かす)” の例文
四つのやぐらのそそり立つ方形の城の中は、森閑しんかんとして物音もない。絵のやうにかすむリスタアの風物のさなか、春の日ざしに眠つてゐる。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
取り替えてきた扇は、桜色の薄様を三重に張ったもので、地の濃い所にかすんだ月がいてあって、下の流れにもその影が映してある。
源氏物語:08 花宴 (新字新仮名) / 紫式部(著)
いま廿日はつかつきおもかげかすんで、さしのぼには木立こだちおぼろおぼろとくらく、たりや孤徽殿こきでん細殿口ほそどのぐちさとしためにはくものもなきときぞかし。
暁月夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
村はうららかな日にかすんでいた。麦は色づき始め、菜の花が黄色く彩どっていた。うぐいすが山に鳴き家々の庭には沈丁香じんちょうげの花がにおっていた。
静かにさす午後の日に白くひかって小虫こむしが飛ぶ。蜘糸くものいの断片が日光の道を見せてひらめく。甲州の山は小春こはるそらにうっとりとかすんで居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
戸を明くれば、十六日の月桜のこずゑにあり。空色くうしよくあはくしてみどりかすみ、白雲はくうん団々だん/″\、月にちかきは銀の如く光り、遠きは綿の如くやわらかなり。
花月の夜 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
青い稲田が一時にぽっとかすんだ。泣いたのだ。彼は狼狽うろたえだした。こんな安価な殉情的な事柄になみだを流したのが少し恥かしかったのだ。
(新字新仮名) / 太宰治(著)
灯に照らされたのは、左半面だけですが、ほんのりとかすんだ眉、大きい眼、鼻筋の柔かさも、唇の赤さも、実に非凡の美しさです。
そして右手の方、紫に淡くかすんでいるのは、早崎はやさき海峡を隔てて天草本島かも知れません。点々として、口の津らしいところが見えます。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
ぼーっとかすみだった湖と、そのそばにぬけ出した鐘塔の右ひだりに、雪をめぐらした山々が、庭の梢の眼のさめるような緑の上に望まれた。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
谿谷けいこくをはさんだ峰々は墨絵のおぼろに似て、あるいはゆるやかな、あるいはけわしい線を描きつつ酢川岳のほうへ夢のようにかすんでいく。
峠の手毬唄 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
お銀は産をするたびに、歯をこわされていた。目も時々かすむようなことがあった。二度目の産をしてからは、一層歯が衰えていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
このかすんだ空のひかりと淡い曇りをさして、この地方の土民は晴天だといっている。それほど、あおい空と陽のひかりは滅多めったに訪れてこない。
人外魔境:03 天母峰 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
その時、末席の方がガヤガヤし出したので、思わず眼を向けると、今やっと顔を出したらしい七之助の姿が、煙草たばこのけむりにかすんで見えた。
銀河まつり (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一色の海岸にうち寄せる夕浪ゆうなみがやや耳に音高く響いて来て、潮煙のうちに、鎌倉の海岸線から江の島がまゆずみのやうにかすんでゐる。
蝙蝠 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
彼はかすんで行く網膜に、その生きている唐子の刺青をむさぼる様に写し続けながら、壁に背中を寄せつけたまま、ずるずると崩れて行った。
刺青 (新字新仮名) / 富田常雄(著)
かれが沸騰せし心の海、今は春のかすめる波平らかに貴嬢はただ愛らしき、あわれなる少女おとめ富子の姿となりてこれに映れるのみ。
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
あおい海に沿った、遠くに緑の半島がかすみ、近くには赤い屋根のバンガロオが、処々ところどころに、点在する白楊はくよう並木路なみきみちを、曲りまわって行きました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
たとへばつき本尊ほんぞんかすんでしまつて、田毎たごと宿やどかげばかり、たてあめなかへふつとうつる、よひ土器色かはらけいろつきいくつにもつてたらしい。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
富士の美しくかすんだ下に大きい櫟林くぬぎばやしが黒く並んで、千駄谷せんだがや凹地くぼちに新築の家屋の参差しんしとして連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。
少女病 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
もう四辺あたりが真つ黒いやみになり、その都度毎に繃帯でしばつた腕に顔を突き伏せ嗚咽をえつしてかすんだ眼から滝のやうに涙を流した。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
ずーんと気が遠くなって、総べての物がかすんで行くような私の眼には、その声と共に満面にびを含んだナオミの顔だけがぼんやり見えます。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
倦怠けんたい彼等かれら意識いしきねむりやうまくけて、二人ふたりあいをうつとりかすますことはあつた。けれどもさゝら神經しんけいあらはれる不安ふあんけつしておこなかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
その内に日は名残なごりなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんとかすんでしまうころ、変な雲が富士のすそへ腰を掛けて来た。
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
河のおもては悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろにかすめている。荷船にぶねの帆の間をばかもめが幾羽となく飛びちがう。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼の目はかすんでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。
桜の森の満開の下 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
