暫時しばらく)” の例文
詳しい話をしようとするつもりだったが、唇が震えて云えなかった。一郎は蓙の上にうつぶせに身を倒したきり、暫時しばらくは動かなかった。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
暫時しばらく經つと、お雪は小さい手でと老爺の禿頭を撫でて見た。ああ、毎晩、毎晩、水をつけてるのに、些ともまだ毛が生えてゐない。
散文詩 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
お母さんで見れば、私と別れたからと言って、そんならお前を何うしようというのではない。唯暫時しばらくでも傍へ置いときさえすれば好い。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
鏡葉之助は小屋の前にやや暫時しばらく立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然ゆうぜんとして湧いて来た。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
掛内に這入はひりふしみ居し折柄をりから燒場の外面おもての方に大喧嘩おほげんくわが始りし樣子故何事かと存じそつと出てうかゞひしにくらき夜なれば一かうわからず暫時しばらく樣子を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
……やどかりも、うようよいる。が、真夏などは暫時しばらくの汐の絶間たえまにも乾き果てる、壁のようにかたまり着いて、稲妻いなずま亀裂ひびはいる。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫時しばらく自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
暫時しばらくのうちは運悪く右も左も車が途切れて、空虚な侘しい道のみが線路を無気味に光らせ乍ら其処に残つてゐただけであつた。
群集の人 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
わたくし默然もくねんとして、なほ其處そこ見詰みつめてると、暫時しばらくしてその不思議ふしぎなる岩陰いわかげから、昨日きのふ一昨日おとゝひいた、てつひゞきおこつてた。
暫時しばらくするとこれも力なげに糸を巻きびくを水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、ほど遠からぬ富岡のうちまで行った。庭先で
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
「さればそのまま片里どのと、何ぞ物語をしていやれ、わしは仕上げの筆を終ろう。片里どの暫時しばらくのあいだ御無礼いたすぞ」
艶容万年若衆 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
『うちの女房ばばが、きょうは住吉の縁家までまいって留守じゃ。よしよし遺書かきおきをして参ろうか。数右衛門、暫時しばらく、失礼申すぞ』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
捕えた山梨刑事の写真が出ているんだ、この男、この間会社へやって来て、僕と暫時しばらく話したからよく知っているんだがね
梟の眼 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
あゝいやだ/\と道端みちばた立木たちき夢中むちうよりかゝつて暫時しばらくそこにたちどまれば、わたるにやこわわたらねばと自分じぶんうたひしこゑそのまゝ何處どこともなくひゞいてるに
にごりえ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
ただ暫時しばらくは黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、きいろい歯を露出むきだして嫣然にやにや笑いながら、村境むらざかいの丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くにせてしまった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
蚊帳の中にランプと机とを持ち込んで暫時しばらく死んだ樣に仰向に倒れてゐてから、急に起き上つて書く事もあつた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
「そんだらりや」とでぎつところしたやうこゑでいつた。暫時しばらく凝然ぢつかれはおつぎをつた。おつぎはまへへのめつた。しかしおつぎはかなかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今暫時しばらく敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政のたまふ様、横山の城の軍急なれば、其儘そのままに見合せがたし。
姉川合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
暫時しばらく誰一人口を開くものがない。遠くで幽かにチリツンチリツンと一絃の金線をつまぐる音色がする。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
武は自分の姓を名乗って、そのうえ途中で気持ちが悪くなったから暫時しばらくやすましてくれとこしらえごとをいって、それから七郎のことを訊いてみた。すると若い男は
田七郎 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
そこの窓際まで来て、雨戸を開けて、あだか戸外おもての人とはなしをしているかの様子であった、暫時しばらくして、老爺おやじはまた戸を閉めて、手に何か持ちながら其処そこの座に戻って来たが
千ヶ寺詣 (新字新仮名) / 北村四海(著)
「あの発汗を見ると、たぶんピロカルピンの中毒だろうよ」と暫時しばらくこまねいていた腕を解いて、法水は検事を見た。が、その顔には、まざまざと恐怖の色がうかんでいた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
私が一応はっきり切り込んだので、なめくじ男は、話の腰を折られたと見えて、暫時しばらく黙った。
途上の犯人 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
暫時しばらくあひだあいちやんはつて其家そのいへながめながら、さてこれからうしたものだらうと思案しあん最中さいちゆう
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
暫時しばらく土方どかた道普請みちぶしんを見物していたが、急に伯父さんの顔が見たくなった。彼様ああいう顔の人が寝たら如何どういう顔になるだろうと思ったら、土方の喧嘩なんかつまらなくなった。
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
