此方こなた)” の例文
此方こなたは愈大得意にて、ことさらしずかに歩めば、二人は遂に堪へ兼ねて、言葉をかけ、予の成功を祝せし後、「何処にて釣り候ぞ」と問へり。
釣好隠居の懺悔 (新字旧仮名) / 石井研堂(著)
「ぢや、ねいさんは何方どちらすきだとおつしやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、かほしかめてうながすを、姉は空の彼方あなた此方こなたながめやりつゝ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
しかるにしょうと室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、しきりに妾の生地を尋ねつつ此方こなたの顔のみ注視するていなるに、妾は心安からず
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
上杉の隣家となりは何宗かの御梵刹おんてらさまにて寺内じない広々と桃桜いろいろうゑわたしたれば、此方こなたの二階より見おろすに雲は棚曳たなびく天上界に似て
ゆく雲 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
夫人この時は、後毛おくれげのはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のようなうなじ此方こなたに、背向うしろむき火桶ひおけ凭掛よりかかっていたが、かろく振向き
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
此方こなたへ振向いたお雪の顔を見あげると、いつものように片靨かたえくぼを寄せているので、わたくしは何とも知れず安心したような心持になって
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
まなこはなたず睥睨へいげいしてる、猛狒ゴリラ益々ます/\たけ此方こなたうかゞつてる、この九死一生きうしいつしやうわか不意ふいに、じつ不意ふいに、何處どこともなく一發いつぱつ銃聲じうせい
さりながら嬢と中川は向う側にあり、客の三人此方こなたに並んでせり。結句けっくこの方が嬢の顔を見られて都合好しと大原はあながちにくやまず。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
こうして、此方こなた、諏訪明神の、境内もいよいよ寂しくなり、嵐をはらんだ杉の梢が物凄く颷々ひょうひょうと鳴るばかり、他には生物いきものの声さえない。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
出す、諫鼓苔深くして鳥驚かずの意よりづと、云々、此方こなたの上世は専ら唐制を移されたれば、恐らくは金鶏の作り物にやあるべき
「わかりました。そうご意中を承れば、こんどは、此方こなたが出向いて、必ず劉岱をひきずり参らん。どうか此方をおつかわし下さい」
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
マンチュアにちっしてござれ、忠實まめやかをとこもとめ、時折ときおりそのをとこして此方こなた吉左右きッさうらせう。さ、を。もうおそい。さらばぢゃ、機嫌きげんよう。
是に於てか彼かうべを振りて、我等此方こなたに止まるべきや如何いかにといひ、恰も一の果實このみに負くる稚兒をさなごにむかふ人の如くにほゝゑみぬ 四三—四五
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
のべ長助お光の兩人は是で此方こなた拔目ぬけめはないと小躍こをどりをして立戻り長助はたゞちに訴訟書をぞしたゝめけるすべて公事は訴状面によつ善惡ぜんあく邪正じやしやう
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
大きな雨滴あまだれの落ちる木陰こかげを急いで此方こなたにやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈えしゃくして笑顔を見せて通り過ぎた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
たとへば敵の毛羽艶やかに峨冠がくわん紅にそびえたる鶏の如く、此方こなたは見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸あらはに貧しげなるが如くであつたが
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
トいいながらしずかに此方こなたを振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋蠋いもむしほどの青筋を張らせ、肝癪かんしゃくまなじりを釣上げてくちびるをヒン曲げている。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方こなたを向かざらんと為つつ、蕭索しめやかつかふ音を立つるのみ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
子規の「仰臥漫録ぎょうがまんろく」には免れ難い死に当面したあの子規子しきし此方こなたの世界に対する執着が生々しいリアルな姿で表現されている。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
それと同時に此方こなたは文治の身の上、石川土佐守殿は再応文治をお取調べの上、口証爪印こうしょうつめいんも相済みまして、いよ/\切腹を仰せ渡されました。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
かくして塔はむねに入り、棟はとこつらなって、不忍しのばずいけの、此方こなたから見渡すむこうを、右から左へ隙間すきまなく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
而して近隣の村々が、彼方にも、此方こなたにも黒くなってこんもりとした森の中にしずかに溜息を洩らしているように見られた。
凍える女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
其方そなたはけたたましう何を呼ばうのぢや。(額に手をかざして、下手の方を眺めやり、また此方こなたを向きて。)何が起つたのぢや。
南蛮寺門前 (新字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
よし其儀ならば坐して滅亡を招かんよりは此方こなたより攻入つて武勇の程を示さんにはしかずとて、去年の冬頃より内々人数を狩り催す云々
