土器どき)” の例文
といふのが、幻花子げんくわしが、小魔石斧せうませきふや、完全くわんぜんちか土器どきなどをしたので、余等よら發掘熱はつくつねつがそろ/\高度かうどたつしかけたからである。
ある學者がくしやのごときは、土器どきらない人間生活にんげんせいかつ野蠻的生活やばんてきせいかつ土器どきをもつ人間にんげん生活せいかつ半開生活はんかいせいかつしようして區別くべつするくらゐであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
渡島國凾舘住吉町をしまのくにはこたてすみよしてう後志しりべし國余市川村、石狩いしかり空知監獄署用地ソラチかんごくしようようち日高ひだか捫別舊會所もんべつきうくわいじようら等よりは石鏃せきぞくを入れたるまま土器どき掘出ほりだせし事有り。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
それはそうと、なにかこのあたりで、おもしろい土器どき破片はへんか、勾玉まがたまのようなものをひろったはなしをききませんか。
銀河の下の町 (新字新仮名) / 小川未明(著)
と、酒、土器どきを促して、一献いっこんみ、使者にもしゃくして、また受けた後
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
素燒の土器どきより更に脆く、かよわく。
そぞろごと (旧字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
くはかついで遺跡ゐせきさぐりにあるき、貝塚かひづかどろだらけにつてり、その掘出ほりだしたる土器どき破片はへん背負せおひ、うしていへかへつて井戸端ゐどばたあらふ。
はたしてそれは貝塚かひづかでありまして、石器せつき土器どき多數たすうたのです。これが日本につぽんにおいて貝塚かひづか研究けんきゆうするために發掘はつくつした最初さいしよであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
一、石器せきき—(石の矢の根、欠き造りの石の斧、磨き造りの石の斧) 二、土器どき—瓶、鉢、壺、椀、人形。三、骨器こき 四、角器かくき
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
かんなかには、そこにのこっている白骨はっこつと、不完全ふかんぜん土器どきと、七つのかがみなどがあって、人々ひとびとをひいたのでした。その死者ししゃは、学者がくしゃが、骨格こっかくから判断はんだんして、まだわかおんなであったとわかりました。
うずめられた鏡 (新字新仮名) / 小川未明(著)
おなしきおなもんうりふたツの類型土器るゐけいどき各地かくちからるのである。それすうからかんがへても、大仕掛おほじかけもつ土器どき製造せいざうしたとへる。
本邦ほんぱう石器時代遺跡せききじだいいせきより出づる石輪中せきりんちうにも或は同種だうしゆのもの有らんかなわかごむしろの存在は土器どき押紋おしもん及び形状けいじやう裝飾そうしよく等に由つて充分に證明しやうめいするを得べし。
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
もっとも墓場はかばだとか、そのほか場所ばしよ完全かんぜん土器どきうづもれてゐることもありますが、私共わたしども發見はつけんするのはおほくは破片はへんです。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
ぼくひろった勾玉まがたまや、土器どきが、学問がくもんのうえに役立やくだつというんだよ。」
銀河の下の町 (新字新仮名) / 小川未明(著)
家族かぞくともあそびにつてたが、其時そのときに、いま故人こじん谷活東子たにくわつとうしが、はたけなかから土器どき破片はへん一箇ひとつひろして、しめした。
たゞういふはなしときは、あま遺物ゐぶつないときで、土器どきかほでも貝層かひさうからやうものなら、呼吸こきうをするのさへわすれるくらゐ
活東子くわつとうしはなうごめかして『いや、これは、埴輪はにわよりずツとふる時代じだい遺物ゐぶつです。石器時代せききじだい土器どき破片はへんです』と説明せつめいした。
ぐわつ此日このひ單獨たんどくき、だい回目くわいめ發掘はつくつ場所ばしよより二三けんした大根畑だんこんばたけ發掘はつくつして、だいイのごと土器どきふたた。
貝塚かひづか彌生式やよひしきこんじたとはうよりも、彌生式土器やよひしきどき貝塚かひづかに、土器どきこんじたとひたいくらゐ分量ぶんりやうである。
到頭たう/\此坑このあな見捨みすてるのむをぬにいたつた。(いや土器どきかゝつてゞもれば、けつして見捨みすてるのではい)
其後そののち望生ぼうせいが、土偶變形どぐうへんけいともるべき一把手とつてゆうする土器どき(第三圖ロ參照)其他そのた土器どきし。また土器どきを三ばかりした。幻翁げんおう大分だいぶした。
じつはモールスの署名しよめいは、ぼくばかりもらつたのだとおもつて、先日せんじつ杉村氏すぎむらしつたときに、じつ天下一品てんかいつぴんだ、完全くわんぜん土器どきを百もらつたよりうれしいとれいつたのだつたが
玉川向たまかはむかふ、すなは神奈川縣下かながはけんかぞくする方面はうめんには、あま有望いうぼう貝塚かひづかい。いや貝塚かひづかとしては面積めんせきひろく、貝層かひそうふかいのがいでもいが、土器どき出方でかたはなはわるい。
した破片はへんうちに、内模樣うちもやうのある土器どき内部ないぶ把手とツてゆうするのがある。これなぞも珍品ちんぴんかぞふべしだ。
れいかつたのを今回こんくわい見出みだしたのだ。俵形ひやうけい土器どきから植物しよくぶつさがしたのは、じつである。あやう人夫にんぷてやうとしたのを、引取ひきとつて調しらべたからである。
大把手おほとつて破片はへんと、ボロ/\に破壞こはれかゝつた土器どき一箇ひとつと、小磨石斧せうませきふ(第四圖ハ參照)とをた。
ぐわつ十八にち土方どかたからハガキがて、土器どきたから、加瀬村かせむら菱沼鐵五郎ひしぬまてつごらうたくまでいとある。
其時そのときは、俵形たはらがた土器どき兩手りやうてつて、眞先まつさきにあなから飛出とびだすと、高等野次馬かうとうやじうまこゑそろへて。
げんにしてへば、此貝塚このかひづか彌生式やよひしきのでもい、石器時代せききじだいのでもい、一しゆ特別とくべつ貝塚かひづかに、彌生式やよひしき混入こんにふした。土器どき混入こんにふしたと——まアひたいくらゐゐ、んにもぬ。
土版どばん完全くわんぜんちか土器どきなど、ごろ/\ころがりし、磨製石斧ませいせきふなどは、いくらでもつた。
それから一ぱうせうなる横穴よこあなのシキからは、ひと大腿骨だいたいこつ指骨しこつの一小部分せうぶぶんとがで、直刀ちよくたう折片せつべんつば鐵製てつせい寶珠形ほうじゆがたすかし)脛巾金はゞきおよ朱塗しゆぬり土器どき彌生式土器やよひしきどき類似るゐじす)とうでた。
望蜀生ぼうしよくせい完全くわんぜんなる土器どきふた掘出ほりだしてたので、きふきたいり、三十六ねん十二ぐわつ十四に、幻花翁げんくわおう望蜀生ぼうしよくせい玄川子げんせんしとの四人連にんづれ品川しながはから汽車きしや鶴見つるみ、それから一里弱りじやく下末吉村しもすゑよしむらへとつた。
すで大發掘だいはつくつをしたあとなので、土器どきはモー留守るすであつた。
土器どきなにるものかと、此時このときばかりはかんがへた。