さび)” の例文
恋もなしにそんな老人と一生さびしく暮すことにでもなれば、尚更なほさら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。
或売笑婦の話 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
不思議ふしぎあねは、まちなかとおって、いつしか、さびしいみちを、きたほうかってあるいていました。よるになって、そらにはほしまたたいています。
灰色の姉と桃色の妹 (新字新仮名) / 小川未明(著)
けれど、今お前を連れて行ってはお母さんがさびしい。お母さんはお前をばかり頼りにしているんだから。だから今しばらく我慢おし。
さうしたあかいろどられたあきやまはやしも、ふゆると、すっかりがおちつくして、まるでばかりのようなさびしい姿すがたになり
森林と樹木と動物 (旧字旧仮名) / 本多静六(著)
いかさま古い建物と思われて、柱にさびがある。その代り唐紙からかみの立てつけが悪い。天井はまっ黒だ。ランプばかりが当世に光っている。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かれこもつくこをかついでかへつてとき日向ひなたしもすこけてねばついてた。おしな勘次かんじ一寸ちよつとなくつたのでひどさびしかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ふと小鳥のしば鳴きを聞くあのさびしい、切ない、併しすがすがしい涙を誘はうとするやうな心持は、確かに懺悔心ざんげしんになつたであらう。
くもならば、くもに、うつくしくもすごくもさびしうも彩色さいしきされていてある…取合とりあふてむつふて、ものつて、二人ふたりられるではない。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
貞淑ていしゅくで美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、さびしいながらも満足な晩年を経験した。
おじいさんはいままで一人ひとりぼっちで、さびしくってたまらなかったところですから、こえくとやっとかえったようながしました。
瘤とり (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
後年芭蕉ばしょうあらた俳諧はいかいを興せしもさびは「庵を並べん」などより悟入ごにゅうし季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思おもわれ候。
歌よみに与ふる書 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
下巻は浅草観音堂の屋根に群鴉ぐんあ落葉らくようの如く飛ぶ様を描き、何となく晩秋暮鐘のさびしきを思はせたるは画工が用意の周到なる処ならずや。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「あんな狂気みたいになつても、矢つ張り生きとつて呉れた方がよかつた。何やらさびしてならん。お文は俺を恨んで居やへんやろか?」
世の中へ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
いたずらに、もてあそんでいた三味線みせんの、いとがぽつんとれたように、おせんは身内みうちつもさびしさをおぼえて、おもわずまぶたあつくなった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
尖端せんたんうへけてゐるくぎと、へい、さてはまた別室べつしつ、こは露西亞ロシアおいて、たゞ病院びやうゐんと、監獄かんごくとにのみる、はかなき、あはれな、さびしい建物たてもの
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
襟へ落ちる柔かい春の陽、梅の匂ひに燻釀くんぢやうされたなごやかな風、すべてが靜かに、平和に、そして一脈のさびをさへ持つた情景でした。
急に店がさびれ出して、さきほども申し上げましたように、まるで物怪もののけに憑かれたように暗くじめじめとしておりました家の中が
蒲団 (新字新仮名) / 橘外男(著)
これは、店のさびれることを用心するには、注文の品を手堅く念入りにして、一層華客場とくいばの信用を高めることが何よりと感じたからであった。
而もその間に何とも言ひ難いさびを持つたこの聲が山から溪の冷たい肌を刺す樣にして響き渡るのは大抵午前の四時前後である。
山寺 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
その時富子は縁に佇んで、さびれて来た庭の方をぼんやり見ていた。彼女はふと眼をあげて孝太郎の顔を見たけれど、すぐに視線をそらした。
囚われ (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
あえてこのさびのついた庭の面を荒すというようなことはありませんでしたが、不意に、二つの珍客が舞い込んで攪乱こうらんしました。
大菩薩峠:34 白雲の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒せきれいさびしそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「これから先は、生涯独りで草深い里に住もうと、心に誓っておりますせいか、もうどこにいても、さびしいなどという心地はおこりませぬ」
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
尽日じんじつ北の風が吹いて、時々つめたいほそい雨がほと/\落ちて、見ゆる限りの青葉が白いうらをかえして南になびき、さびしいうらかなしい日であった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
わるいラランもすこしばかりさびしくなつてきた。今度こんどこそはらつてきた。すると突然とつぜん、ヱヴェレストの頂上てうじやうからおほきなこえ怒鳴どなるものがあつた。
火を喰つた鴉 (新字旧仮名) / 逸見猶吉(著)
都会みやこから入り込んだ薬草採り、今山から行かれてみろ、村方一円火の消えたように、ひっそり閑とさびれてしまう。こっちからペコペコお辞儀を
