くちびる)” の例文
それが私の方へじろりと、何か話したそうなくちびるを動かしかけて、またすぐ目をそらした。ハンケチでしきりにひたいの汗をぬぐっている。
浴槽 (新字新仮名) / 大坪砂男(著)
届く所に果実がなっているけれど、それを手に取ると石になった。くちびるの近くに清水があるけれど、身をかがめると遠のいてしまった。
あんまひどすぎる」と一語ひとことわずかにもらし得たばかり。妻は涙の泉もかれたかだ自分の顔を見て血の気のないくちびるをわなわなとふるわしている。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
嫂は自分を見下みさげたようなまた自分を調戯からかうような薄笑いを薄いくちびるの両端に見せつつ、わざと足音を高くして、茶の間の方へ去った。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
大理石のように、光沢のあった白い頬は、あおざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、まゆは釣り上がり、くちびるは刻一刻紫色に変っていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「そんならついて来い。葡萄などもうてちまへ。すっかりくちびるも歯も紫になってる。早くついて来い、来い。おくれたら棄てて行くぞ。」
(新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
いつも髪を耳隠しに結った、色の白い、目のえしたちょっとくちびるに癖のある、——まあ活動写真にすれば栗島澄子くりしますみこ役所やくどころなのです。
或恋愛小説 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
(歯をむいて笑おうとする。しかしその歯が、くちびるにへばりついて、ひきつったしかめヅラになる。そこに現われているのは、憎悪ぞうお
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別わかれのためにいだしたる手をくちびるにあてたるが、はらはらと落つる熱きなんだをわが手のそびらそそぎつ。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
『みんな帰ってくれてありがたい!』と、花婿は言って、花嫁の両手とくちびるにキスをしました。花嫁はほほえみ、そして泣きました。
乱れた頭髪、ドス黒い顔に異様に輝く両眼、まっ赤なくちびるのあいだからのぞいて見えるきばのような白歯、しわだらけになった黒い背広服。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
葉子は顔をほてらせていた。そして庸三が出ようとすると壁際かべぎわにぴったり体を押しつけて立っていながら、「くちびるを! 唇を!」と呼んだ。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ほかの人々はみな裁判所の建物の廊下を歩く役人や法律家のように歩いており、最も愚鈍な連中でもあごを胸に埋め、くちびるをそり返し
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
うら悲しいような、あまえたいような気持ちが、自然にそんな言葉となって、かれのくちびるをもれたといったほうが適当だったのである。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
呂宋兵衛はくちびるだけをうごかして、印咒いんじゅのまなこをじだした。と思うと、そッと足もとの小石をとって、池のなかへ、ポーンと投げる。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黒目勝くろめがちな、くちびるあかい、まゆい、かみながおんなは、だまって、二人ふたりかってあたまげました。魔術使まじゅつつかいのおんなは、おしなのでした。
初夏の空で笑う女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
したとき、……おきなあかがほは、のまゝけさうに俯向うつむいて、をしばたゝいた、とると、くちびるがぶる/\とふるへたのである。
松の葉 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
ひとみのない銀杏ぎんなん形の眼と部厚いくちびる、その口辺に浮んだ魅惑的な微笑、人間というよりはむしろ神々しい野獣ともいえるような御姿であった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
トいいながらしずかに此方こなたを振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋蠋いもむしほどの青筋を張らせ、肝癪かんしゃくまなじりを釣上げてくちびるをヒン曲げている。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
機会きかいわたくしはそうしました。するとひめはしばらく凝乎じっかんがまれ、それからようやくちびるひらかれたのでございました。——
引緊ひきしまった面に、物を探る額の曇り、キと結んだ紅いくちびる懊悩おうのうと、勇躍とを混じた表情の、ひらめきを思えば、類型の美人ということが出来よう。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
くちびるをキュッと結び、寒気を耐えるように、両腕を首の下で締めつけると、ずるりと落ち、荒布あらめの下から、それは牝鹿めじかのような肩が現われた。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
と父親三郎兵衞に引き合せられて、恥かしさうに首をれましたが、頬の豊かな、くちびるの曲線の素晴らしい、まことに逸品的いつぴんてきな美しさでした。
午前九時、朝食後、小池さんが膳を台所へ下げに行き、私と二人きりになった隙を見て病人がくちびるを動かす。にーき、にーき、と云っている。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一こう憤怨ふんえんほのおのごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよとくちびるをかみぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
それから金太の目をグッとひきはたけると、自分の口をおしあてゝ、舌の先で目の中をなめまはし、くちびるで酸つぱい涙を吸ひとつてやりました。
栗ひろひ週間 (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
死人のようにほっペタをへこまして、白い眼と白いくちびるを半分開いて……黄色い素焼みたいな皮膚ひふの色をして眠っているでしょう。
狂人は笑う (新字新仮名) / 夢野久作(著)
忘れることのできないその面長な顔、瞳、くちびる、しかもかの老人が、なんとモーニングらしい装束いでたちで、すまして、ゆったりと並んでいることよ!
