ただよ)” の例文
そのはなは、のめずりたおれた老人ろうじん死体したいを、わらつておろしているというかたちで、いささかひとをぞつとさせるような妖気ようきただよわしている。
金魚は死んでいた (新字新仮名) / 大下宇陀児(著)
その時分じぶんには、まだ汽船きせんなどというものがなかったので、かぜのまにまになみうえただよって、よるひるひがししてきたのでありました。
不死の薬 (新字新仮名) / 小川未明(著)
が、たちまち一面に、民力の疲弊ひへいという暗いあえぎが社会の隅から夕闇のようにただよい出した。巷の怨嗟えんさ。これはもちろん伴ってくる。
三国志:12 篇外余録 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
横手の桟敷裏さじきうらからななめ引幕ひきまくの一方にさし込む夕陽ゆうひの光が、その進み入る道筋だけ、空中にただよう塵と煙草の煙をばありありと眼に見せる。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
かじをとるさえものうき海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難きさかいただよい来て、ては帆みずからが
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
人々の立去ったあとにいつまでもただよっている一種のにおいのようなもの、——ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中にただよ無気味ぶきみさである。こころみに言水句集を開けば、この類の句はほかにも多い。
点心 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
鋭い消毒薬の臭いに混り、青臭い病臭がほのかにただよっていた。窓の外からは高く低く籾搗もみつき歌が流れて来る。右手の小入口の外側で突然
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
彼はすでに押勝に劣らぬ年齢だったが、その魂の、その識見の、その精進の厳しさによって、年齢のない水々しさがただよっていた。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
月は野の向こうにのぼって、まるくかがやいていた。銀色ぎんいろもやが、地面じめんとすれすれに、またかがみのような水面すいめんただよっていた。かえるが語りあっていた。
ジャン・クリストフ (新字新仮名) / ロマン・ロラン(著)
この歌は、中心は、「潮干満ちい隠れゆかば思ほえむかも」にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感がただよっていて佳い歌である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
海の上にただよっていることに気がついた。しかしどうして自分が海中へとびこんだのか、そのわけをさとるまでにはしばらく時間がかかった。
恐竜島 (新字新仮名) / 海野十三(著)
日は青々とした空に低くただよッて、射す影も蒼ざめて冷やかになり、照るとはなくただジミな水色のぼかしを見るように四方にちわたった。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
お里の家にもこんな匂いがただよっているか、それとも線香のけむりが舞っているかと思うと、どっちを向いても涙を誘われることが多かった。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
すると、あなたはしんからのように、そんなばかなことがあるものかと打ちけしながら、目の奥に不安の色をただよわせて見せた。
断崖 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
沙漠の旅は夜においてすものなれば、あるいは明月煌々こうこうたるの夕、あるいは星斗闌干せいとらんかんたるの夜、一隊の隊旅キャラバン香物こうものかおりを風にただよわせながら
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいがただよって、撃ちあうひびき、激しい気合いが伝わってくる。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
肌の濃かな、男にしてはにやけすぎる程色の白い彼の頬は、心もち紅をさしたかと思はれるやうな、うつすりといい感じの色がいつもただよつてゐた。
瘢痕 (新字旧仮名) / 平出修(著)
大帆も矢帆やほ小矢帆こやほも、かんぬきがけにダラリと力なく垂れさがって、かじ水先みずさきもないように波のまにまにただよっている。
顎十郎捕物帳:13 遠島船 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
子路が再び衛にもどってみると、衛侯父子の争は更に激化げきかし、政変の機運のただよっているのがどことなく感じられた。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
平野の中を流るる江河えがわのほとりであろうか、岸近く繋いだ船に、さわやかな早稲田の香が流れて来る。あるかなきかのそよ風が稲の香をただよわせるのである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
こう考えて、夫人の死顔を眺めると、気のせいか、唇のまわりに、狡猾こうかつな笑いの影がただよって居るように見えました。
印象 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
西八条の屋敷近くまでくると、甲冑かっちゅう物具もののぐをつけた兵士達が、満ち溢れて、どことなく緊迫した空気がただよっている。
じッと、くぎづけにされたように、春信はるのぶは、おせんの襟脚えりあしからうごかなかった。が、やがてしずかにうなずいたそのかおには、れやかないろただよっていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
一四三頼朝よりとも東風とうふうきそひおこり、一四四義仲よしなか北雪ほくせつをはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海にただよひ、つひに讃岐の海志戸一四五八嶋にいたりて
霧がにわかにゆれました。そして諒安りょうあんはそらいっぱいにきんきん光ってただよ琥珀こはくの分子のようなものを見ました。
