いかり)” の例文
さわやかな五月さつきの流が、あおい野を走るように、瑠璃子は雄弁だった。黙って聴いていた勝平の顔は、いかり嫉妬しっとのために、黒ずんで見えた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
けれども僕は里子のことを思うと、うらみいかりも消えて、たゞ限りなき悲哀かなしみに沈み、この悲哀の底には愛と絶望が戦うて居るのです。
運命論者 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼をかつせしいかりに任せて、なかば起したりしたいを投倒せば、腰部ようぶ創所きずしよを強くてて、得堪えたへずうめき苦むを、不意なりければ満枝はことまどひて
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ポルジイは非常な決心と抑えたいかりとを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。
かくてもいまいかりは解けず、お村の後手うしろでくゝりたる縄のはし承塵なげしくぐらせ、天井より釣下つりさげて、一太刀斬附きりつくれば、お村ははツと我に返りて
妖怪年代記 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
丈太郎のいかりは爆発しました。一喝と共に、落ち散る小判を拾って、パッ、と投げましたが、ヒョイと顔を引っ込めてその手には乗りません。
大江戸黄金狂 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
彼は附近の人に恥かしい顔を見られ乍らも、足を退いて謝罪の言葉を繰返さなければならなかった。それでも婦人のいかりは解けそうでなかった。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
しかし女は古帷子ふるかたびらの襟を心もちあごおさえたなり、驚いたように神父を見ている。神父のいかりに満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。
おしの (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
あれに嫉妒しっとを加えたら、どうだろう。嫉妒では不安の感が多過ぎる。憎悪ぞうおはどうだろう。憎悪はげし過ぎる。いかり? 怒では全然調和を破る。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
只興奮しているために、瑣細ささいな事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人をいどんで詞尻ことばじりを取って、いかりの動機を作る。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
是れは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手はいかりに乗じて人の身体からだに触れたことはない。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
と、きふひと院長ゐんちやうだとわかつたので、かれ全身ぜんしんいかりふるはして、寐床ねどこから飛上とびあがり、眞赤まつかになつて、激怒げきどして、病室びやうしつ眞中まんなかはし突立つゝたつた。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
しかるに今はシエーナにても(その頃たかぶり今けがるゝフィレンツェの劇しきいかり亡ぼされし時彼はかしこの君なりき)
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
理不盡りふじんなるいかり切先きっさきたゞ一突ひとつきにとマーキューシオー殿どの胸元むなもとをめがけていてかゝりまする、此方こなたおなじく血氣けっき勇士ゆうし、なにを小才覺ちょこざいなと立向たちむか
これも兎角セルギウスにいかりを起させるかたむきがあるので、セルギウスは不断恐しい誘惑の一つとして感じてゐたのである。
広巳の眼は光っていかりに燃えている眼であった。年老った婢はいつもの広巳とかってがちがっているのでおやと思った。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
はずかしい目にあった時などは、黙って皆を見返して考えていると、一番いいのよ。いかりくらい強いものはないけど、怒をじっと我慢しているのはなお偉いわ。
失望して——多少いかりの色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
余りいつまでも打たれているうちささえることの出来ないいかり勃然ぼつぜんとして骨々ほねぼね節々ふしぶしの中から起って来たので、もうこれまでと源三は抵抗ていこうしようとしかけた時
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
聞お光破談はだんの事の原因はやう/\わかりし物ながらいかりに堪ぬは家主が其奸計かんけい口惜くちをしき如何はせんと計りにて涙にくるる女氣の袖をしめらせゐたりしがやゝつて顏を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
と云う文治の権幕けんまくを見ると、平常へいぜいごく柔和の顔が、いかり満面にあらわれて身の毛のよだつ程怖い顔になりました。
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
黒髪バラリと振り掛かれる、あをおもてに血走る双眼、日の如く輝き、いかりふる朱唇くちびる白くなるまでめたる梅子の、心きはめて見上たる美しさ、たゞすごきばかり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
不機嫌に曇らされたこともいかりに禍ひされたこともない、靜かで信實な友情を表はしてゐるではないか。
何やら戸の外で言ひ合つてゐるのだけが聞える。間もなくドイツ人は室内に帰つて来た。そして髯男を相手に喧嘩をして起したいかりを、気の毒にもエレナに浴せ掛けた。
亜米利加アメリカではあるまいし、いかり心頭しんとうに発したものだ。そうおっしゃればそうですが、何でも困ります、あれは酒の讃美ですというんだ。わからないのも程があると思ったね。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
