あわ)” の例文
青銅からかねのうす黒い花瓶の中から花心しべもあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いがあわくただよっていた。
箕輪心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
訓練された七名の警官は、まるで霧のように静かにすべりこみました。階下の廊下はあわ灯火とうかの光に夢のように照らし出されています。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
金砂子きんすなごの袋戸棚、花梨かりん長押なげし、うんげんべりの畳——そして、あわ絹行燈きぬあんどんの光が、すべてを、春雨のように濡らしている……。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
どんなにあわくても、今、一人の輝くやうな女性の面影を心の奥に印象づけることができたら、もつて瞑すべしと思つてゐる。
髪の毛と花びら (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
おときも、初茸のあわい香、なめらかなようでしゃきしゃきする歯ざわり、みしめるとどこかに土のつめたさを含む味をほめた。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
菊太郎君は何うか知らないが、僕一人としては一種のあわい哀愁を感じた。長い/\学生生活の終焉だ。僕達と一緒に答案を出した一人の学生が
勝ち運負け運 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
わたくしは踊子部屋の光景——その暗惨あんさんとその乱雑とそのさわがしさの中には、場末の色町いろまちの近くなどで、時たま感じ得るようなゆるやかなあわい哀愁の情味を
勲章 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
朝焼けがそこここに真紅しんくのまだらを散らした。日の出が近づくにつれて、稲妻はだんだんあわく、短くなっていった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
冬は白く、春は夢の様にあわく、秋のゆうべは紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山のくさり突破とっぱして居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
わたくしまど硝子越がらすごしに海面かいめんながめると、星影ほしかげあわ波上はじやうには、一二そうさびうかんで小端艇せうたんていほかには、この大海原おほうなばらわたるともゆべき一艘いつそうふねもなかつた。
底光そこびかりのするかがみなかに、めばほどほのかになってゆく、おのがかお次第しだいあわえて、三日月形みかづきがた自慢じまんまゆも、いつかいとのようにほそくうずもれてった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
さう云ふ時には、成る世間せけんとの交渉を稀薄にして、あさでもひるでも構はずる工夫をした。其手段には、極めてあわい、甘味あまみかるい、はなをよく用ひた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
彼女かのじょは、あてもなく、にぎやかなとおりのほうあるいていった。このとき、あわいもやのかかっているうちから、ちいさなくろかげあらわれて、こちらへちかづいてきました。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
あわいこと水の如き存在、薄いこと煙の如き存在が、今、鉄の如くお銀様の胸に落ちて来ようとしました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
雨は終日しゅうじつやまなかった。こわ田舎いなかの豚肉も二人をあわく酔わせるには十分であった。二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
ただ一様いちように影が薄く印象があわくなって行こうとしているのは淋しいことで、それがまだかろうじて間に合ううちに、比較の学問の燭光に照らされ出したということは
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
石畳の上は、あわい燈のあかりでぬるぬる光っていた。温い夜風が、皆の裾を吹いて行く。井戸の中には、幾本いくほんも縄がさがって「ううん、ううん」うなり声が湧いていた。
風琴と魚の町 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
数秒の後、まぶしい深紅しんくの光がえがいてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の片膚かたはだが、一せいにさっとあわい黄色に染まり、無数の動かない電光のようなしまを作った。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
わたくし勿体もったいないやら、うれしいやら、それにまたとお地上生活時代ちじょうせいかつじだいあわおもまでもまじり、今更いまさらなんうべき言葉ことばもなく、ただなみだぐんでそこにつくしたことでございました。
あまりに、浪路の散り際のはかなさに、物ごころがついてから、強く激しく抱き締めて来た、たもちつづけて来た、復讐の執着さえこの刹那、あわびはてようとしていたのだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
うすくれないというよりは、そのうすくれない色が、いっそうこまかに溶解ようかいして、ただうすら赤いにおいといったようなあわあわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。
(新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
あわき物あに塩なくして食われんや、卵の蛋白しろみあに味あらんや」というは、いわゆる乾燥無味砂を噛むが如しという類の語であって、エリパズの言に対する思いきった嘲罵ちょうばである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
水のような月の光が畳の上までさし込んで、庭の八手やつでまばらな葉影はあわく縁端にくずれた。蚯蚓みみずの声もかすかに聞こえていた。螢籠ほたるかごのきに吊して丸山さんと私とは縁端に並んで坐った。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
