村氏の前庭ぜんてい紅木槿垣べにむくげがきひまつはりしもその花にさふらふ。翌日ははやほろほろと船室の中にべにこぼさふらふ
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
これは源氏がわざと自分の鼻のあたまへべにを塗って、いくらいても取れないふりをして見せるので、当時十一歳のむらさきうえが気をんで
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
セエラの顔にはさっとべにかれました。青鼠色あおねずみいろの眼には、たった今、大好きなお友達を認めたというような表情が浮びました。
我々は二三日前からこのべにやつの奥に来て、疲れた身体からだを谷と谷の間に放り出しました。いる所は私の親戚のもっている小さい別荘です。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
身体中べにに染って、胸には美しい短剣を突き立てて、貞女の死顔を貴様に見せ度いと云っていたぜ。これがあいつのことづけだ
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
女はくしだのこうがいだのかんざしだのべにだのを大事にしました。彼が泥の手や山の獣の血にぬれた手でかすかに着物にふれただけでも女は彼を叱りました。
桜の森の満開の下 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
女は突然立止たちとゞまりて、近くの街燈をたよりに、少時しばし余が風采みなりを打眺め候ふが、忽ちべにしたる唇より白き歯を見せて微笑み候。
夜あるき (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
朝の空気を吸う唇にべには付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持みもちよく保って居る健康な女の唇のあかさだ。
かの女の朝 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
昨夜は冨美ちゃんにアンクルトムスやべにはこべその他似合わしいものを見つけてやりました。よそのうちへ行って本棚があるとうれしいこと。
べにもなければ白粉おしろいもない、裸のままの私に、大きい愛情をかけてくれる与一の思いやりを、私は、過去の二人の男達の中には探し得なかった。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
初鮏は光り銀のごとくにしてすこしあをみあり、にくの色べにをぬりたるがごとし。仲冬の頃にいたればまだらさびいで、にくくれなうすし。あぢもやゝおとれり。
林は奥へ往くにしたがって、躑躅つつじと皐月が多くなった。しゅべにしろといちめんに咲き乱れた花は美しかった。憲一はその花の間をうて往った。
藤の瓔珞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
真菰まこも精霊棚しょうりょうだな蓮花れんげの形をした燈籠とうろうはすの葉やほおずきなどはもちろん、珍しくもがまの穂や、べに花殻はながらなどを売る露店が
試験管 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
お駒は、ほんのりべにをさしたやうな圓い顏に笑みを浮べて、後の半分は聞えぬほどの小ひさい聲で、定吉を流盻ながしめに見ながら言つてから、竹丸に
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
顔色は常よりもべにをさして、姿も男の着物こそ着ておれ、あの紫に渦巻いた髪の毛。あのきっと王様を見詰めている眼付。キリリと結んだ口もと。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
忽然こつぜんとして眼が嬉しそうに光り出すかと思う間に、見る見るこらえようにも耐え切れなさそうな微笑が口頭くちもとに浮び出て、ほおさえいつしかべにす。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
夜鷹になるか、提重になるか、いずれにしても不器量の顔にべにや白粉を塗って、女に飢えている中間どもにこびを売るのが彼等のならわしであった。
半七捕物帳:11 朝顔屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
袋の糸目をとくと、なかから美しいべにのつやを持ち、芽割めわれに白い縫糸を見せた小豆が一杯につまっていた。ひなの日の娘らのあそぶお手玉だった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
雛の一対のごとき二人が、なぜとはなくもうぼッと頬にべにを染めながら、相前後してそこに現れるのをみると、退屈男は猪突に愛妹へ言いました。
濃い藍色の労働服を着ていた。横から見たら首の根っこが鼠の裸児はだかごのようなべにいろをしていた。毛むくじゃらの両手だ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
さりとは外見みえを捨てて堅義を自慢にした身のつくり方、柄の選択えらみこそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟しゅすえりかけたを着てどこにべにくさいところもなく
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ある春の日、山吹きのしんをぬいて、べにで染めて根がけにかけてきた小娘こむすめが交って、あたしのお座をとりまいていた。
すみべにながしてめた色紙いろがみ、またはあかあを色紙いろがみ短册たんざくかたちつて、あのあをたけあひだつたのは、子供心こどもごゝろにもやさしくおもはれるものです。