それだけにては愚意わかりかね候につき愚作をも連ねて御評願いたく存居ぞんじおり候えども、あるいは先輩諸氏のいかりに触れて差止さしとめらるるようなことはなきかとそれのみ心配罷在まかりあり候。
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
これを見ていかり心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、墓原はかばらにタタキ付け
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
あなたの唇はわななき、いかりと涙で輝いて居た。けれども、母様はあなたをかばいながら
少年・春 (新字新仮名) / 竹久夢二(著)
博士がひとりで二万両の金のありかを探して自分の物にしようとしたので、弟の理学士がいかりのあまり、飼い馴らしていた南洋鸚哥いんこはしに毒を塗って、兄をつかせて殺したのである。
幽霊屋敷の殺人 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ところがこの小わッぱめが遂に阿Qの飯碗を取ってしまったんだから、阿Qのいかり尋常一様のものではない。彼はぷんぷんしながら歩き出した。そうしてたちまち手をあげてうなった。
阿Q正伝 (新字新仮名) / 魯迅(著)
朗々のどかなりしもてのひらをかへすがごとくてんいかりくるひ、寒風ははだへつらぬくやり凍雪とうせついる也。
荒海あらうみいかりうては、世の常のまよいくるしみも無くなってしまうであろう。おれはいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。
応永のころ一条戻橋もどりばしに立って迅烈じんれつ折伏しゃくぶくを事とせられたあの日親という御僧——、義教よしのり公のいかりにふれて、舌を切られ火鍋ひなべかぶらされながらつい称名しょうみょう念仏を口にせなんだあの無双の悪比丘あくびく
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
伊吹虎尾いぶきとらのを、振りかざす手のいかりからになつた心臟にしがみつくまむし自害じがいした人。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
慶三は前後を忘れいかりの発するがままに、「おい、君。」とうしろから声をかけた。葉山は既に慶三の顔を見知っていたものと見え、軒燈の光に振返って少時しばし睨み合ったが、たちまち嘲るような調子で
夏すがた (新字新仮名) / 永井荷風(著)
射墜うちおとされた敵機の周囲には、激しいいかりに燃えあがった市民が蝟集いしゅうして、プロペラを折り、機翼きよくを裂き、それにもあきたらず、機の下敷したじきになっている搭乗将校とうじょうしょうこうの死体を引張りだすと、ワッとわめいて
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼はこの馬鹿げた形の狂いを感じると、お柳に対するいかりがますます輪をかけてこうじて来た。彼は寝台の上へ倒れたまま、心をなだめるように、毛布の柔かな毛なみをそろりそろりとでてみた。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々のいかりくだるのも、月輪の上部にしょくが現れればフモオル人が禍をこうむるのも、みな、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。
文字禍 (新字新仮名) / 中島敦(著)
「もしこうべをあげなば獅子ししの如くに汝われを追打ち……汝はしばしばあかしする者を入れかえて我を攻め、我に向いて汝のいかりを増し新手に新手を加えて我を攻め給う」とヨブは神の迫撃はくげき盛なるをえん
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
すると御神輿を高い処から見下したというので若者達のいかりにふれ、私はヴェランダから地面に引きずり落され散々な目にあいました。その事がそもそもこの土地で不評判になった最初だったんですの。
機密の魅惑 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
それを何ぞや小児が餅菓子もちがしを鑑定するように、いたずらに皮相の色彩に誘惑せられて、選択は当を失するのみならず、ついに先生のいかりを買うに至っては、翡翠かわせみ無智浅慮むちせんりょまことあわれむにえざるものがある。
顛落てんらくした——いかりに燃えた半四郎が、男を責め折檻した。
京鹿子娘道成寺 (新字新仮名) / 酒井嘉七(著)
小田島は呆れた後からいかりが胸へ込み上げて来た。
ドーヴィル物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
久しく抑えた、静かないかりを持っている人々。
若者はいかりふるえながら鋭い声で弁解した。
死の復讐 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
いかりをわれの吹くときは
藤村詩抄:島崎藤村自選 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
いかりであつた。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
「私を、……私を、……私を、……」といかりを帯びた声強く、月に瞳を見据えたが、さっ耳朶みみたぶに紅を染めた。胴をそらして、雪なす足を折曲げて
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お浜のいかりは際限もなく爆発します。芳年をいとしと思う心が、うまで極端に働いて、全く違った方角へ忿怒の形で発展して行ったのでしょう。
芳年写生帖 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
と、きゅうひと院長いんちょうだとわかったので、かれ全身ぜんしんいかりふるわして、寐床ねどこから飛上とびあがり、真赤まっかになって、激怒げきどして、病室びょうしつ真中まんなかはし突立つったった。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)