国王のめりといふベルヒ城のもとし頃は、雨いよいよはげしくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞たてじまおり出して、き処には雨白く、あわき処には風黒し。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
……然し或はまた何にも起らないでこのままのあわ日々にちにちが続くのかも知れない。
過渡人 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
ただ眼に見えるものは一つの大きい建物で、周囲の建物をしのいで高くそびえながら、水蒸気に包まれてあわく霞んでいましたが、その塔は高く清らかな日光を浴びて美しく輝いていました。
姉よりも地味な好みの、たった一枚持っている上布じょうふの着物に、あわい色ばかりの縞の博多帯で、やや下目にキリリと胴を締めて、雨よけのお召のコートを着て、新子は十一時、四谷の家を出た。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
けれども光はあわく白くいたく、いつまでたっても夜にならないようでした。
マグノリアの木 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
植物の緑は、あわい。山が低い。樹木は小さく、ひねくれている。うすら寒い田舎道いなかみち。娘さんたちは長い吊鐘つりがねマントを着て歩いている。村々は、素知らぬ振りして、ちゃっかり生活を営んでいる。
佐渡 (新字新仮名) / 太宰治(著)
行きずりにう町の女、令嬢れいじょう、芸者、女優、———などに、あわい好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、写真で見る母のおもかげにどこか共通な感じのある顔のぬしであった。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
二人で拓り開いて行くべき道を、あわい希望をもって語り合った。
遺骨を拾う人と対照して、早春のあわい哀傷がある。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
いくぶん不安な気を起させるものといえば、この部屋の照明が、相当明るいには相違ないが、あわ赤色せきしょく灯で照明されていることであった。
鬼仏洞事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
船が洋上へ出るにしたがい、さすが波のうねりは高く、またどこかには月の色があわかった。下弦かげんの月である。親船の黒い帆蔭になっている。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
少し風が吹きはじめたが、薄い霧が下りているので、見渡す夜深よふけの街のあおしずかにかすんださまは夏の夜明けのようで、あわくおぼろな星の光も冬とは思われない。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
八月ももう末の夜で、宵々よいよいごとに薄れてゆくあまの河の影が高く空にあわく流れていた。すすり泣きをするような溝川の音にまじって、かわずは寂しく鳴きつづけていた。
鳥辺山心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あお夕空ゆうぞらのように、あわいかなしみをたたえたおさけが、ちいさなコップにつがれました。おかねは、それに、くちびるをつけると、あまくてさけというかんじはしませんでした。
都会はぜいたくだ (新字新仮名) / 小川未明(著)
三日月みかづきあわひかりあお波紋はもんおおきくげて、白珊瑚しろさんごおもわせるはだに、くようにえてゆくなめらかさが、秋草あきぐさうえにまでさかったその刹那せつな、ふと立上たちあがったおせんは
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
ただあわかおりを残して消えたこうのようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
とにかくに人の幻覚は日にあわく、一方彼らの挙動には、色々の思い出を語るものがあった故に、愛は屋上のからすに及ぶということわざもあるように、次第に加わってくる彼らの悪戯いたずら容赦ようしゃして
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
風はまだつめたいが、雲雀の歌にも心なしかちからがついて、富士も鉛色なまりいろあわかすむ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
ごくあわいいろのにじのように見えるときもあるしねえ、いろいろなんだ。
風野又三郎 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
その蔭にあわい少年のこいが暗示されていなくもない。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ややあわい影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた四斗樽しとだるのように大きいのです。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
かぶとの鉢金にされた頭には、視野の物さえかすんで見え、死もさまでにはこわくなく、生きんとすることさえあわい妄念でしかなくなっていた。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伝兵衛がさしつける蝋燭のあわい灯で、澹山はじっとこれを見つめているうちに彼の顔色は変った。
半七捕物帳:33 旅絵師 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
ただ北海ほっかいなみおとこえるだけのひろさにかぎっていました。そして、ほかのより、水気みずけがあって、あまかったけれど、また、なんとなく、そのあじには、あわかなしみがありました。
浮世絵は概して奉書ほうしょまたは西之内にしのうちに印刷せられ、その色彩は皆めたる如くあわくして光沢なし、試みにこれを活気ある油画あぶらえの色と比較せば、一ツは赫々かくかくたる烈日の光を望むが如く
浮世絵の鑑賞 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
障子しょうじれるひかりさえない部屋へやなかは、わずかにとなりから行燈あんどん方影かたかげに、二人ふたり半身はんしんあわせているばかり、三ねんりでったあにかおも、おせんははっきり見極みきわめることが出来できなかった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
秋の野にさす雲のかげの様に、あわかなしみがすうと主人あるじの心をかすめて過ぎた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)