不図ふと)” の例文
旧字:不圖
不図ふとそんなことを考えて硝子屋の前に立ったが、どの正札も高い。やけくそで、ぴょんぴょんと片脚で溝を飛んで煙草屋へ這入はいると
泣虫小僧 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ギーッ、ギーッという音に、不図ふと気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚ぶあつ犯罪文献はんざいぶんけんらしいものから、顔をあげて入口を見た。
赤外線男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
Uの温泉場では××屋という宿が閑静かんせいで、客あつかいも親切であるということを聞かされて、私も不図ふとここへ来る気になったのである。
鰻に呪われた男 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それは丁度ちょうどおさなときからわかわかれになっていたははが、不図ふとどこかでめぐりった場合ばあい似通にかよったところがあるかもれませぬ。
そこで不図ふと昨夜の夢を想い出した。『事によればこれが舅かもしれない。助けて上げねばなるまい』——彼女は独りで思案した。
雉子のはなし (新字新仮名) / 小泉八雲(著)
わざと傍目わきめも振らず行ったり来たりして、疲れて家に帰った——そんな遠い遠い昔の事を不図ふと偲い出して、又チェッと舌打するのである。
舌打する (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
この時に自分は不図ふとこの祖母が謡い好きであった事を思い出して、忽ち胸中に湧き出した野心が半天にみなぎり渡ると、思い切って独逸流に
謡曲黒白談 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「さあ、早く行きましょう」と不図ふと後方うしろを振向くと、また喫驚びっくり。岩の上には、何時いつしか、娘の姿が消えていて、ただ薬瓶くすりびんのみがあるばかり。
テレパシー (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
しばらく落着いてから、あれこれ昔話をしては、帰らぬ日のことをいろいろなつかしがっていたが、不図ふと、重衡が思い出したようにいった。
蕭条たる気が犇々ひしひしと身に応えてくる。不図ふと行手を眺めると、傍らの林間に白々と濃い煙が細雨の中をのぼって行く光景に出遭う。
茸をたずねる (新字新仮名) / 飯田蛇笏(著)
私は長崎を出立しゅったつして中津に帰る所存つもり諫早いさはやまで参りました処が、その途中で不図ふと江戸にきたくなりましたから、是れから江戸に参ります。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
永禪は不図ふとうしろに火縄の光るのを見て、此奴こいつ飛道具とびどうぐを持って来たと思うからずーんと飛掛り、抜打ぬきうちに胸のあたりへ切付けました。
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
今日こんにち不図ふと鉄道馬車てつだうばしやの窓より浅草あさくさなる松田まつだの絵看板かんばん瞥見致候べつけんいたしそろ。ドーダ五十せんでこんなに腹が張つた云々うん/\野性やせい遺憾ゐかんなく暴露ばうろせられたる事にそろ
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
李一はそのとき不図ふと誰かが耳にささやいていることに気がついたのです。まるで少女の声のような優しみのある声であった。
不思議な魚 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
あおいその顔には肉の戦慄せんりつ歴々ありありと見えた。不図ふと、急に、辞儀をして、こうしてはいられぬという態度で、此処ここを出て行った。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
帳記ちょうづけをしながらもほろほろと涙を流しました。うえと恥で止め度なく泣きましたが、そのとき不図ふと、たとえ母が死んでも父親というものがある。
無駄骨 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
物言ふは用事のある時慳貪けんどんまをしつけられるばかり、朝起まして機嫌をきけば不図ふとわきを向ひて庭の草花をわざとらしきことば
十三夜 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
不図ふと前方をみればこは如何に、越の大軍がうしおの如く我に向って前進中である。正に「暁に見る千兵の大牙を擁するを」だ。
川中島合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
綺麗きれいつくつてからかへると、つま不図ふと茶道具ちやだうぐともなかとをわたしそばはこんで、れいしとやかに、落着おちついたふうで、ちやなどれて、四方八方よもやまはなしはじめる。
背負揚 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
以前まへにも一度来た。返事を出さなかつたのでまた来た。梅といふ子が生れた翌年よくとし不図ふと行方知れずなつてからモウ九年になる。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
なにかな、御身おみ遠方ゑんぱうから、近頃ちかごろ双六すごろく温泉をんせんへ、夫婦ふうふづれで湯治たうぢて、不図ふと山道やまみち内儀ないぎ行衛ゆくゑうしなひ、半狂乱はんきやうらんさがしてござる御仁ごじんかな。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
と安達君は話が余り個人的になるので、不図ふと目を開いた。周囲あたりを見廻したが、未だ早かったから、客は自分一人だった。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
その時泉原が不図ふと思い浮べたのは同店の顧客とくいのA老人であった。老人は愛蘭アイルランド北海岸、ゴルウェーの由緒ある地主で、一年の大半は倫敦ロンドンに暮している。
緑衣の女 (新字新仮名) / 松本泰(著)
不図ふと、御自分の御言葉に注意こころづいて、今更のように萎返しおれかえって、それを熟視みつめたまま身動きもなさいません。しんだ銀色の衣魚しみが一つその袖から落ちました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
不図ふとミサ子は思い出した。××商事につとめている順子と左翼劇場へ行く日をうち合わせるのは今日の約束だった。
舗道 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
私の目は不図ふと右手の崖下にうずたかく盛り上った異様の塊に惹き付けられた、白茶化た枯枝などが一面に掩うては居るが