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店のさびれがちらついておる……。たしかに十五日じゃな」
老中の眼鏡 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
というのは、市内が一時さびれて、郊外の町々が大繁昌をした……即ち彼等の狙う相手が市外に避難したのが主な原因である。
東京人の堕落時代 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
今まで働いていたカフエーがさびれると、お君さんも一緒にそこを止めてしまって、お君さんは、長い事板橋の御亭主のとこへ帰っていたのだ。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
わたしは、ただぼんやりと空想にふけって、人目のないさびしい場所ばかり求めていた。とりわけ気に入ったのは、あのくずれ落ちた温室だった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
とうさんもその書院しよゐんましたが、曾祖母ひいおばあさんがひとりでさびしいといふときにははなれの隱居部屋ゐんきよべやへもとまりにくことがりました。
ふるさと (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
もしもそれが一枚のはがきに帰郷を報じて来たものにすぎなかったとしたら、かれはたださびしい気持ちでそれを読みすてたかもしれなかった。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
親のない故郷のさびしさということを自分は今現実に気づいたのだ。しゃがんだ自分はしばらく目をつぶって考えのおもむくままに心をまかせた。
落穂 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
そんな旧家は段々にさびれて、アパート式にもなったようですし、銀行にもなりましたが、いつかその跡もなくなりました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
が曇り日の夕方など、稍〻冷たい風が肌を襲つて来るころ、海の波の忍び/\に蘆の下葉に寄せて来る姿を見るとたまらないさびしい懐しさがある。
海潮の響 (新字旧仮名) / 吉江喬松(著)
空がくもっていましたので水は灰いろに見えそれに大へんつめたかったので、私たちはあまのじゃくのような何とも云えないさびしい心持がしました。
鳥をとるやなぎ (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
馬喰町の夜店がさびれると同時に、鳥羽絵とばえ升落ますおとしの風をして、大きな拵らえ物の鼠を持って、好く往来で芸をして銭を貰っていたのを覚えている。
梵雲庵漫録 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
生に対する深き執着と、あきらめとを持たせられた美女たちは、前代の女性ほど華やかに、湿やかな趣きはかけても、さび渋味しぶみが添うたといえもする。
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
さびしい睡蓮の花は、淋しい情景のうちに咲いてこそ、その哀愁的美、詩的情緒が私達の胸にぴったりうつって来るのです。
季節の植物帳 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
彼は硬くなって彼女の後姿を見守った、そして車のところへ戻って、提灯ちょうちんに火をけ、さびしい車輪の音をひびかせながら彼女のあとを家に帰った。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
ぼくはなんだか、その青年にニヒリズムを感じて、さびしく、そして、それが米国最後のいちばん強い印象となりました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
して一般の低地は商人街あきんどまちである。王宮は立派な近年の建築であるが、さびの附いて居ない白い石造いしづくりには難有ありがた味が乏しい。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
軒並みに伝統の気質と共に並用されて来てしかもその態度を採用するものほど繁昌し、採用しないものほど店がさびれて行く徴候のいちじるしいのが目につく。
とと屋禅譚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
互の将来の目的も語り合つて、時間の都合で一所に帰られぬ時は非常にさびしく感ずるといふ程の交情になつて了つた。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
警視庁までの間で、もっともさびしい所です。うしろをふり向くと、あとに続く二台の自動車はまだ曲がってきません。
おれは二十面相だ (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
さびしき微笑びせう)わたしのやうに腑甲斐ふがひないものは、大慈大悲だいじだいひ觀世音菩薩くわんぜおんぼさつも、お見放みはなしなすつたものかもれません。
藪の中 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
黒衣の婦人は、がっかりして、さびしく笑った。自分がこうまで一生懸命になっているのに、その報酬なら、もっとなんとかした挨拶が聞きたかった。
たいていの店は早く仕舞って、さびれた町に渦巻き立つ砂ほこりの中を小きざみに行く後姿が非常に心細げに見えた。
やもり物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
さびの味の豊かにある室内の飾りもおもしろく、あるいは兵部卿の宮の初瀬もうでの御帰途に立ち寄る客があるかもしれぬとして、よく清掃されてもあった。
源氏物語:48 椎が本 (新字新仮名) / 紫式部(著)
悶えて悶えて悶えてゐる心を、うはべのにぎやかさにまぎらはしてゐるさびしさを、人々はただ嘲笑てうせうの眼をもつて見ました。
冬を迎へようとして (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)