彼方あなた)” の例文
「ぢや、ねいさんは何方どちらすきだとおつしやるの」と、妹は姉の手を引ツ張りながら、かほしかめてうながすを、姉は空の彼方あなた此方こなたながめやりつゝ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
と、その時、空地の彼方あなた、遙か西南の方角にあたって一点二点三点の灯が闇を縫ってユラユラ揺れたが次第にこっちへ近寄って来た。
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
郷左衛門の細智さいちに感服しながら、玉枝も、一同の後にいて、そこから細い山道づたいに、谷一つ彼方あなたの如意ヶ岳へはいって行った。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
海の彼方あなたの隠れ里を故郷として、この人間の世界へ送りつけられたというものの中で、たった一つの迷惑至極しごくなものはねずみであった。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
阿修羅のように荒れ出した金蔵が、血刀を振りかざして、遥かの彼方あなたの野原から此方こちらをのぞんで走って来る光景がありありと見えます。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
この夫に対する仕向しむけは両三年来の平生へいぜいを貫きて、彼の性質とも病身のゆゑとも許さるるまでに目慣めならされて又彼方あなたよりも咎められざるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ただそれよりもしおらしいのは、お夏が宿の庭に咲いた、初元結はつもとゆいの小菊の紫。蝶の翼の狩衣かりぎぬして、欞子れんじに据えた机の前、縁の彼方あなたたたずむ風情。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
護送役人の下知げじに従いまして、遠島の罪人一同上陸致しますると、図らずも彼方あなたに当りパッパッと砂煙すなけむり蹴立けたって数多あまたの人が逃げて参ります。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
「こはいぶかし、路にや迷ふたる」ト、彼方あなたすかし見れば、年りたるえのき小暗おぐらく茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
その晩二人は寝床へ入ってから、明朝あした自分達を生んでくれたもとの母さんを尋ねに三里彼方あなたの、隣村の杉の木の森をたずねに出る約束をしたのです。
迷い路 (新字新仮名) / 小川未明(著)
振り返ッて見ると、四十ばかりの商人体あきんどていの男が、『彼方あなた其様そんな刀の様な物を担いで通ッたら、飛んだ目に逢ひませう』
東京市騒擾中の釣 (新字旧仮名) / 石井研堂(著)
ば見て驚きかほ見合みあはする計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへもしやと一同が疑ふ餘り彼方あなたへ至り戸を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
単身林の彼方あなたに走り去ったが、その他の一同は、波越警部を先頭に、手に手に懐中電燈をかざしながら、爆破された大仏の台座の方へ進んで行った。
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
中高なかだかに造りし「ショッセエ」道美しく切株残れる麦畑の間をうねりて、をりをり水音の耳に入るは、木立こだち彼方あなたを流るるムルデ河に近づきたるなるべし。
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
何を便たよりに尋ぬべき、ともしびの光をあてに、かずもなき在家ざいけ彼方あなた此方こなた彷徨さまよひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈〻心惑ひて只〻茫然と野中のなかたゝずみける。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
すれば、かうなってしまうたうへは、あの若殿わかとの嫁入よめいらッしゃるがいっ分別ふんべつぢゃ。おゝ、ほんに可憐かはいらしいおかた彼方あなたくらべてはロミオどのは雜巾ざふきんぢゃ。
そのSHがしばらくすると、つて彼方あなたたくまえつて、和服姿わふくすがた東洋人とうようじんらしい憂鬱ゆううつはじらひの表情へうぜうで、自作じさくうたひだした。みなれにみゝかたむけた。
微笑の渦 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
十代の若さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、早くから、海の彼方あなたの作り物語や、唐詩もろこしうたのをかしさを知り初めたのが、病みつきになつたのだ。
死者の書:――初稿版―― (新字旧仮名) / 折口信夫(著)
折り柄山脈が切れはじめて横顏をあらはしにこやかに彼方あなたへとひろがるのを見たあの青い海の記憶である。
地方主義篇:(散文詩) (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
ただ俯向うつむいて呼吸いきを呑んでいると、貴婦人はひややかに笑って又彼方あなた向直むきなおるかと思う間もなく、室内は再びくらくなっての姿も消え失せた、夢でない、幻影まぼろしでない
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
踊子をどりこさそ太鼓たいこおと自分じぶん村落むらのはすぐ垣根かきねそとやうに、とほ村落むらのは繁茂はんもしてはやし彼方あなたそらひゞいてきこえる。それが井戸端ゐどばたつてるおつぎのこゝろ誘導そゝつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
彼方あなたの丈高い影は見え、此方は頭上からしらはげた古かつぎを細紐ほそひもの胴ゆわいというばかりの身なりから、気取られました様子も無く、巧くゆきましたのでございまする。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ふすまが明いて、五六冊の和本を抱えた人の、人形ならぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方あなたに据わった。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
スマトラを左舷のはるか彼方あなたに望んで印度インド洋に掛つたが、予期して居た程の暑さも無く、浪らしい浪にも遇はない。夜などは室内に毛布を掛けて寝て少し涼し過ぎる位である。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
黒く際やかになつた樫の木立の彼方あなた、赤味を帯びた金星の、低く輝くのを見るまでも続いた。
秋の第一日 (新字旧仮名) / 窪田空穂(著)
