かすか)” の例文
旦那様は少許すこし震えて、穴の開く程奥様の御顔を熟視みつめますと、奥様は口唇くちびるかすか嘲笑さげすみわらいみせて、他の事を考えておいでなさるようでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一斉に絶えずかすかゆらいで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸いきのあるはことごとく死して、かかる者のみただよう風情、ただソヨとの風もないのである。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
さてこのあたりは夜たりがたく晝たりがたき處なれば、我は遠く望み見るをえざりしかど、はげしきいかづちをもかすかならしむるばかりに 一〇—
神曲:01 地獄 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
王宙は伯父のへやを出て庭におり、自個じぶんの住居へ帰るつもりで植込うえこみ竹群たけむらかげを歩いていた。夕月がさして竹の葉がかすかな風に動いていた。
倩娘 (新字新仮名) / 陳玄祐(著)
その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすか嘆息たんそくばかりでございます。
蜘蛛の糸 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼女かれ寝衣ねまきの袂で首筋のあたりを拭きながら、腹這いになって枕辺まくらもと行燈あんどうかすかかげを仰いだ時に、廊下を踏む足音が低くひびいた。
黄八丈の小袖 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
氏の全身は死相を現じて来たのである。ただその半ば開いた唇の辺が、時々かすかに震えているのが全く死に切れないでいる証拠であろう。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
車のわだちに傷めつけられた路は一条微赤うすあかい線をつけていた。その路は爪さきあがりになっていた。高い林の梢の上にかすかな風の音がしていた。
殺神記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
『白堊紀』の中の短篇がかすかに記憶にのぼりました。漠然雰囲気として。ここの耳鼻は詩人が中耳炎の大手術をうけたから知って居ります。
向ふの側にも柿の樹があツて、其には先ツぽの黄色になつた柿が枝もたわゝにツてゐた。柿の葉はかすかそよいで、チラ/\と日光ひかげが動く。
昔の女 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
なんまんだぶつと呟くやうに称名する大勢のものの声は、心の底から自らとろけでるやうに室中へやぢゆうに満ちた。かすかに鼻をすゝるものさへあつた。
夜烏 (新字旧仮名) / 平出修(著)
程なく彼誰時かわたれときの薄明りが、忍びやかに部屋の窓から這入はいって来た。このあかつきの近づいて来るかすかなしるしが、女のためにはひどくうれしかった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
ふと黒い空を見ると、まばらにまたゝいてゐる薄い星の間を、自分の心持の中でのやうに、それかなきかに小さい星がかすかに流れた。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
倉子が幾度も泣出さんとしほとんど其涙を制し兼る如き悲みの奥底に何処どこと無くかすかに喜びの気を包むに似たる心地せらるゝにぞ
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
かすかを無理に広いへ使って、引っ張り足りないから、せっかくの光が暗闇くらやみに圧倒されて、茫然ぼうぜんと濁っているていであった。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
春星しゆんせいかげよりもかすかに空をつゞる。微茫月色びばうげつしよく、花にえいじて、みつなる枝は月をとざしてほのくらく、なる一枝いつしは月にさし出でゝほの白く、風情ふぜい言ひつくがたし。
花月の夜 (新字旧仮名) / 徳冨蘆花(著)
「おつうとそれ、返辭へんじするもんだ」小聲こごゑでいつてかすかわらつた。勘次かんじ怪訝けげん容子ようすをしてはしらかげ凝然ぢつしかめた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家すみかをもうつし、午餐ひるげに往く食店たべものみせをもかへたらんには、かすかなる暮しは立つべし。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
一声鋭どい苦悶くもんの声が、みしめた歯の間をれたが、その声がかすかに消えると、その後へ限りない静けさが来ました。
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
𢌞廊のあなたに、蘭燈らんとう尚ほかすかなるは部屋へやならん、主はふかきにまだ寢もやらで、獨り黒塗の小机に打ちもたれ、かうべを俯して物思はしげなり。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
彼女の指先の紅らみの中に浮き出てゐたほつそりとした指半月つめのね、豊な彼女の唇を縁づけるくすぐるやうな繊細な彎曲、房々と垂れた彼女の髪のかすかな動揺と光沢
静物 (新字旧仮名) / 十一谷義三郎(著)
闇の中に、暗よりも黒いものが、かすかうごめいて、いまわしい息遣いが、徐々に徐々に、近づいて来るのが感じられる。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
断然きっぱりとお照のいい消したる時、遠く小銃のようなる音の何処いずくともなく聞えて、そがひびきにやかすかに大地の震うを覚えぬ。
片男波 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
「證據は澤山御座います。塀にはかすかな這ひ上がつた時の足の跡があり、中から差出た櫻の小枝が折れて居ります」
