たね)” の例文
別なことばでいふとこぼたねだ。だから母夫人の腹に、腹の違ツたあにか弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用むよう長物ちやうぶつであツたのだ。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
それではたねあかしの手品てじな同樣どうやうなぐさみになりません、おねがひまをしましたのはこゝこと御新造樣ごしんぞさまひとうぞなんでもおをしへなさつてつかはさりまし。
二た面 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
これが東京などの大都会に、大火の多かった原因の一つで、そうしてまた屋根の三角が、いよいよ不揃ふぞろいなものになるたねでもあった。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話のたねのない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
翌朝は、綺麗さつぱり忘れちまふつもりでゐたことが、あの人のゐなくなつた後で、却つて、あたしを苦しめるたねになつたんだわ。
モノロオグ (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
もうわたしもおとぎ話にあるわかいはつかねずみのように、見るもの聞くものが驚嘆きょうたん恐怖きょうふたねになるというようなことはなかった。
わたくし頭髪かみたいへんに沢山たくさんで、日頃ひごろはは自慢じまんたねでございましたが、そのころはモーとこりなので、かげもなくもつれてました。
かれ前年ぜんねんさむさがきふおそうたときたねわづか二日ふつか相違さうゐおくれたむぎ意外いぐわい收穫しうくわく減少げんせうしたにが經驗けいけんわすることが出來できなかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
あまとぶかり小夜さよの枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、あかつきの千鳥の洲崎すさきにさわぐも、心をくだくたねとなる。
それが年月としつきるにしたがつていしくづれたり、そのなかたねちてしたりして、つかうへ樹木じゆもくしげつてたのであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
一昨年も唯十分か十五分の間に地が白くなる程降って、場所によっては大麦小麦はたねも残さず、桑、茶、其外青物あおもの一切全滅した処もある。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
そしてしたにいる瓜子姫子うりこひめこには、たねや、へたばかりげつけて、一つもとしてはくれません。瓜子姫子うりこひめこはうらやましくなって
瓜子姫子 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
わたし草花くさばなたねをまいたりするのは、大好だいすきなのですけれど、もう、そんなひまなんかないのです。」と、一人ひとりが、いいますと
ガラス窓の河骨 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「まあ待てよ、そこにはまたたね仕掛しかけがあるんだ。その天竜寺という寺へよ、この三日ばかり前から遊行上人ゆぎょうしょうにんが来ているんだ」
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それで、そのチョウが石灰岩せっかいがんになってしまうと、すぐにいろんな草や木のたねが、風にはこばれてきて、その上に根をやそうとしたものさ。
それもはじめから宿やどたねがなかつたのなら、まだしもだが、そだつべきものを中途ちゆうとおとしたのだから、さら不幸ふかうかんふかかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕よゆうたくわえておいてこれをたねとして進みたいと思うのである。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
父親は近所での見聞を、断片的にものがたりながら食卓に就いたが、食事にとりかかってそのたねを失った。祖父は重い口調で命令的に訴えた。
緑の芽 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
それは勿論もちろん正氣せうきひとからはちがひとえるはづ自分じぶんながらすこくるつてるとおもくらゐなれど、ちがひだとてたねなしに間違まちがものでもなく
ゆく雲 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
是においてかエサウはヤコブとたねを異にし、またクイリーノは人がこれをマルテに歸するにいたれるほど父のいやしき者なりき 一三〇—一三二
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
……われもあまりの悲しさに河岸かし手摺てすりに身をもたせたが……花のかをりのよるの風、かへつてふさぎのたねとなり、つれないマノンを思ひだす。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
われわれとはたねが違いますよ。日本刀が何です、『富士』が何です。わがA国は、きっときっと復讐しますぞ。白人万歳!