ふるさと (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
「さうすりやはあ、おたげえにえゝ鹽梅あんべえきずもつかねえんだから、れもさうはおもつちやんだが、れ、いふのもをかしなもんで」卯平うへいほゝにはやゝべに
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
その光で、あたりの光景がべにを流したように明るくなりました。そこに一箇ひとりの囚徒が阿修羅あしゅらのようにあばれています。
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それは雪洞の灯を掻き立てようとしたのであろう、お筆は雛段の方に少しにじり寄っていて、半ば開いた口が、べにの灯を真正面まともにうけていたからだった。
絶景万国博覧会 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
白粉とべに丈ではいくら濃く塗り立てゝも滿足出來なくなつて、まゆずみを使つたり、黒子ほくろを描いたりしてゐるのに、あの娘は何時もつくろはぬ銀杏返で
大阪の宿 (旧字旧仮名) / 水上滝太郎(著)
結ぶでもなく、開くでもなく、べにつ気なしに赤い唇が、心もちふるへてゐたよ。目は無論、渺茫たる水平線の彼方、思ひ出の花咲く国に注がれてゐるのさ。
明日は天気(二場) (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
うきかざりのべにをしろいこそらぬものあらがみ島田しまだ元結もとゆひすぢきつてはなせし姿すがたいろこのむものにはまただんとたヽえてむこにゆかんよめにとらん
経つくゑ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
その湾から、太青洋を通ずるには、天嶮てんけんともいうべき狭い二本の水道をるのであった。東に向った水道を、べに水道といい、南に向った水道を黄水道という。
二、〇〇〇年戦争 (新字新仮名) / 海野十三(著)
……玄関のまへの、べにかつらの細かい葉を一ぱいからました低い垣が、あかるく、しづかに美しかつた。
にはかへんろ記 (新字旧仮名) / 久保田万太郎(著)
その娘の名はおべにと云い、北国の名家、佐々隆行、その一族の姫なのであった。その父の名は時明ときあきら、その母の名はお園の方、一時はときめいた身分なのであった。
血ぬられた懐刀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
キュッとべにをさした脣で小さく食い締めて、誰れが来ているのか、といったような風に空とぼけて、眼を遠くの壁に遣りながら、少し、頸をはすにして、黙っていた。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
やや時間をとってから、おけいが小間使と二人で、酒肴しゅこうの膳を運んで来た。時間をとったのは化粧を直したためらしい、白粉おしろいべにも濃く、香料がかなり強く匂った。
扇野 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
うついた眼許めもとには、ほのかなべにして、びんが二すじすじ夢見ゆめみるようにほほみだれかかっていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
そしてその緑の中に、所所に薄いべにを点じたように、今朝けさ開いた花も見えている。北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい所である。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
空は夕ばえのべにであつたらうか? あるひは空のしらみ明けてゆく暁ごろのうすいピンクであつたらうか? 月の光もなく夜の暗さも見えないから、夜ではないと思ふ。
或る国のこよみ (新字旧仮名) / 片山広子(著)
東京のような山から遠い土地でも、昔は夕焼け小焼のことを「おまんがべに」といっておりました。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そしてかほにはあかべにつたのだとか、すこ口元くちもとゆがめてかなしそうな表情ひようじようをしたものもあります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
のみならず、自殺に用ふる扱帯しごきの色の青とあかとを比べて、べにを選ぶやうな用意をさへ尽した。
そこには処女のように美しく小柄こがらな岡が雪のかかったかさをつぼめて、外套がいとうのしたたりをべにをさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
四季袋しきぶくろ紐短ひもみじかにげたるが、此方こなたを見向ける素顔の色あをく、口のべにさで、やや裏寂うらさびしくも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰やつれを帯びたれど、美目のへんたる色香いろか尚濃なほこまやかにして
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
うさ、氣紛きまぐれでもなけア、おれにはお前を虫干にしてる同情さへありやしない。正直なところがな。」と思切おもひきツていふ。感情がたかまツて來たのか、まぶたのあたりにぽツとべにをさす。
青い顔 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
と言って、甘いにおいの薫香くんこうを熱心に着物へき込んでいた。べにを赤々とつけて、髪をきれいになでつけた姿にはにぎやかな愛嬌あいきょうがあった、女御との会談にどんな失態をすることか。
源氏物語:26 常夏 (新字新仮名) / 紫式部(著)