やみ)” の例文
このやみなかに、ただ一つきているもののごとくおもわれたものがあります。それは、半丁はんちょうおきごとにともされている電燈でんとうでありました。
とりあえずやみの中を駅前の交番まで辿たどりついてきいてみたが「さあ、今頃になって宿は無理でしょうな」と巡査は極めて冷淡である。
I駅の一夜 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
しるべの燈火ともしびかげゆれて、廊下らうかやみおそろしきをれし我家わがやなにともおもはず、侍女こしもと下婢はしたゆめ最中たゞなかおくさま書生しよせい部屋へやへとおはしぬ。
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
暗いやみの中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらりと光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
時刻は夜に入りやみの深まりも増したかに感ぜられる。庭の構いの板塀は見えないで、無限に地平に抜けている目途の闇が感じられる。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
いさんでフランスへ出かけていったのに、呼び戻さなければなりますまい。あの子の将来も、まっくらやみです。それから、あの、——
新ハムレット (新字新仮名) / 太宰治(著)
離れ離れにやみの中にたたずみ、悲哀と神経衰弱とに悩み、人間をいとい人生に飽いて、もはやなんらの希望もいだいてはいなかった。
仮面をはずした目に見える悪魔どもであり、赤裸になった獰猛どうもうな魂らであった。光に照らされながら、その一群はなおやみの中にいた。
霧の上に、夜のやみが、その墨をまき始めた。一切のものが今にも失明しようとする者の、最後の視力のようにボンヤリしてしまった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
「さうだ、まつたすね。わるくすると、明日あしたあめだぜ‥‥」と、わたしざまこたへた。河野かうのねむさうなやみなかにチラリとひかつた。
一兵卒と銃 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
エンジ色の毛糸のショールを頭からかぶって、茂緒は、やみの中に見えぬわが家のあたりをながめて、母との問答を思いだしていた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
「春の夜のやみはあやなし」というようなたよりなさではあったが、話す人、聞く人もそれをさわりにしてそのままにやむ話ではなかった。
源氏物語:50 早蕨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
この怪談仕掛物のはげしいのになると真のやみの内からヌーと手が出て、見物の袖をつかんだり、蛇が下りて来て首筋へ触ったりします。
江戸か東京か (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
古ぼけた葭戸よしどを立てた縁側のそとには小庭こにわがあるのやらないのやら分らぬほどなやみの中に軒の風鈴ふうりんさびしく鳴り虫がしずかに鳴いている。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
街道の常夜燈を遠ざかるにつれて、雑木林の中は、だんだんやみが濃くなって、その闇の中に黒い影を尾行するのは非常に困難であった。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
中流より石級の方を望めば理髪所の燈火あかり赤く四囲あたりやみくまどり、そが前を少女おとめの群れゆきつ返りつして守唄もりうたふし合わするが聞こゆ。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
やがて、とことはのやみとなり、くもすみうへうるしかさね、つきほしつゝてて、時々とき/″\かぜつても、一片いつぺんうごくともえず。
寸情風土記 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
……(花岡の声は、永い間、だまっている。やみの中から、村子の姿を見つめているらしい。しまいに、低く、へえへえ、ときこえる声を ...
