にほひ)” の例文
舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯のにほひを憶出した。よく阿弥陀あみだくじに当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
又某甲若し眼を失つたと假定すれば、視界は滅し、鼓膜を破つたとすれば、聽界は亡び、齅神經の障害を得ればにほひの世界は滅する。
努力論 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
このうるはしき物語たゞちにやみぬ、そは我等路の中央たゞなかに、にほひやはらかくして良きある一本ひともとの木を見たればなり 一三〇—一三二
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
恁麽こんな好いにほひを知らないんだなと思つて、私は何だか気の毒な様な気持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
にほひですこと」と三千代はひるがへる様にほころびた大きな花瓣はなびらながめてゐたが、それからはなして代助に移した時、ぽうとほゝを薄赤くした。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
あしもとの地面は、あちこちと土がはね返され、傷つけられた樹根の皮が生々しくむき出されて、甘辛い刺戟のにほひがつん/\と鼻先を突いた。
肉桂樹 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
張作霖は螺旋ねぢを巻き忘れた柱時計の顔を見ても、飲み忘れた水薬のにほひいでも、直ぐこの合言葉を思ひ出すのだ。そして
黄蜀葵とろろあふひ土耳古皇帝とるこくわうてい鍾愛しようあいの花、麻色あさいろに曇つた眼、肌理きめこまかな婀娜あだもの——おまへの胸から好いにほひがする、潔白の氣は露ほどもないにほひがする。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
そしてそこで折つて来た馬酔木の強いにほひのする花が、いつまでもいつまでもそのページと頁の中に押されて残つた。
路傍の小草 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
薄あかりのなかに凝視みつむる小さな銀側時計の怪しい數字に苦蓬にがよもぎにほひ沁みわたり、右に持つた薄手うすでの和蘭皿にはまだ眞赤まつかな幼兒の生膽がヒクヒクと息をつく。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
水茶屋の横を川端へ下りて、猫柳の繁つた岸の上から、水の中を覗くと、星影が魚の目のやうに映つて、清らかな水垢みづあかにほひが、今年も鮎の豐漁を思はせた。
天満宮 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
そのうち、かうばしいやうな、とほくで……海藻かいさうをあぶるやうなにほひつたはる。にほひ可厭いやではないが、すこしうつたうしい。出窓でまどけた。おゝ、る/\、さかんしろい。
火の用心の事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
泉の面には、月の光が一面にさして、すゐれんの花のなつかしいにほひがみなぎつてゐます。三人はきらびやかな星の着物をぬいで、そつと水の中へはいりました。
星の女 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
おかみさん、私のいふ花が生きてるか、死んでるか知らないが、何しろ今その意地惡の悲しいにほひがして來てゐる。噫恨めしいその香はどこからして來るんだらう。
わるい花 (旧字旧仮名) / レミ・ドゥ・グルモン(著)
夕方の燈がく。稲の葉のにほひが際立つて鼻をついて来た。野良帰りには不思議に逢はなかつた。唐もろこしに囲まれためひの家まで来た。背後うしろの山はもう真黒に暮れてゐた。
反逆の呂律 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
畑の中央部につた可愛らしい小さな家も無論取こぼたれた。それを取囲んでゐたかぐはしいにほひを放つ多くの草花は無造作に引抜かれて、母家おもやの庭の隅つこへ移し植ゑられた。
新らしき祖先 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
電車でんしや神奈川かながははじめてつうじたときに、其沿道そのえんだう低地ていちに、貝塚かひづか發見はつけんしたといふひとせつき、實地じつちついてチヨイ/\發掘はつくつしてて、破片はへんにほひもせなんだれいかんがへ、また橘樹郡たちばなごほりたる貝塚かひづか
しかし、その瞬間に、夕食デイナーを告げる呼鈴ベルが聞えた。皆は再び家に這入つた。その時食堂にみちてゐたにほひは、朝食の時私達の鼻についた、それと大して變りのない食慾を感じさせた。
阿古屋の珠は年古りて其うるみいよいよ深くその色ますますうるはしといへり。わがうた詞拙くふしおどろおどろしく、十年とゝせ經て光失せ、二十年はたとせすぎてにほひ去り、今はたその姿大方散りぼひたり。
孔雀船 (旧字旧仮名) / 伊良子清白(著)
かれににほひ無くこれに歌無し。かれは其袍そのうはぎを、これは其尾をほこる。 「珍華園」
欝金草売 (旧字旧仮名) / ルイ・ベルトラン(著)
貴方あなた那樣哲學そんなてつがくは、あたゝかあんずはなにほひのする希臘ギリシヤつておつたへなさい、此處こゝでは那樣哲學そんなてつがく氣候きこうひません。いやさうと、わたくしたれかとヂオゲンのはなしましたつけ、貴方あなたとでしたらうか?