道ならぬ交際まじはりの潜めるが如き心地して、胸は訳もなく波立ち、心しきりに焦立つ折から、遥か彼方あなたに、ホテルやサルーンの燈火、更けたるを心得顔に赤々と輝くを望み見れば
夜あるき (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
彼方あなたとはたちちがふてふにはれぬかたであつた、わたしでさへ植村樣うゑむらさまなんだといたときにはお可愛想かあいさうことをとなみだがこぼれたもの、おぢやうさまのになつてはつらからうではないか
うつせみ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
心に物を思えばか、怏々おうおうたる顔の色、ややともすれば太息といきを吐いている折しも、表の格子戸こうしどをガラリト開けて、案内もせず這入はいッて来て、へだての障子の彼方あなたからヌット顔を差出して
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
わが其いたゞきに登りし時の事、エルコラノとポムペイとの來歴など、姫に聞えまつりしに、姫は耳を傾け給ひて、館に還りての後、猶大澤たいたく彼方あなたの珍らしき事どもを語り聞せよと宣給ひぬ。
電車が動き出してからも、小ひさな姿が麥畑の彼方あなたに、吹き飛ばされてでもゐるやうに見えてゐたが、ある藁葺きの家の生垣の蔭になるまで、私は名刺を持つて行つた子供から眼を離さなかつた。
ごりがん (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
「下らない」と自分は一口に退しりぞけた。すると今度は兄が黙った。自分はもとより無言であった。海にりつける落日らくじつの光がしだいに薄くなりつつなお名残なごりの熱を薄赤く遠い彼方あなた棚引たなびかしていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
丁度此の時、ドア彼方あなたの寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤かっとうを、聞くともなく耳にすると、その美しい顔に、すごい微笑を浮べると、雪のような羽蒲団はねぶとんを又再び深々と、かぶった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
雲の彼方あなた蘆薈ろくわい花咲く故郷ふるさとへ、故郷ふるさとへ、ねえ、故郷ふるさとへ……。
北原白秋氏の肖像 (新字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
秋の田の早稻田わさだくろをゆくわらべふたり見えつつ彼方あなたしをる
白南風 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
空の果に 海の彼方あなたに……
青白き公園 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
すると、彼方あなたに静かな灯影ほかげを見せていた二棟つづきの離亭はなれ。その一方の障子がスーッと開いて、銀のような総髪白髯の一人の老人が
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、また響き渡る鉄砲の音、丘の彼方あなたから聞こえて来た。数十人の山役人が山窩出現と聞き知って、山窩狩りに来たのに相違ない。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
新たな祈祷きとうの式は起こらず、海の彼方あなたから訪れたまう年々の神の恵みは、もっぱら稲を作る人々の、島ごとの小さな群に向けられていた。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
と枕のはしを指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方あなたへ廻り行きて、彼の寐顔ねがほ差覗さしのぞきつ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
の明けるに従っていよ/\安心いたしました。よう/\其の日の巳刻よつ頃になりますと、嬉しや遥か彼方あなたに当りかすかに一つの島が見えまする。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
とんでかかれば黄金丸も、稜威ものものしやと振りはらって、またみ付くをちょう蹴返けかえし、その咽喉のどぶえかまんとすれば、彼方あなたも去る者身を沈めて、黄金丸のももを噬む。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
「や。」という番頭の声に連れて、足もすそともえに入乱るるかのごとく、廊下を彼方あなたへ、隔ってまた跫音あしおと、次第に跫音。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
房総第一の高山の頂上に立った清澄の茂太郎は、この時、日が全く落ち、親しい星がかがやきはじめ、落日の遠く彼方あなたに、浩渺こうびょうたる海の流るることを認めました。
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただいとふにはゆるは彼方あなたの親切にて、ふた親のゆるしし交際のおもて、かひな借さるることもあれど、唯二人になりたるときは、家も園もゆくかたもなう鬱陶いぶせく覚えて
文づかひ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
とおを出たばかりの幼さで、母は死に、父はんで居る太宰府へくだって、はやくから、海の彼方あなたの作り物語りや、唐詩もろこしうたのおかしさを知りめたのが、病みつきになったのだ。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
更に山の方を振返ふりかえって見ると、三方崩さんぽうくずれの彼方あなたから不思議な形の黒雲くろくも勃々むくむくと湧き出して来た。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼方あなたとはたちが違ふて言ふに言はれぬい方であつた、私でさへ植村様が何だと聞いた時にはお可愛想かあいさうな事をと涙がこぼれたもの、お嬢さまの身に成つてはらからうでは無いか
うつせみ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
彼方あなたの一隅には「松公ンとこちやんは朝から酒飲んでブウ/\ばかり、育つてるぢやねエか」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
お鍋女郎じょろうふすま彼方あなたから横幅よこはばの広い顔を差出さしいだして、「ヘー」とモッケな顔付。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目信濃屋しなのやげん右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み彼方あなた此方こなたと見物なし江戸第一の靈場れいぢやう淺草の觀音へ參詣さんけいし能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)