發掘はつくつ)” の例文
新字:発掘
太古たいこ遺跡ゐせき發掘はつくつに、はじめてくだしたのは、武藏むさし權現臺ごんげんだいである。それは品川しながはたくからきはめてちかい、荏原郡えばらぐん大井おほゐ小字こあざこと
はたしてそれは貝塚かひづかでありまして、石器せつき土器どき多數たすうたのです。これが日本につぽんにおいて貝塚かひづか研究けんきゆうするために發掘はつくつした最初さいしよであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
此故にコロボツクルの食物は如何なる物なりしかとの事を知らんとほつせば宜く貝塚を發掘はつくつして諸種の遺物いぶつに注意すべきなり。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
西暦せいれき千七百四十八年せんしちひやくしじゆうはちねん一農夫いちのうふ偶然ぐうぜん發見はつけんによりつひ今日こんにちのようにほとんど全部ぜんぶ發掘はつくつされることになつたのである。
火山の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
曇後晴くもりのちはれ午前ごぜん時頃じごろ瓢箪山ひようたんやま到着たうちやくしてると、發掘はつくつすで進行しんかうして赤鉢卷隊あかはちまきたい活動くわつどうしてるが、一かうかはつたことい。
また近年きんねんこの洞穴ほらあな發掘はつくつして、むかし彩色さいしき使つかつた繪具えのぐ發見はつけんせられたので、それらは洞穴ほらあなそばにある番人小屋ばんにんごやにあるちひさな陳列室ちんれつしつならべてありました。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
これで病附やみついた東皐子とうくわうしは、翌日よくじつ徒弟とていおよ穴掘あなほり老爺おやぢ同行どうかうして、さかんに發掘はつくつし、朝貌形完全土器あさがほがたくわんぜんどきしたなどは、茶氣ちやき滿々まん/\である。
また近頃ちかごろ發掘はつくつされたツタンカーメンといふ王樣おうさまのおはかから黄金きんづくめのすてきな品物しなものやまのように陳列ちんれつせられて、ひとをびっくりさせてをります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
そもそ此所こゝ千鳥窪ちどりくぼが、遺跡ゐせきとしてみとめられたのは、隨分ずゐぶんふることで、明治めいぢ二十一ねんの九ぐわつには、阿部正功あべせいこう若林勝邦わかばやしかつくにの二すで發掘はつくつをしてる。
其後そのごぐわつ二十八にちに、内山うちやま九三らう發掘はつくつして、大把手おほとつてした。其記事そのきじ東京人類學會雜誌とうきやうじんるゐがくゝわいざつしの八十六がう記載きさいせられてある。
かゝる大發掘だいはつくつこゝろみてから、非常ひじやう此所こゝ有名いうめいつたが、いま兒島惟謙翁こじまゐけんおう邸内ていない編入へんにふせられて、とて普通ふつうでは發掘はつくつすること出來できずにた。
ぐわつ此日このひ單獨たんどくき、だい回目くわいめ發掘はつくつ場所ばしよより二三けんした大根畑だんこんばたけ發掘はつくつして、だいイのごと土器どきふたた。
其後そののちまたくわい此所こゝつたが、格別かくべつものなかつた。發掘はつくつはそれりであるが、表面採集ひやうめんさいしふにはそれからも度々たび/″\つた。
發掘はつくつ結果けつくわ依然いぜんとして多量たりやう彌生式土器破片やよひしきどきはへんおよどう徳利形とくりがた上半部じやうはんぶを(水谷氏みづたにし、二望蜀生ばうしよくせい、三掘出ほりだした。
其人そのひとうてると、自分じぶん持地もちちからは澤山たくさん破片はへんるが、たれ發掘はつくつしたこといといふ。らば近日きんじつ發掘はつくつをさしてれと其場そのば手金てきんつた。
坪井博士つぼゐはかせ八木氏等やぎしとう著書ちよしよ東京人類學會雜誌とうきやうじんるゐがくくわいざつしおよ考古界等かうこかいとうみ、また水谷みづたにたに栗島くりしま諸氏しよし各所かくしよ遺跡ゐせき發掘はつくつするにいたつて、益々ます/\趣味しゆみかんじてた。
如何いか不有望ふいうばう貝塚かひづかだとて、これだけの大部分だいぶぶん發掘はつくつして、小破片せうはへんぬといふ、そんなのはいまかつい。
最初さいしよ余等よら發掘はつくつした方面はうめんあたつて、ひとすう男女だんぢよがつして十二三にん大發掘だいはつくつをつゞけてるのを發見はつけんした。
斯學しがく熱心ねつしんなるこうは、焚火たきびにもあたられず、たゞちに車夫しやふ指揮さしづして、あな上部じやうぶはう發掘はつくつはしめられた。
其所そこ發掘はつくつ機會きくわいた。千載せんさいの一ぐう。それに參豫さんよしたは、じつ採集家さいしふかとしての名譽めいよ此上このうへい。
三十五ねんの九ぐわつわすれたが初旬しよじゆんであつた。それが權現臺ごんげんだい最初さいしよ發掘はつくつで、其頃そのころたく陣屋横町ぢんやよこちやうつて、活東くわつとう望蜀ばうしよくの二同住どうじうしてた。のち玄川子げんせんした。
おそらく此後こののちからうとおもふ。いまところでは養子やうしやうともかんがへてらぬ。されば生活せいかつあまりあるときには、それをこと/″\そゝいで遺跡ゐせき發掘はつくつるのである。
さらまた時間じかんゆうし、浪人生活ろうにんせいくわつ氣樂きらくさは、何時いつでもかまはず發掘はつくつ從事じうじするとが出來できるのである。
其所そこ活東くわつとう花舟くわしう應援おうえんとしてつてたので、同勢どうぜいにんり、じつにぎやかな發掘はつくつであつた。
初心しよしん發掘はつくつとしては權現臺ごんげんだい大成功だいせいこうであつた。無論むろん遺物ゐぶつ豐富ほうふでもつたのだが、たくからちかいので、數々しば/″\られたのと、人手ひとでおほかつたのも勝利しやうり原因もとであつた。
土方どかた親方おやかたついいてると、すで一月以上ひとつきいじやう發掘はつくつつゞけてるので、う二三にち此所こゝ終局しうきよくだ。これは貝灰かひばい原料げんれうとして、横濱よこはま石灰製造所いしばいせいざうしよつたのだといふ。
電車でんしや神奈川かながははじめてつうじたときに、其沿道そのえんだう低地ていちに、貝塚かひづか發見はつけんしたといふひとせつき、實地じつちついてチヨイ/\發掘はつくつしてて、破片はへんにほひもせなんだれいかんがへ、また橘樹郡たちばなごほりたる貝塚かひづか
大學側だいがくがはでも、その翌日よくじつ新發見しんはつけん横穴よこあなつひ調査てうさつゞけられたのみで、それかぎり、發掘はつくつ中止ちうしされ、十一にちには坪井博士つぼゐはかせ講演かうえんがあつたゞけで、瓢箪山大發掘ひやうたんやまだいはつくつの一段落だんらくいた。
發掘はつくつ開始かいしされたが、わるときには何處どこまでもわるいもので、東面とうめん地主ぢぬし西面せいめん地主ぢぬしとは、感情かんじやう衝突しようとつなにつて、西面せいめんはうへ無だんけるとはしからんとかなにとか