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
山がはの水のにほひのする時にしみじみとして秋風ふきぬ
つゆじも (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
にほひよき寂寞せきばくのなか、二人ふたりの黒きまつげ繁叩しばたゝ
わたしのからだはにほひとなつてひろがる。
藍色の蟇 (新字旧仮名) / 大手拓次(著)
こゝに朽ちゆくよるの海のにほひをかぎて
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
そなたこそ人を釣るにほひゑさ
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
そこは光と熱とにほひと色の世界だ
南洋館 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
初めてにほひあり音あり色ある
太陽の子 (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
滅亡ほろびにほひすごう乱るゝ
しやうりの歌 (新字旧仮名) / 末吉安持(著)
彼等と自分とは、毎日吸ふ煙草までが違つて居る。彼等の吸ふのは枯れた橡の葉の粉だ、辛くもないが甘くもない、にほひもない。
雲は天才である (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
祖母おばあさんがほほつゝんでくださるあつ握飯おむすびにほひでもいだはうが、おあししてつたお菓子くわしより餘程よほどおいしくおもひました。
ふるさと (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
ある日、秋濤はいつものやうににほひのいゝ葉巻シガーくはへて教室に入つて来たが、平素ふだんにない生真面目な調子で、皆の顔を見た。
さも樂しさうな林檎の木よ、昔はおまへのにほひをかいでよろこんだこともある、その時おまへの幹へ、牛が鼻先はなづらこすつてゐた。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
にほひでせう」と云つて、自分のはなを、はなびらそばつてて、ふんといで見せた。代助は思はずあし真直まつすぐつて、うしろの方へらした。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
自然はかしこをいろどれるのみならず、また千のかをりをもて一の奇しきわけ難きにほひを作れり 七九—八一
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
其上そのうへやまか、をんなにほひか、ほんのりとかほりがする、わし背後うしろでつくいきぢやらうとおもつた。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
頬笑ほゝゑみしかめ顏もてんで違つてゐる。授け與へる其悦は少しの物吝も無く分配されるが、にほひが違ふ、色が違ふ。昔、君を恍惚たらしめたあの笑顏にまた逢はうなどと望み給ふな。
落葉 (旧字旧仮名) / レミ・ドゥ・グルモン(著)
紅蓮白蓮のにほひゆかしく衣袂たもとに裾に薫り来て、浮葉に露の玉ゆらぎ立葉に風のそよける面白の夏の眺望ながめは、赤蜻蛉菱藻ひしもなぶり初霜向ふが岡の樹梢こずゑを染めてより全然さらりと無くなつたれど
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
人々につて犂返へされた湿つぽい土からはほか/\した白い水蒸気が立ちのぼり、それと共に永い冬の間どこにもぐことの出来なかつた或る一種の生々したにほひが発散してゐた。
新らしき祖先 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋をにほひの滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。
水郷柳河 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
泥土でいど混亂こんらんく、かひいろゆきごとしろく、合貝あひかひて、灰層くわいそうり、うしてなか/\ふかい。『有望々々いうぼう/\』とよばはりながら、水谷氏みづたにしぼくとはあなならべてすゝんだが、珍品ちんぴんらしいものにほひもせぬ。
つよくつよくからみつくにほひのことばは
藍色の蟇 (新字旧仮名) / 大手拓次(著)
よしさらば、にほひ渦輪うづわあやの嵐に。
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
つとほのかなるにほひを立てながら
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
新しい膳に向つて、うまさうな味噌汁のにほひを嗅いで見た時は、第一この寂しげな精舎しやうじやの古壁の内に意外な家庭の温暖あたゝかさ看付みつけたのであつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
あたまにほひのするあぶらられて、景氣けいきのいゝこゑうしろからけられて、おもてたときは、それでも清々せい/\した心持こゝろもちであつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
身動きするたびに、絹摩きぬずれの音がして、麝香猫じやかうねこのやうなにほひがぷん/\する。男はめまひがしさうになつて来た。
目をつむると、好いにほひのするはなびらの中に魂が包まれた様で、自分の呼気いきが温かなもやの様に顔を撫でる。
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
どのかへるも、コタマ! オタマ! とく、とふのである。おなをとこが、或時あるとき小店こみせあそぶと、其合方そのあひかたが、ふけてから、薄暗うすぐら行燈あんどうで、いくつも/\、あらゆるキルクのにほひぐ。
番茶話 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
おかみさん、そら、あつた、こゝにあつた、ひとりぽつちで忍冬すいかづらの中につぶれてゐた。たつた、ひとりぽつちでさ、この花は世界に一つしか無いんだ。それ、暴風あらしと涙とさいはひにほひがしないかね。
わるい花 (旧字旧仮名) / レミ・ドゥ・グルモン(著)