ひゞきはるかの海上かいじやうあたつて、きはめてかすかに——じついぶかしきまでかすかではあるが、たしかにほうまた爆裂ばくれつ發火はつくは信號しんがうひゞき
棚の物がかすかにこたえるのを見て、また例の日だなと合点する、やや慣れた心持が現れている。それが冬の夜長の闃寂げきせきたる気分と合致しているように思う。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
と、どつかで童謡を唄つてゐる声がかすかに耳にはいつて来ました。はつと目をあいて見ますとあたりはもう真暗で、遠くの方には、チラチラ灯も見えてゐました。
子供に化けた狐 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
かすかに水面に露している石が、入り乱れて立ったり、座ったりしているから、大概は、石伝いで飛ばされる。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
さて深く息して聲を出すに、その力、そのやはらかさ、能くかく迄に至らんとは、みづからも初より思ひかけざる程なりき。火伴つれのものは覺えずかすかなる聲にて喝采す。
流石さすがかすかに覚えが有るから、確かへんだなと見当を附けて置いて、さて昨夜ゆうべの雨でぬかる墓場道を、蹴揚けあげの泥をいとい厭い、度々たびたび下駄を取られそうになりながら
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
ふすまの外ではかすかな返事があって、やがてやさしい衣摺きぬずれの音とともに、水々しい背の高い婦人が入って来た。妾はその婦人を一目みて、どんなに驚いたことであろうか。
三人の双生児 (新字新仮名) / 海野十三(著)
對岸の村落のかすかな燈影などが隱見するのに出會でくはすと、自分の故郷が如何に美しい處だといふことを今更ながら思つて、一種甘美の悲哀を帶びたる情緒の起るのを感じた。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
玄關げんくわんはうかすかおとでもするか、にはこゑでもこえるかすると、ぐにあたま持上もちあげてみゝそばだてる。
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
ただすと、源三はじゅつなさそうに、かつは憐愍あわれみ宥恕ゆるしとをうようなかおをしてかすか点頭うなずいた。源三の腹の中はかくしきれなくなって、ここに至ってその継子根性ままここんじょう本相ほんしょうを現してしまった。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、かすかに受取れたが、お島は何だか厭味いやみなような、くすぐったいような気がして、後でもみくしゃにしてすててしまった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「何卒、篠田さん、御赦し下さいまし——貴所あなたの、御災難の原因もとはと申せば、——私が貴所を御慕ひ申したからで御座います——」梅子は畳に伏せり、歔欷きよき、時にかすかに聞ゆ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
と言う団さんの車屋の案内がかすかに聞える。甚だ心細い。兵営や県庁の前を通ったが、解説は矢張り聴き取り兼ねた。城内を駈け抜けた時、車屋達は一斉に足を止めて、団さんのが
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
もう一層慣れてきますと青田の苗の株と株との間にかすかに水光りのしていることや
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
朝はいちばん母の気分がいいので私は大抵起きぬけに寝巻のなりいって おはよう をいう。母もゆっくりかすかに おはよう という、はなれたところから反響してくるように間をおいて。
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
しかもこのかすかなる原始ありてこそ後のまったき発達あるのである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
すると、その時縁側の方から、かすかな衣擦れの音がした。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
初めはかすかであったその声が——遣る瀬ないその声が
プロパガンダ (新字新仮名) / 加藤一夫(著)
むかうにかすかえるのが大島おほしまですよ。』
湯ヶ原ゆき (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
折々かすかに己の心に聞えて来た。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
頼めるは、かすかなれども
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
男ははなはかすかうなづきつ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
音聲おんじやうこそはかすかなれ
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
不思議に、蛍火ほたるびの消えないやうに、小さなかんざしのほのめくのを、雨と風と、人と水のと、入乱いりみだれた、真暗まっくら土間どまかすかに認めたのである。
光籃 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
そうして狭く小さくなった彼の意識の中へかすか跫音あしおとが入って来た。それは二階の梯子段はしごだんをあがって来ているような微な微な跫音であった。
雀が森の怪異 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼女かれの痩せた肩がかすかにおののく度に、行燈の弱い灯も顫えるようにちらちらと揺れて、眉の痕のまだ青い女房の横顔を仄白く照していた。
黄八丈の小袖 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)