ひそ)” の例文
旧字:
平次は八五郎を突飛ばすやうに、あわてて物蔭ものかげに身をひそめました。裏口が靜かに開いて、眞つ黒なものが、そろりと外へ出たのです。
「実はそこに、自分を裸体はだかにさせない気持がひそんでいるからさ。見たまえ、夢中になって踊っている人間は皆ムキ出しの人間だ——」
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一層いつそ此方こつちから進んで、直接に三千代みちよを喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、あたまなかひそんでゐた。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
呼吸いきを詰めて、うむとこらえて凍着こごえつくが、古家ふるいえすすにむせると、時々遣切やりきれなくなって、ひそめたくしゃめ、ハッと噴出ふきだしそうで不気味な真夜中。
霰ふる (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
悉達多は車匿しやのく馬轡ばひを執らしめ、ひそかに王城を後ろにした。が、彼の思弁癖はしばしば彼をメランコリアに沈ましめたと云ふことである。
侏儒の言葉 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ひょっとすると、この船中にこっそりとひそんでいて、船客をおどかしておいて何かの物品を盗もうとする奴がいないとも限りません。
なお見るとそこから十数間はなれた、満天星どうだんの木の蔭の暗い所にも、同じ姿をした二人の人間が、館の方を睨みながらひそんでいた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
襖の蔭から飛出した白いものは、云うまでもなく麻睡薬ますいやくをしませた布で、そこにもう一人の悪党がひそんでいて、彼の不意をうった訳だ。
恐怖王 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
この深夜しんや、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアをめる男は誰人だれ? そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処にひそめる?
恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼の胸底には、武将としての野心の外に、そう云うものとは甚だ縁の遠い、甘い、やさしい、綿々たる恋情がひそんでいたであろう。
其処そこに北太平洋がひそんで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花おばなの白く光る山腹を、波状をいて蛇の様にのたくる。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
其処そこで生徒に訊いて見ると、田辺先生は時々しか出席簿を付けないと言つた。甲田はひそかに喜んだ。校長も矢張遣るなと思つた。
葉書 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
この亡夫と云ふ言葉に、この寢室の祕密が——この寢室の堂々としてゐながら、打ち棄てゝかへりみられないと云ふ魔力が——ひそんでゐるのだ。
もうそら何處どこにかいきほひをひそめて躊躇ちうちよしてはずはる先立さきだつて一取返とりかへさうとするものゝごとさわいで/\またさわぐのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
言うに言われぬ甘美かんびなもの、いわば女性的なもの……に対する、半ば無意識な、はじらいがちの予感が、ひそんでいたのだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
「毒風肌を切る」葱嶺パミールをこえるに当って、玄奘は「竜王のひそむ大竜池」のほとりを通っている。それは、紺碧こんぺきの「無限の深淵しんえん」なのである。
『西遊記』の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
みんなは、いきひそめてだまって、そのおとみみかたむけたのです。すると、ひづめのおとは、だんだんあちらにとおざかっていきました。
赤い姫と黒い皇子 (新字新仮名) / 小川未明(著)
細い管のなかにひそんでいて、滅多にその姿を見せないが、その狐がいろいろのことを教えてくれるので、狐使いは占いのようなことをやる。
半七捕物帳:58 菊人形の昔 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因がひそんでいるのであります。
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
前にはこの得体えたいの知れぬものがひそんでいる。そこで直ちに私は自分の知らぬ危険よりはむしろ自分の知っている危険の方を取ることにした。
山鳴り谷答えて、いずくにかひそんでいる悪魔あくまでも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にもまぎれずに聞えた。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
これは母の言うところよって迷信をおさえ神経を静める方法もあろうかと思ったからです。すると母はしばらく考えてましたが、吐息といきをして声をひそ
運命論者 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
その何の奇もない文面の裏にひそめてある幾つかの特長を拾ってすら、ここに想像も及ばぬ一個の淫獣の全貌を組み立ててくるのがわかります。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
しぼり掛け/\てこゝろみしに何れも血は流れて骨に入ずかゝる所へ挑灯ちやうちんひかりえしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と早々さう/\木立こだちなかへ身をぞひそめける
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
○問題とされてゐる句は、少陵の野老声を呑んで哭す、春日ひそかに行く曲江の曲といふ句で始まる七言古詩の結句である。
最初、船頭をすかして、夜中ひそかに黒船に乗り込もうとしたけれども、いざその場合になると、船頭れんは皆しりごみした。