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
慶三は不図ふと目についたお千代が塩梅あんばいに便所へついて来たので、真暗な明座敷あきざしきの前を通るがまま無理にそこへ引入れて直接に談判を持掛けるうちにも
夏すがた (新字新仮名) / 永井荷風(著)
行くうち不図ふと、この霜降りのインバネスを初めて着たをり編輯長に「君は色が黒いから似合はないね」と言はれて冷やツとした時の記憶が頭に蘇生よみがへつた。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
そこで序をかくときに不図ふと思い出した事がある。余が倫敦ロンドンに居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地かのちの模様をかいて遙々はるばると二三回長い消息をした。
不図ふと自分の部屋の障子がスーといて、廊下から遊女おいらんが一人入って来た、見ると自分の敵娼あいかたでもなく、またこのうちの者でも、ついぞ見た事のない女なのだ。
一つ枕 (新字新仮名) / 柳川春葉(著)
おたあちやんが、不図ふと見ますと、おきいちやんのさげてゐる籠の一番上に、憎い憎い三又土筆が載つてゐました。
虹の橋 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
竜次郎は不図ふと小虎の方を見て吃驚びっくりした。女の手足の数ヶ所から、黒血をだくだくと吹出しているのだ。さては小刀の切先が当って傷を付けたかと思ったのだ。
死剣と生縄 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
ところがその日不図ふとした拍子に良人の許から来た端書はがきを見られたのである。すると女将は怖ろしい権幕で
女給 (新字新仮名) / 細井和喜蔵(著)
只だ一つ心に上つたのは、今町の出口で村の女達との話から不図ふと気がついたことだが、今朝母が来た時何よりも先づ妹の容体を問ふべきであつたことであつた。
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
傍らに同じく腰をおろしていた年若い友は不図ふと何か思い出した様に立ち上ったが、やがて私をも立ち上らせて対岸の岡つづきになっている村落を指ざしながら
みなかみ紀行 (新字新仮名) / 若山牧水(著)
何でも五月雨さみだれさびしい夜でしたがネ、余り徒然つれづれまゝ、誰やらの詩集を見てる時不図ふと、アヽわたしヤ恋してるんぢや無いか知らんと、始めて自分でさとりましたの、——
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
そののち不図ふと御贔負ごひいきこうむ三井養之助みついようのすけさんにお話すると、や、それはいけない、幽霊のいんに対しては、相手はようのものでなくてはいけない、夜の海はいんのものだから
薄どろどろ (新字新仮名) / 尾上梅幸(著)
然し今日、寮裏でひょっこり例の「皆喰爺」を見つけると、この爺はあの偉大な口と胃腸の名誉にかけても、最早自殺等は出来まいと、不図ふと私は思ったことである。
(新字新仮名) / 金史良(著)
その葬式に臨んで、不図ふと師は涕泣ていきゅうした。傍人はこれを怪しんで、「世捨人にも亦これあるか」と云う。
釈宗演師を語る (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
高い男は中背の男の顔を尻眼しりめにかけて口をつぐんでしまッたので談話はなしがすこし中絶とぎれる。錦町にしきちょうへ曲り込んで二ツ目の横町の角まで参った時、中背の男は不図ふと立止って
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
あしのとまるところにて不図ふと心付こゝろづけば其処そこ依田学海先生よだがくかいせんせい別荘べつさうなり、こゝにてまたべつ妄想まうさうきおこりぬ。
隅田の春 (新字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
「ダンチョンはうちにいなかったよ」兄の返辞はこうでした。調子にいつわりがございませんので、私はすぐに信じました。不図ふと見ると兄は右の手に細長い包を持っています。
西班牙の恋 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
生垣いけがきの外を通るものがあるから不図ふと見れば先へ立つものは、年頃三十位の大丸髷おおまるまげの人柄のよい年増としまにて、其頃そのころ流行はやった縮緬細工ちりめんざいく牡丹ぼたん芍薬しゃくやくなどの花の附いた燈籠を
牡丹灯籠 牡丹灯記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
珠運は立鳥たつとりの跡ふりむかず、一里あるいたころ不図ふと思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人そのひとうしろ見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえとたもと取る様子
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
つく/″\見て居る内に、英国の発狂はっきょう詩人しじんワットソンの God comes down in the rain 神は雨にてくだり玉う、と云う句を不図ふとおもい出した。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
おかしな奴だと思って不図ふと見ると、交番所こうばんしょの前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体いったい今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出水しゅっすい到底とうてい渡れないから
今戸狐 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
私はウラスマルが曾て不図ふと口走つた次の如き言葉の断片を懐かしい感じの内に想起し得る。——
アリア人の孤独 (新字旧仮名) / 松永延造(著)
恋人というようなあのOの口から出そうにもない言葉で、私は五六年も前の自分を不図ふと思い出しました。それはある娘を対象とした、私の子供らしい然も激しい情熱でした。
橡の花 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
不図ふと、俺は気がついた、何といふ坐りざまだ、まるでおまへ肉体からだは白痴の女見たいにぶくぶくだねえ、だらしのない、どんなに暑くたつて、もつとチヤンと坐つておゐでなさい。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
不図ふと天井を見た時、長い廊道の天井に一列についている電気がスーッと一どきについたのを大へん美しく思い、それからよく夕方その電気のともるのを見に行ったものであった。
新古細句銀座通 (新字新仮名) / 岸田劉生(著)