余等はまた土皿投かわらけなげを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返ちゅうがえりして手もとに舞い込む様に此方こなたの崖に落ち、中々谷底たにそこへはとどかぬ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
感歓かんくわんまりて涙にむせばれしもあるべし、人を押分おしわくるやうにしてからく車を向島むかふじままでやりしが、長命寺ちやうめいじより四五けん此方こなたにてすゝむひくもならず
隅田の春 (新字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方こなたより、しいても勧めんと思ひしなり。おもいのままに武者修行して、天晴れ父の仇敵かたきを討ちね」
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
たちまち人の跫音に心附こころづいたと見えて、灰色のおどろ髪を振乱ふりみだしつつ此方こなたきっみかえった。市郎はつかつかと眼前めさきに現れた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
わたくしは此方こなたより訪ふべき人に訪はれたのであるから、先づ其枉顧わうこの好意を謝した。そして京水との親属関係を問うた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
その中に運の悪い道筋を取ったものが、彼方の山から、此方こなたの谷から、いろいろと落ち合って、遂に一つの「エタ」という大川になったのである。
エタ源流考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
せっかく、飛び出した男が持て余している時に、柳橋の角から、星明りの闇夜やみよに現われた人影が一つ、蹌々踉々そうそうろうろうとして此方こなたに向いて歩いて来ます。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
船頭らしき、肩幅ひろく逞しげなる男に、基督の像を刻み附けたる十字架を捧げさせて説教せり。此方こなたには聽衆いと少し。
果して、汽笛の音を聞きつけると、彼方かなたの入江、此方こなたの島影から、端艇ボートが姿を現わし、本船目指してぎ寄せてくる。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
余吾之介は真暗な家の中に入ると、まだわずかに残る鹿の子の移り香を求めるように、彼方かなた此方こなたをよろめきましたが、最後に畳の上にドッカと坐って
十字架観音 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
右の如く解すれば同じ峠路の彼方此方こなたでも、先ず往来を開きかけたアクチーフの側と、これを受けこれを利用したるパッシーフの側とは分明であって
峠に関する二、三の考察 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「いや折角ながら早立ちの旅、お見送りは固く辞退仕る——、長々お世話に相成った、御縁もあらばまたお眼にかかろうが、此方こなたには呉々も御健固に」
おもかげ抄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
何を便たよりに尋ぬべき、ともしびの光をあてに、かずもなき在家ざいけ彼方あなた此方こなた彷徨さまよひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈〻心惑ひて只〻茫然と野中のなかたゝずみける。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
此方こなたに入らせ給へとて、奥の方にいざなひ、酒菓子くだもの種々さまざま管待もてなしつつ、うれしきゑひごこちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。
やみにもよろこびあり、ひかりにもかなしみあり麥藁帽むぎわらばうひさしかたむけて、彼方かなたをか此方こなたはやしのぞめば、まじ/\とかゞやいてまばゆきばかりの景色けしき自分じぶんおもはずいた。
画の悲み (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
且つ予は倒れたる枯木こぼくの丸太橋を彼方かなた此方こなたと小川をわたりながら馬匹の遊ぶを見るは実に言うべからざるの感ありて、恰も太古にはかくやらんと思われたり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
その縁側のあたりから、富江の声が霎時しばし聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てて、縁側伝ひに足音が此方こなたへ来る。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
利益とどろまみれの熱情との激流のさなかにあって、オリヴィエの眼と心とは、あたかも水上の花のように彼方かなた此方こなたに浮き出してる、独立せる人々の小島のほうへ
玄關げんくわんから病室びやうしつかよひらかれてゐた。イワン、デミトリチは寐臺ねだいうへよこになつて、ひぢいて、さも心配しんぱいさうに、人聲ひとごゑがするので此方こなたみゝそばだてゝゐる。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
彼女は、彼をその災難の彼方かなたの過去と、その災難の此方こなたの現在とに結びつける黄金こがねの糸であった。
彼方かなたに隠れ、此方こなたに現はれ、昼ね、夜起きて、抜けつ潜りつ日を重ね行くうちに、いつしか思ひの外なる日田ひたの天領に紛れ入りしかば、よきついでなれと英彦山ひこさんに紛れ入り
白くれない (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方こなたにも小桜の花が、咲き出したのである。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
「さあ、此方こなたもそろ/\お出掛けなさるか。今夜こそ一ちよあれを描いてやらんにや。」
ゆうしは浪のうえ御帰おんかえ御館おんやかた首尾しゅび如何いかゞ此方こなたにてはわすれねばこそおもいださずそろかしく
松の操美人の生埋:01 序 (新字新仮名) / 宇田川文海(著)
そして鳥の群が彼方かなた此方こなたの軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
此方こなた紅菊くれなゐぎく徽章きしようつけし愛嬌あいけう沢山の紳士達の忙しげなるは接待係の外交官なるべし。
燕尾服着初めの記 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)