せつ)” の例文
あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心のせつなさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかなせつのような歌である。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
皆手に手に張り切つて発育した蓮の茎を抱へて、廬の前に並んだのには、常々くすりとも笑はぬ乳母おもさへ、腹の皮をよつてせつながつた。
死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
アンドレイ、エヒミチはせつなる同情どうじやうことばと、其上そのうへなみだをさへほゝらしてゐる郵便局長いうびんきよくちやうかほとをて、ひど感動かんどうしてしづかくちひらいた。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
渡金めつききんに通用させ様とするせつない工面より、真鍮を真鍮でとほして、真鍮相当の侮蔑を我慢する方がらくである。と今は考へてゐる。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
書にみたる春の日、文作りなづみし秋の夜半、ながめながめてつくづくと愛想尽きたる今、忽ち団扇うちわと共に汝を捨てんの心せつなり。
土達磨を毀つ辞 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
京都で大学生が血書をしてせつない思いのあまりを言い入れたとかいうような事は、貞奴の全盛期にはすこしも珍らしい出来ごとではない。
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
爾時そのときは……、そして何んですか、せつなくって、あとでふせったと申しますのに、爾時そのときは、どんな心持こころもちでと言っていのでございましょうね。
春昼後刻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
再びこれをかの光——かく大いなることを約しゝ——にむかはせ、せつなる情を言葉にこめつゝ汝等は誰なりや告げよといへり 四三—四五
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
彼はせつにそれを知りたかった。栄之丞が帰ったあとで、彼はいろいろにして訊こうとした。すると、八橋の返事は案外であった。
籠釣瓶 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
お京自身も、せつない胸のうちをおさえかねながらも、持ちまえの負けじ魂で、いたずらに、男の膝下に叩頭こうとうすることは、きらいであった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
それが妙に彼の心を広々と——そしてせつなくさした。涙が流れ落ちそうだった。彼は明るい街路まで走り出して、少し行って、辻俥に乗った。
野ざらし (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
しか一人ひとりでもふところのいゝのがにつけば自分じぶんあとてられたやうなひどせつないやうなめう心持こゝろもちになつて、そこに嫉妬しつとねんおこるのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ただ黒髪山の山菅やますげに小雨の降るありさまと相通ずる、そういううら悲しいようなせつなおもいを以て序詞としたものであろう。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
勿論もちろん先生の比類なき頭脳の力によるものであるが、今一つ先生の心の温かみというものが非常に重大な役割をしているとせつに思われるのである。
指導者としての寺田先生 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
それからまた伯爵は、彼女のせつなる願いによって、自分の家僕を彼女の家事取締りのために付けてやることをも承諾した。
このごろは母を思うの情がいっそうせつになって、土曜日に帰るみちでも、稚児ちごを背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
署長がそんな風に考えたのはもっともであった。彼は小説家の機嫌を悪くしないように用心しながら、せつに帰宅を勧めた。
嗚呼ああ、先生なんぞ予をあいするの深くしてせつなるや。予何の果報かほうありて、かかる先生の厚遇こうぐうかたじけのうして老境ろうきょうなぐさめたりや。
実業家がそのぎょうにつくに、個人の利益をむねとして差支さしつかえないと断言するについても、読者の曲解きょっかいなきことをせつに望む。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
元來ぐわんらい自分じぶんだい無性者ぶしやうものにておもたつ旅行りよかうもなか/\實行じつかうしないのが今度こんどといふ今度こんど友人いうじん家族かぞくせつなる勸告くわんこくでヤツと出掛でかけることになつたのである。
湯ヶ原ゆき (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
「あの、なりませぬ! なりませぬ! どのようなお方もいつせつ通してならぬとの御院代様御言いつけにござりますゆえ、お通し申すことなりませぬ」
ひまさえあればその事のほかに余念もなく、ある時は運動がてら、水撒みずまきなども気散きさんじなるべしとて、自ら水をにない来りて、せつに運動を勧めしこともありき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
瀧口は、あはやと計り松の根元ねもと伏轉ふしまろび、『許し給へ』と言ふもせつなる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片ふたひらみひら、誘ふ春風は情か無情か。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