マグノリアの木 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
薬局の三方硝子ガラス窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏はたんきょうの花が、鉛色の影を大地一面にただよわしていた。
笑う唖女 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
角の荒物屋が佐野吾八さんの代にならないずっと前——私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂がただよっていた時代——そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで
世才せさいある風の任意まにまにただよい行く意味にあらずして、世界の大勢に応じ、なお個人性を失わず、しこうして世界の潮流にさきだちて進むを以て教育の最大目的とせねばならぬ。
教育の最大目的 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
来月のせわしさを見越して、村でも此月ばかりは陽暦ようれきで行く。大麦も小麦も見渡す限り穂になって、みどりの畑は夜の白々と明ける様に、総々ふさふさとした白い穂波ほなみただよわす。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
その小さな卒都婆そとばが何百里という遠い海をただようて都のほうの海べに着くということがありましょうか。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
白い煙が横にただようた。風が勢いを得て来たのだ。そして原始林の中には静かに夕闇が迫って来ていた。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
そこには、アーチ形の古めかしい墓穴ぼけつが出てきたり、竪琴たてごといた天使が現われたり、物を言う花だの、はるかにただよってくるがくだの、たいした道具だてだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
次に國わかく、かべるあぶらの如くして水母くらげなすただよへる時に、葦牙あしかびのごとあがる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲うましあしかびひこぢの神。次にあめ常立とこたちの神
そして、まだどこかにただよっていそうな鐘の音を追い求めるように、ふたたびしずかに眼をとじた。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
人がひさごやうつぼ舟に乗って、なみただようて浜に寄ったという東方の昔語りは、しばしば桃太郎や瓜子姫うりこひめのごとき、川上から流れ下るという形に変り、深山の洞や滝壺たきつぼには
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
羽搏はばた元気げんきもしだいにつて、たゞつかれはてたからだは、はげしいきりのながれにつてただよつてゐた。そのとき、ラランのわるはずつとペンペをはなれて、うへほうんでゐた。
火を喰つた鴉 (新字旧仮名) / 逸見猶吉(著)
押返して訊いても執念しゅうねく口をつぐんで、よそ目には意地悪く見えるような表情を口端にただよわせた。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
その傍の素焼の大きな酒瓮みわの中では、和稲にぎしね製の諸白酒もろはくざけが高い香を松明の光の中にただよわせていた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
かつ宗教の事につきて衆人を凌虐りょうぎゃくする国あらば、兵力をもってその事に与聞するも万国公法の許すところにして、あたかも国乱久しくまず、流血きねただよわすの日にあたり
こんな不愉快な空気がこの二三年来ただようて、今日はその雲行きがいつもよりはけわしいのです。
そう云いながら、信一郎は何処どこか貴族的な傲慢ごうまんさが、ただようている小山男爵の顔をじっと見た。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
栗屋くりや君は人波にただよながら左右前後に眼と注意とを振播ふりまき始めた。と、ぐ眼の前を歩いて居る一人の婦人に彼の心は惹付ひきつけられた。形の好い丸髷まるまげと桃色の手絡からなだらかな肩。
偽刑事 (新字新仮名) / 川田功(著)
早く早くと水と水とが押合う為めか、水面みなもに一種の燐光りんこうただよって物凄い。急に寒くなった。お母さんは乃公を確乎ぎゅっと捉えている。何程無鉄砲でも、此んな処へ飛び込むものか。
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
頭髪おぐしあたま頂辺てっぺんつくったもので、ここにも古代こだいらしいにおい充分じゅうぶんただよってりました。
鼻のさきにただよう煙が、その頸窪ぼんのくぼのあたりに、古寺の破廂やれびさしを、なめくじのようにった。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かぎようによってはむれるようないやな匂いであるが、生生せいせいの気のあふれている青葉の匂いがただようていて、読書に疲れた頭を休めるには適している晩であったが、なんだか不安で厭で
雀が森の怪異 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そのうち復一の内部からかすものがあって、おやと思ったときはいつか復一は自分から皮膚感覚の囲みを解いていて、真佐子の雰囲気ふんいき圏内けんないただよい寄るのを楽しむようになっていた。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
「所が、忌憚きたんなく云へば、その時それを見て、僕は骨董品の埃を何云ふとなく聯想した。」得能は再び私の方を振り向いて云つた。その潮燒けのした淺黒い顏に、皮肉な微笑がただよつた。
猫又先生 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
鴎外の文章のうちには、不思議とも思われる一種の香気がただよっている。ほのかである。始めて接したときと数十年後とでその感触の程度に変りはない。いつも新しくいつもほのかである。