すべ)” の例文
訓練された七名の警官は、まるで霧のように静かにすべりこみました。階下の廊下はあわ灯火とうかの光に夢のように照らし出されています。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その左右は苔の付いた崖で、僅かながらいつも水が湧き出ているため、石段は薄く氷に掩われてい、喜兵衛はそこで三度もすべった。
霜柱 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
逃隠れをしようにも、裾の長い着物が足まといになって、物につまずいたり、すべったりする。罎はたおれて残った葡萄酒が畳へ流れました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
日本につぽんアルプスの上高地かみこうち梓川あづさがはには、もといはなで、あしすべるといはれたほど澤山たくさんゐたものですが、近頃ちかごろはだんだんつてたようです。
森林と樹木と動物 (旧字旧仮名) / 本多静六(著)
それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足をすべらして落ちるような心持だとか聞いた。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
あの朝、私は便所にいたので、皆が見たという光線は見なかったし、いきなり暗黒がすべち、頭を何かでなぐりつけられたのだ。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
が、ウッカリ当局者がすべらした口吻くちぶりに由ると不法殺人であって、殺されたものは支那人や朝鮮人でないのは明言するというのだ。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
「與左吉の拾つた小判は、若旦那が懷ろから取出して、そつとすべらせ、與左吉に拾はせたに違ひない——と吉太郎が言ひますぜ」
老いも、若きも、富めるも、貧しきも、男も、女も、絶望し混雑し、一塊となって、互いに他の身体の下へすべり込もうと争った。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
振りかざした自慢の十手、ひゅうっ! と風を切って喬之助の肩へ——落ちんとして、横にすべった。喬之助がたいをかわしたのだ。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
おこのがはらったのはずみが、ふとかたからすべったのであろう。たもとはなしたその途端とたんに、しん七はいやというほど、おこのにほほたれていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
彼はなお通りを横切ろうとして、為に突き飛ばされ、ねばねばしたアスファルトの上にすべりころげ、危うくきつぶされるところだった。
「ぢや、ロザマンド・オリヴァは?」とメァリーがほのめかした。この言葉は我にもあらずメァリーの唇からすべり出たらしかつた。
俊男はまた頽默ぐつたり考込むだ。絲のやうな雨が瓦をすべツてしづくとなり、あまおちに落ちてかすかに響くのが、何かこツそりさゝやくやうに耳に入る。
青い顔 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
たちまともしびの光の消えてくやうにあたりは全体に薄暗うすぐらく灰色に変色へんしよくして来て、満ち夕汐ゆふしほの上をすべつて荷船にぶねのみが真白まつしろ際立きはだつた。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
れた道を遠泳会の一行は葛西川かさいがわたもとまで歩いた。そこから放水路の水へすべんで、舟にまもられながら海へ下って行くのだ。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
然しトルストイは理想を賞翫しょうがんして生涯をおわる理想家で無い、トルストイは一切の執着しゅうちゃく煩悩ぼんのうを軽々にすべける木石人で無い
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
猫は嘉ッコの手からすべり落ちて、ぶるるっとからだをふるわせて、それから一目散にどこかへ走って行ってしまいました。
十月の末 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
大きい石で畳んだ路が、日に照らされて艶々つやつやして、何だかすべっこい工合に町の中へ上っている。しばらくして、僕たちはその方へ降りて行った。
石ころ路 (新字新仮名) / 田畑修一郎(著)
いまちひさいことにがつくとともに、それが矢張やつぱり自分じぶんのやうにすべちた一ぴきねずみぎないことをりました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
あるいは侍従がうっかりと口をすべらせて、父の憤怒を惹き起こしたのではないか。そうして、自分に救いを求めたのではないかと思いあたった。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
しかしながら高山の山腹を少しずつ見えない速度で、しかし支うべからざる圧力で、収効果的エフェクチブすべり落ちる氷河のような力は生じないであろう。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
そこには、しびれる様に甘い匂と、ツルツルすべっこい触感と、全身で笑みくずれている巨大なる桃色の花があったのだ。
恐怖王 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
熱がひどく出ているらしい。彼はそれを測るために検温器を取ろうとした。だが、その検温器は彼の手からすべって床の上で真二つに折れてしまった。
恢復期 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
しかし、それは、西風にしかぜであって、たかみねすべった夕日ゆうひは、ゆきをはらんで黒雲くろくものうずなかちかかっていたのです。