聡明そうめいなるそなたにこれ以上いじょう多言たごんようすまいと思う。せつに、そなたの反省はんせいをたのむ。そしてそなたが祖父そふ機山きざんより以上いじょう武士もののふぎょうをとげんことをいのる。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
戀人こひゞとうれしさは、寺子共てらこども書物しょもつはなるゝ心持こゝろもちおなじぢゃが、わかるゝときせつなさは、澁面じふめんつくる寺屋通てらやがよひぢゃ。
が、わたくしこころうへには、せつないほどはつきりと、この光景くわうけいきつけられた。さうしてそこから、ある得體えたいれないほがらかこころもちがあがつてるのを意識いしきした。
蜜柑 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
彼の運命がこの世におけるよりは、あの世においていっそう幸福ならんことを、わたしはせつに祈るものである。
路傍みちばたに寝ている犬をおどろかして勢よくけ去った車のあとに、えもいわれず立迷った化粧のにおいが、いかに苦しく、いかにせつなく身中みうちにしみ渡ったであろう……。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
子貢曰く、詩に「せつするが如く、するが如く、たくするが如く、するが如し」と言えるは、それこのいか。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
昨年創始せられた新嘗にいなめ研究会の成績がせつに期待せられるとともに、一方にはまた稲の品種の精密なる比較検討によって、追々にその伝来の路筋みちすじを明かにし
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
私の親しい只一人の友達が止を得ぬ事からその名を呼びずてにされて他人の用を足さなければならない境遇にあるかと思うと、涙もこぼれないまでにせつない。
M子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身にせつならずして他に関係するものの如し。
日本男子論 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
華やかな白熱燈の下を、石甃いしだたみの路の上を、疲れ切つた流浪人るらうにんのやうな足どりで歩いて居る彼の心のなかへ、せつなく込上げて来ることが、まことにしばしばであつた。
此日放牧場の西端に立って遙に斗満とまむ上流の山谷さんこくを望んだ時、余は翁が心絃しんげんふるえをせつないほど吾むねに感じた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
いや、事に依ると、滋幹は、四十二三歳に及んでから、いよ/\母を思う念がせつになって、生れて始めてこう云うものを筆にする気になったのではなかろうか。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
失はれた樂園に對する人知れぬせつない未練を持つてゐる私と同じくそれを見出してはゐないのだと思つた。
子貢曰く、詩に云う、せつするが如く、するが如く、たくするが如く、するが如しとは、其れれを之れ謂うかと。子曰く、や、始めてともに詩を言うべきのみ。
論語物語 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
「私はその時申上げる事をせつに願って居りましたけれども、これを申上ぐるについて一つのうれいとおそれとを懐いて居りましたゆえ申上げなかったのでございます。」
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
女が男子を選択する位置にいた。上古の歌はおおむね男子がそのせつない心を女に伝うる機関であった。
私の貞操観 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
かれ先刻さっき学校がっこうまどのところですずめにかって、おかあさんに伝言ことづけをしてくれるようにとせつたのんだが、なにかいってくれたかしらとおもいながらいえかえってきました。
残された日 (新字新仮名) / 小川未明(著)
格子こうし透間すきまからお君のおもてにまで射し込んでいるので、夢よりはいっそうせつないわが身に返りました。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しからば、死刑執行者しけいしつかうしやれてまゐらう』とせつまをされて、王樣わうさまいそいでつてお仕舞しまひになりました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
母へ対して済まぬから此処こゝは此のまゝ帰って、母を見送ったるのちは彼等兄弟は助けては置かれぬと、癇癖をこう無理に押え付けてこらえまするはせつないことでございます。
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
いなちゝではありません。ともであります。ほんとにともでありたいと、それをせつねがふものです。
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
また人手の少ない委員会の面倒な仕事を手伝ってくれるようにせつに懇望されたにもかかわらず、臨終に際して、自分は悪夢におそわれているということを明言しながら
せつねがところは、わが七千餘萬よまん同胞どうはうは、たがひ相警あひいましめて、くまでわが國語こくご尊重そんてうすることである。
国語尊重 (旧字旧仮名) / 伊東忠太(著)
夫人ふじんとも/″\せつすゝめるので、元來ぐわんらい無遠慮勝ぶゑんりよがちわたくしは、らば御意ぎよゐまゝにと、旅亭やどや手荷物てにもつ當家たうけ馬丁べつとうりに使つかはし、此處こゝから三人みたり打揃うちそろつて出發しゆつぱつすることになつた。
時とすると、うたもうたってくれた。かなしいふしの時も楽しい節の時もあったが、しかしいつもおなじような種類しゅるいのものだった。そしてクリストフはいつも同じせつなさをかんじた。
ジャン・クリストフ (新字新仮名) / ロマン・ロラン(著)
俺はあれの前では、こんなせつなげな眼付めつきをしては居らない。愛子は俺の心を読む術を知つて居る。俺が黙つて居る間にも、俺が何を思念し欲求して居るかを看取してしまふ。
畜生道 (新字旧仮名) / 平出修(著)