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
されば我今更となりて八重にかかはる我身のことをたねとして長き一篇の小説をいださん事かへつてたやすきわざならず。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
近松ちかまつの書きました女性の中でおたねにおさい小春こはるとおさんなどは女が読んでもうなずかれますが、貞女とか忠義に凝った女などは人形のように思われます。
産屋物語 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
七年前の嘘が、それも決して悪意でついた嘘ではありませんでしたのに、こんなにも恐ろしい姿で、今わたくしを苦しめるたねになりましょうとは。
陰獣 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
仁左衞門は押とゞめ汝がうつは小細々々ちひさい/\今懷中の物を取のみにては面白からず後のたねにする工風くふうありまづ其方兩人は斯樣々々かやう/\に致せと言付萬澤の御關所を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
内儀のおたねはかまきりで、あんな夫婦の中に、透き通るやうな綺麗な娘が生れる筈は無いと、歸りに角の煙草屋で訊くと、矢張り養ひ娘なんだ相で
花散里はなちるさとも悲しい心を書き送って来た。どれにも個性が見えて、恋人の手紙は源氏を慰めぬものもないが、また物思いの催されるたねともなるのである。
源氏物語:12 須磨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
また二人ふたり内祝言ないしうげんはチッバルトどのゝ大厄日だいやくじつ非業ひごふ最期さいごもととなって新婿にいむこどのには當市たうしかまひのうへとなり、ヂュリエットどのゝ悲歎ひたんたね
なにしろ御承知のように零落して居りまして、雇人と申しては年とった小間使おたねと、雑用の爺や伝助でんすけとだけです。
と、自分のせめのように、家のなかを見廻した。小説修業の女弟子などが出はいりするのが、美妙が軽薄才子のようにののしられるたねなのではないかと案じた。
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
たね洪水こうずゐながつくしたるゆゑ、たえたるなるべし。他国にも石蚕せきさんしやうずる川あらば此蝶あらんもしるべからず。
両性並存せずんばたね蓄殖ちくしょくは無かるべく、男子と婦人とは、共に社会を構成する経と緯とである。然るに独り経を重んじて緯を軽んずるという道理はない。
婦人問題解決の急務 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
さもなくば、あなたこそ、いやな噂をたねに王をおどかし、無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣下賤げせんの魂胆なのだ。きたない、きたない。
新ハムレット (新字新仮名) / 太宰治(著)
このペンにべつだん、これというとりえはないのですが、ただインキの底にどっぷりつかっているというだけで、それをまた大したじまんのたねにしていました。
そこにはおたねというきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
殿樣とのさまのおすやうなはなしたねすくなうござりましてな。またひと多田院ただのゐん參詣さんけいはなしでもいたしませうか。』
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
十八に家出いえでをしたまま、いまだに行方ゆくえれないせがれきち不甲斐ふがいなさは、おもいだす度毎たびごとにおきしなみだたねではあったが、まれたくさにも花咲はなさくたとえの文字通もじどお
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
小さいながらまともなたねをより出して、それを成長させる地道な見とおしをもつことではなかろうか。
「いけねえ、いけねえ、そんなことを云ったって、ちゃんとたねがあがってるのだ、これはどうだい」
女の首 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それは小さいとげのやうにいつまでも彼等夫婦の間に波瀾を起すたねになつてしまつた。彼は彼女と喧嘩をしたのち、何度もひとりこんなことを考へなければならなかつた。
貝殻 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
浮世渡りはさま/″\に、草のたねかや人目には、荷物もしやんと供廻ともまはり、泊りをいそぐ二人連れ——
近松半二の死 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
同じたねき、同じように骨を折っても、農の極意を知る者と知らぬ者とでは、作物の出来がまるで違ってくる、……どうしてそうなるのか、……口では申せません
内蔵允留守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
座敷で呼ばせるのとはたねが違うと見える。少し書きにくい。僕は、衣帯を解かずとは、貞女が看病をする時の事に限らないということを、この時教えられたのである。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
決して大言壮語を喜ぶ単純なる志士気質やあるいは国家をめしたねとする政治家肌からではなかった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
きると、密林みつりんうへたか気侭きままぶのがきで、またその飛行振ひかうぶりが自慢じまんたねでもあつた。
火を喰つた鴉 (新字旧仮名) / 逸見猶吉(著)
などとやつてのけるたねになるのだが、自分は毛頭こんな感じは起さなんだ。何故なぜといふまでもない。
葬列 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
私は今日こんにちまで、葉茶屋の狆を本当に狆らしい狆だと信じていたのですが、今度の「たね」が来て、その権識の高いのを見て、狆というものはこういうものか知らんと思った。
従ってその論証のプロセス自体のうちに何かアラを捜そうとしても、しょせんは無駄骨にすぎない。手品のたねは、もしあるとすれば、必ずやその前提の中にひそんでいる。
さて、みなさん あなたたちは今日けふなにをめし上りました トマトをたべたでせう しかもたねまで