深山の秋 (新字新仮名) / 小川未明(著)
そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗しつように歌っているから軽妙にすべって行かないのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のようにすべッこい
故郷 (新字新仮名) / 魯迅(著)
つるつるすべる乳臭い唇だ。姪は叔父を見ながら蝸牛かたつむりのようなこぶしくわえようとして、ぎこちなく鼻の横へりつけた。
御身 (新字新仮名) / 横光利一(著)
こんなにもすべっこかったか、と驚かれる夜の板の間であった。伸子は、寂しいので、益々体を揺り動かして歩いた。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴のたばをのけんとして柴をかかえたるまま山よりすべり落ちたり。そのひまにここをのがれてまたかやを苅る翁に逢う。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ほか家鴨達あひるたちは、こんな、あしすべりそうな土堤どてのぼって、牛蒡ごぼうしたすわって、この親家鴨おやあひるとおしゃべりするより、かわおよまわほうがよっぽど面白おもしろいのです。
平均を失ったその鉄の梁は、今にもずるずるとすべって、骨組だけの八階建のその大建築を、てっぺんからぶち抜いて、がらがらと落ちて行きそうだった。
秋空晴れて (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
其處そこ廷丁てい/\は石をくらに入んものとあげて二三歩あるくや手はすべつて石はち、くだけてすうぺんになつてしまつた。
石清虚 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
かっぽれにすべって転倒ころび、手品てずまの太鼓を杯洗で鉄がたたけば、清吉はお房が傍に寝転んで銀釵かんざしにお前そのよに酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「なんて、意気地がない。男ざかりが、あわアふっくらって可笑おかしくなるよ。おや、なんてえすべっこい肌だろう」
人外魔境:03 天母峰 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に湿しめりがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水がみ出してすべりそうになる。
私は急いで格子をすべり下りて、すぐ左手の隣りのうちではまだ潜戸くぐりを閉めずにあったので、それを幸いと、そこの入口に身を忍ばせてあがかまちに腰を掛けながら
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝をすべった。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へすべって、とぼけたようながします。
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
前に横たえてある棒をしっかりにぎっているうち、車はすべりだし、深い穴のなかにちてゆきます。再び、登りだしたときは、背もるような急角度の勾配こうばいでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
すべらないためにいゝ思ひつきだが、どうも、疣かなんかのやうで、見た目にも、感じがよくないから、あれは、横筋のやうなものにしてはどうかとおつしやるんです。
医術の進歩 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
深い滝道の——霧と山苔やまごけすべりそうな断崖を——岩にしがみつきながら下へ降りてゆく様子である。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
同じ黄色な菓子でも飴のやうにすべつこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。
桐の花とカステラ (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
トンチトンチたちは舟から上って、舟を引き上げるとすべを手分けして探した。そのうちに、ひとりがエゾウバユリやエゾエンゴサクの料理のつまった穴を見つけた。
えぞおばけ列伝 (新字新仮名) / 作者不詳(著)
さなかつらというつる草をついてべとべとのしるにしたものをいちめんに塗りつけて、人が足をみこむとたちまちすべりころぶようなしかけをさせてお置きになりました。
古事記物語 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
どんなに堅いお方でも其処そこ男女なんにょ情合じょうあいで、毛もくじゃらの男でも、寝惚ねぼければすべっこい手足などが肌に触れゝば気の変るもの、なれども山之助お繼は互に大事を祈る者
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
船檝ふねかじを具え飾り、さなかずらという蔓草の根を臼でついて、その汁のなめを取り、その船の中の竹簀すのこに塗つて、蹈めばすべつて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て
わが世のはての日数の経ちゆく如く、この痩せ細つたる手指をそうて、わが指金ゆびがねすべり落ちる。
法王の祈祷 (新字旧仮名) / マルセル・シュウォッブ(著)
久野は舵のところから「うん」と曖昧あいまいな返辞をしながら、かねふちから綾瀬あやせ川口一帯の広い川幅を恍惚こうこつと見守っていた。いろいろな船が眼前を横ぎる。白い短艇が向うをすべる。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
常にうぐいすを飼っていてふんぬかぜて使いまた糸瓜へちまの水を珍重ちんちょうし顔や手足がつるつるすべるようでなければ気持を悪がり地肌のれるのを最もんだべて絃楽器を弾く者は絃を
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)