秋田県の山本郡などには、今から百数十年も前に、もうこの蕨ネバナを、商品として売り出す村があった(かすむ月星)。
食料名彙 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
と、彼の眼は次第次第にかすんできた。僕はお前を愛しているよ、なつかしいかわいいインゲ、と彼は心の中で言った。
春は処々に菜の花が咲き乱れて、それがかすんだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。畔道あぜみちに咲く紫色のすみれ、淡紅色の蓮華草れんげそうなども美しい。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
歯の抜けた爺さんの義太夫はすこぶる怪しかったが、それでもかなり得意らしく、時々かすんだ眼を天井に向けては、人形と入れ違いに首をふり立てた。
いなか、の、じけん (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そうして全体の景色がパノラマのようにどんよりおどんでかすんでいる。せいせいとやわらかに潤いのある眺めである。
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
ひだりはうには、六甲ろくかふ連山れんざんが、はるひかりにかゞやいて、ところ/″\あか禿げた姿すがたは、そんなにかすんでもゐなかつた。
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
はるかには暗雲の低迷したそれは恐らく驟雨しゅううの最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろとかすんだうちひらけた平野の青田あおだも眺められた。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
さきのとがった森影もりかげが、まぶしいひかりかすんでいて、とおくの地平線ちへいせんには、しろくもあたまをもたげていました。
白い雲 (新字新仮名) / 小川未明(著)
煙草たばこふかしてけむだして、けむなかからおせんをれば、おせん可愛かあいや二九からぬ。色気いろけほどよくえくぼかすむ。かすえくぼをちょいとつっいて、もしもしそこなおせんさま
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
山中の朝は、空に浮かぶ雲の色までだんだん白く光って来て、すがすがしい。坂道を登るにつれて、かすみ渡った大きな谷間が二人ふたりの目の下にあるようになった。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
赤く暗くかすんで、色の附いた空気があらゆる隙間から、室内へ、机の上へ、寝台へ、そして私たちの鼻口へ、おそらくは肺の底へまで音を立てて侵入してくるのだ。
踊る地平線:01 踊る地平線 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
そしておのおの油のような川の面や、青み渡った向う岸の蘆や、かすんだ千住の瓦斯槽ガスタンクなぞを見やった。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
うつくしき人は、白き襟に、松と桜と、濃淡色彩いろよき裾模様の、黒の着附けであった。輝くばかりのおもに、うらうらとかすめるさまの眉つき——人々は魅しさられた。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
作者不詳、海岸にいて、夜更よふけにのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らかかすんでいるように見える。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
突然大きい分度器が一つ上から大股おおまたに下って来る。それは次第に下るのに従い、やはり次第に股を縮め、とうとう両脚をそろえたと思うと、徐ろにかすんで消えてしまう。
誘惑 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
白くおぼろにかすむ——と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにパラパラと降ッて通ッた。
あいびき (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
主客が飲み且つ食う時に煙草タバコを盛んに吹かしたので、室内は煙で濛々もうもうかすむくらいになっていた。
菜種畠なたねばたけの遠く続いてる傾斜の向うに、春昼の光にかすんだ海が見え、沖では遠く、鯨がしおいてるのである。非常に光の強く、色彩の鮮明な南国的漁村風景を描いてる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
空はたいへん暗く重くなり、まはりがぼうっとかすんで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになっての前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
種山ヶ原 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
その途端に列車は動き出し、窓からサヨナラを交換したが、狭い路を辿たどって帰る淋しい背影うしろかげが月明りにかすんで見えた。二葉亭の健康の衰え初めたのはその頃からであった。
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
これも、うたにはすくない材料ざいりようで、はるかすんでてがなくかんじられるうへに、みんなこゝろののんびりしてゐる氣持きもちが、よくてゐて、しかも非常ひじよう古風こふう上品じようひん出來できてゐます。
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
雪の深い関ヶ原を江州ごうしゅうの方に出抜けると、平濶へいかつな野路の果てに遠く太陽をまともに受けて淡蒼うすあお朝靄あさもやの中にかすんで見える比良ひら比叡ひえいの山々が湖西に空に連らなっているのも
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
振返れば山々の打重なった尾根おねと谷間のはずれには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々ぼうぼうと雲にかすんでいる。文之丞はしばしここにたたずんでいると、黒門わき掛茶屋かけぢゃや
昨日きのふから此處へ來て居ります。海といふものは美しいものね。濱邊に立つてかすんだ沖の方を眺めてゐると、夢の國へでも來てゐるやうな氣がして、思はず私は涙を流しました。
孫だち (旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)