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
秘めかくした恋を見咎みとがめられて、身縁みよりのこの家に、追放された当座の身をひそめているあの道弥とお登代の二人だった。
老中の眼鏡 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
それらのものにひそむ美が認識されるまでに、今日までの長い月日がかかった。私たちはあながちそれをとがめることは出来ぬ。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
何か原因のまだとらえられぬものが有るのではないか。小さなことのようだが手掛てがかりはこんなところにひそんでいると思う。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
愛というものは、そんなに痛快なものではないのでございます。どちらかと申せば、緩慢な、歯痒はがゆいところに慈悲がひそんでいることもございます。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ミルトンのたからかにぎんじたところ饑渇きかつなか々にしがたくカントの哲学てつがくおもひひそめたとて厳冬げんとう単衣たんいつひしのぎがたし。
為文学者経 (新字旧仮名) / 内田魯庵三文字屋金平(著)
これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何ともいえない悲壮の神秘がひそんでいると断言しているのである。
妾宅 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
金五郎の顔に、口にふくんだ水を吹きつけたマンは、パイプのかげにひそんだので、金五郎の眼には、とまらなかった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
切害せつがい致し候者は春部梅三郎と若江とこれ/\にて目下鴻ノ巣の宿屋にひそよし確かに聞込み候間早々の者を討果うちはたされ候えば親のあだを討たれ候かど
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
其晩そのばん湿しめやかな春雨はるさめつてゐた。近所隣きんじよとなりひつそとして、れるほそ雨滴あまだれおとばかりがメロヂカルにきこえる。が、部屋へやには可恐おそろしいかげひそんでゐた。
背負揚 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
いたるところに泥沼や堰返せきがえしのよどが隠れていて、地理を知るモスタアとダグラスには絶好のひそみ場所を与えている。
チャアリイは何処にいる (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
ちよつとひそかに上洛じょうらくされたやうなうわさもありましたので、それを種に人をお担ぎになつたのでございませう。鶴姫様の御悲歎ひたんは申すまでもございません。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
よろこびに声をひそめた彼の顔は、ひげの中で彼女の衣の射る絹の光を受けて薄紅にえていた。部屋の中で訶和郎の死体が反絵の腕をすべって倒れる音がした。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
それで一たんは静まつたやうではあつたが、その中にはかへつて不気味な気配けはいひそまつてゐた。黒くかたまつた人達はその場を去らうとはしなかつた。
医師高間房一氏 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
それを蔽うてあふれるものもある、ね、気を附けて、袴野はその言葉にいつわりなぞひそむものではないと思った。
此家こヽにも學校がくかうにも腦病なうびやう療養れうやう歸國きこくといひて、たちいでしまヽ一月ひとつきばかりを何處いづくひそみしか、こひやつこのさても可笑をかしや、香山家かやまけ庭男にはをとこみしとは。
暁月夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
その石も、樹も、皆、水の威力に牽引されているようで、濶々ひろびろとした河原に、一筋水が走っている。この水のみが、活物の緑をひそめているかと思われる。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其処に恋人などの関係があるにしても、それは奥にひそめる方が鑑賞の常道のようである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
夜業やげうの筆をさしおき、枝折戸しをりどけて、十五六邸内ていないを行けば、栗の大木たいぼく真黒まつくろに茂るほとりでぬ。そのかげひそめる井戸あり。涼気れうきみづの如く闇中あんちう浮動ふどうす。虫声ちうせい※々じゞ
良夜 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
暗灰色の夕空、濃いやみにつつまれてゆく野ッ原——、何もかも窒息させられてしまい、この凄惨せいさんな景色のどこに「春」がひそんでいるなどと考えられようか⁈
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
『瀬川君、大層陽気ぢやないか。』と敬之進は声をひそめて、『や、大一座おほいちざだ。一体今宵こんやは何があるんだらう。』
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
しかるにそのおいなる田崎某たざきぼう妾に向かいて、ある遊廓にひそめるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合まちあい女将おかみで来りて、あらずと弁ず。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
前掲の孔子の語において内にひそめて表現せられているものが、ここでは表面に露出せられたというだけである。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
櫻木海軍大佐さくらぎかいぐんたいさいまこのたうちゆうひそめてかねくわだつるといふ、軍事上ぐんじじやう大發明だいはつめい着手ちやくしゆしてるのではあるまいか。讀者どくしや諸君しよくんおそらく此邊このへん想像さうぞうくだらう。
しかし、満面に微笑の輝いているその容貌の表情には、完全なる美にはいつでもつきもののあの憂鬱ゆううつの微かな影が(不可解の変則だが!)やはりひそんでいた。