地図にない街 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
お祖父さんと云って、お紋はかたくくちびるみしめた。藤七はぐらりと首を垂れ、片手をふところへ入れて、胸のあたりをさすりながら続けた。
野分 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
まるで晴れた風のある日の雲のかげのように、軽いすばしこい色とりどりの情感が、絶えず彼女のくちびるのほとりに、ちらついているのだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑のひとみは、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いたくちびるは熱い息気いきのためにかさかさに乾いた。
クララの出家 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しばらくして私のくちびるをもとめるので、女のほおにふれると、泣いているのだ。私は女の涙などはうるさいばかりで一向に感動しないたちであるから
私は海をだきしめていたい (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
かつてこの茶碗にくちびるを触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
到底とてものがれぬ不仕合ふしあわせと一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理にはっても人情にははずれた言葉が御前おまえのその美しいくちびるから出るも
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
廷臣ていしんひざはしれば平身低頭へいしんていとうゆめとなり、代言人だいげんにんゆびはしればたちま謝金しゃきんゆめとなり、美人びじんくちびるはしればたちま接吻キッスゆめとなる。
今度こんどは『召上めしあがれ』といた貼紙はりがみがありませんでしたが、それにもかゝはらずあいちやんはせんいてたゞちにくちびるてがひました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
とまでは言うたが、あとはくちびる強張こわばって、例えば夢の中でもだえ苦しむ人のように、私はただ助役の顔をジッと見つめた。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
練習場の入口におしよせる観衆のなかから、くちびるほおな、職業女プロスチチュウトを呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ふと、かがみのおもてからはなしたおせんのくちびるは、ちいさくほころびた。と同時どうじに、すりるように、からだ戸棚とだなまえ近寄ちかよった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃なかごろで、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私はくちびるを固く閉じたまま、それを受けた。
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
すでぼつした。イワン、デミトリチはかほまくらうづめて寐臺ねだいうへよこになつてゐる。中風患者ちゆうぶくわんじやなにかなしさうにしづかきながら、くちびるうごかしてゐる。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
視線を据えたままじりじりと退さがって、今は彼のうしろは行き詰りであった。くちびるを鳴らして、白い手を振ったり拡げたり、前後に振りまわしたりした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
やがてかすかに病人のくちびるが動いたと思うと、かわいた目を見開いて、何か求むるもののようにひとみを動かすのであった。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
正三君はくちびるから血がしたたってものすごかった。尾沢生はたちまち鼻血を流した。一じょう虚々実々きょきょじつじつとまではいかないが、ひとしきりは実に猛烈だった。
苦心の学友 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
やや下ぶくれでくちびるが小さくいて出たような天女型の美貌びぼうだが、額にかざした腕の陰影いんえいが顔の上半をかげらせ大きな尻下しりさがりのが少し野獣やじゅうじみて光った。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
やむをえないお交際つきあいから入ったとしても私のくちびるは、見る見るうちに紫色と変色して、ふるえが止まらないのである。
楢重雑筆 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
おとよはこの時はらはらと涙をひざの上に落とした。涙の顔をぬぐおうともせず、くちびるを固く結んで頭を下げている。母もかわいそうになってうるんでいる。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
このときなみだはらはらといてた。地面ぢめんせ、気味きびわるくちびるではあるが、つちうへ接吻せつぷんして大声おほごゑさけんだ。
彼の態度はひどく頑固がんこで、みちみち彼のくちびるをもれるのは「あのいまいましい虫めが」という言葉だけであった。
黄金虫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
だんじて/\、たとへこのくちびるかるゝとも。』とわたくし斷乎だんことしてこたへた。大佐たいさ微笑びせうびてわたくしかほながめた。