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
貴下はあの晩、一度工場の門を出て墓場へゆき、やみまぎれてこのほとけを掘りだし、工場へ引返したのです。そして人肉散華じんにくさんげをやりました。
人間灰 (新字新仮名) / 海野十三(著)
お浜の住み家であるトタンぶきのあばら屋から、辺りをうかがうようにして、一人の男が戸外のやみのなかに出てきたのである。
南方郵信 (新字新仮名) / 中村地平(著)
と思うと、抜打ちの太刀風に彼は早くも身をかわした。武芸の心得のある彼は路ばたの立ち木をうしろにして、やみを睨んで叫んだ。
籠釣瓶 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
背伸せのびをして、三じゃく戸棚とだなおくさぐっていた春重はるしげは、やみなかからおもこえでこういいながら、もう一、ごとりとねずみのようにおとてた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
月は出でしかど、三四しげきがもとは影をもらさねば、三五あやなきやみにうらぶれて、ねぶるともなきに、まさしく三六円位ゑんゐ々々とよぶ声す。
「まア、貴嬢あなた、飛んでも無いことおつしやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会はまるやみですよ、篠田さんの御退会で——」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
あのふさふさと巻いたかみが、あのせまくるしいはこの中に納められて、じめじめした地下のやみのなかにねむっているところを心にえがいた。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
さけぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくるあられのような征矢そや。——早くも、四面のやみからワワーッという喊声かんせいが聞えだした。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
喜太郎は狼狽うろたえながら、しわがれた声でやみの中の見知らぬ人間を誰何すいかした。が、相手はまだ笑い声を収めたまゝ、じっとしている。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その入口を通ったとき、わたしは、昔の人の住む国に逆もどりし、過ぎ去った時代のやみのなかに身を没してゆくような気がした。
たとえばドイツの「ウェッターロイヒテン」は稲妻と物理的にはほとんど同じ現象であってもそれは決して稲田のやみを走らない。
日本人の自然観 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
大石橋だいせっきょうの戦争の前の晩、暗いやみ泥濘でいねいを三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
その夜のうちにフィリピンのマルチン爆撃機は、やみのバシー海峡を飛びこえて、わが台湾屏東へいとう飛行第八聯隊れんたいの根拠地を夜襲したのである。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
香以はやみに紛れて茶屋へ引き取り、きわにはことばを尽して謝し、「金は店からすぐ届ける」と云いおわって四手よつでに乗り、山城河岸へ急がせた。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
しかしやみの空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その対立のために、この凶行もやみから闇へ葬り去られることと思ったのだろう。憲兵にとらえられたのはおそらく心外だったに相違ない。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
勘次かんじにはかそびやかすやうにして木陰こかげやみた。かれ其處そこにおつぎの浴衣姿ゆかたすがた凝然じつとしてるのをむしろからはなれることはなかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼らは申し合せたように、黙ってやみの中を辿たどって来ます。だから忽然こつぜん私たちの前へ現われるまでは、まるで気がつかないのです。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
呼び出された女童めのわらわは、雨の降り込む簀子すのこの板敷にしょんぼり立っている男の姿をやみかしながら、さも驚いたらしく云った。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
外は鈍い青色を帯びたやみである。少し乗り出して仰いで見ると、庭の木立の真上の所に月が出ている。風はちっとも吹かない。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
すなわち三時間の間やみとなったのです。暦で計算してみるとこれは日蝕にっしょくのあった時ではないから、他の理由でかかる異変が起こったのです。
もう四辺あたりが真つ黒いやみになり、その都度毎に繃帯でしばつた腕に顔を突き伏せ嗚咽をえつしてかすんだ眼から滝のやうに涙を流した。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
漆の如きやみうちに貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島むこうじま八百松やおまつに新年会ありとていまかへらざるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
此よりサンタガタまでは、まだ若干の路程あるに、やみは漸く我等の車をつゝまんとす。馭者は畜生マレデツトオを連呼して、鞭策べんさく亂下せり。
城の山は全然見えず、霧とやみとが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。
(新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
お互に手と手をとりあつて、やみの中を見すかしながら、どうしようかと途方にくれてをりました。川の音は、ます/\はげしくひゞいてゐます。
狐に化された話 (新字旧仮名) / 土田耕平(著)
翌日よくじつ新聞しんぶんには、やみなか摸摸すり何人なんにんとやらんで、何々なに/\しなぬすまれたとのことをげて、さかん会社くわいしや不行届ふゆきとどき攻撃こうげきしたのがあつた。
検疫と荷物検査 (新字旧仮名) / 杉村楚人冠(著)
奥深くはひこんで行くと、やがて、向ふのやみに、青く、きら/\と光るものがありました。いふまでもなく熊の目玉です。
熊捕り競争 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
ベンヺ こりゃなんでも、かくれて、夜露よつゆれのまくという洒落しゃれであらう。こひめくらといふから、やみちょうどおあつらへぢゃ。
対馬守つしまのかみは、咄嗟とっさにキッとなって居住いを直すと、書院のうちのすみから隅へ眼を放ちながら、静かにやみの中の気配をうかがった。
老中の眼鏡 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
半四郎君の出てゆく水の音がやみに響いてカパンカパンと妙に寂しい音がする。濁り水の動く浪畔なぐろにランプの影がキラキラする。全くのよるとなった。
水籠 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
だんだん眼がやみになれて来た時一郎はその中のひろい野原にたくさんの黒いものがじっと座ってゐるのを見ました。かすかな青びかりもありました。
ひかりの素足 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)