彼は実行してみた、すると果して内から下女の寐ぼけた声が聞えた、「操様」と云うようである、彼はいささか成功を期したが無益であった。彼は暫時しばらく息を殺して立ち止っていた。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
泉原は唖然として暫時しばらく路傍に立竦たちすくんでいた。V停車場で見かけたのは確かにグヰンである。それにしてもグヰンは何故なにゆえに都の避暑客の集っているこのマーゲートへきたのであろう。
緑衣の女 (新字新仮名) / 松本泰(著)
暫時しばらくして彼方かなたより、茶色毛の犬の、しかも一そくえたるが、覚束おぼつかなくも歩み来ぬ。かねて和主が物語に、かれはその毛茶色にて、右の前足痿えしとききしかば。必定ひつじょうこれなんめりと思ひ。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
従兄は暫時しばらく、黙って指をってなどしていたが、やがてポンとひざを叩いていうには
感応 (新字新仮名) / 岩村透(著)
暫時しばらくすると、くすぶつて居た火は恐ろしく凄じい勢でぱつと屋根の上に燃え上る……と……四辺あたりが急に真昼のやうに明くなつて、其処等に立つて居る人の影、からうじて運び出した二三の家具
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
するとその少年は暫時しばらくして、大変気が落ち付いたようだと言いますので、今度は、少年の持参した試験問題集の中の二、三の問題を別紙に抜き書きして、その少年の前の卓上に載せました。
仏教人生読本 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
髪は塵埃ほこりまみれて白け、面は日に焼けて品格ひんなき風采やうすの猶更品格なきが、うろ/\のそ/\と感応寺の大門を入りにかゝるを、門番尖り声で何者ぞと怪み誰何たゞせば、吃驚して暫時しばらく眼を見張り
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
今から最早もう数年前すねんぜん、その俳優やくしゃが、地方を巡業して、加賀かが金沢市かなざわし暫時しばらく逗留とうりゅうして、其地そこで芝居をうっていたことがあった、その時にその俳優やくしゃが泊っていた宿屋に、その時十九になる娘があったが
因果 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
夜伽よとぎの人々があつまってる座敷の方へ、フーと入って行った、それが入って行ったあとには、例の薄赤いの影が、漸々ようようと暗くかげって行って、真暗になる、やがて暫時しばらくすると、またそれが奥から出て来て
子供の霊 (新字新仮名) / 岡崎雪声(著)
領主 暫時しばらく叫喚けうくわんくちぢよ、この疑惑ぎわくあきらかにしてその源流げんりう取調とりしらべん。しかのち、われ卿等おんみら悲歎なげきひきゐて、かたきいのちをも取遣とりつかはさん。づそれまでは悲歎ひたんしのんで、この不祥事ふしゃうじ吟味ぎんみしゅとせい。
暫時しばらくは誰も無言でいたが、少し元気を回復すると、桂田博士は
月世界跋渉記 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
暫時しばらくして返答とはなく、ただ、「何しても困ッたもンだね」
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
「恩田さんとな、暫時しばらくお待ちなさい」
自殺を買う話 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
三吉はお仙に言葉を掛けて、暫時しばらくそこに立っていた。丁度正太が、植木いじりでもしたという風で、土塗つちまみれの手を洗いに来た。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
お定は暫時しばらく恍乎ぼんやりとして、自分の頬を天鵞絨の襟に擦つて見てゐたが、幽かな微笑を口元に漂はせた儘で、何時しか安らかな眠に入つて了つた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
扨も越前守殿には暫時しばらくもくして居られしがやがて一同控へ居よといはれコリヤ彦三郎其方共に彼是かれこれ云込いひこめられ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ褒美はうび
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
車力は女の後姿を暫時しばらく見送つたが、無頓着に佇んで待つ馬の手綱を拾ふと、何事も無かつたやうな顏をして、自分達の立つてゐる門前を通つた。
貝殻追放:016 女人崇拝 (旧字旧仮名) / 水上滝太郎(著)
木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、暫時しばらくは木戸を見てただ微笑していたが、お徳がそばから
竹の木戸 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
寝床だって暫時しばらくは起きたまゝで放って置く。床を畳む元気もないじゃないか。枕当の汚れたのだって、私が一々口を利いて何とかせねばならぬ。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
猛獣犠牲いけにえて直ぐには殺さず暫時しばらくこれをもてあそびて、早あきたりけむ得三は、下枝をはたと蹴返せば、あっ仰様のけざまたおれつつ呼吸いきも絶ゆげにうめきいたり。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
暫時しばらくすると十三が馳け出して来て、いきなり本庄の手を握り、しなやかな体をすりつけるようにして、耳元に唇を寄せ
黒猫十三 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
いまそのうるはしく殊勝けなげなる夫人ふじんが、印度洋インドやう波間なみまえずなつたといては、他事ひとごとおもはれぬと、そゞろにあわれもようしたる大佐たいさは、暫時しばらくしてくちひらいた。
三枝屋敷を通り過ぎると、火柱は暫時しばらく立ち止まった。南北に通ずる小路があり、どっちへ行こうかと迷っているらしい。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時しばらくそこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに
にごりえ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
一人ひとり女房にようばうがいつたときはなし暫時しばらく途切とぎれてしづまつた。一人ひとり女房にようばうさら大根だいこつまんでくちれた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)