くず)” の例文
それを無惨に突きくずそうとするのはみじめのようでもある。そうかと思うと、また自分という者を振り返ってみると、どうであろう。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
今日限りの命だ。二竜山をくずす大砲の声がしきりに響く。死んだらあの音も聞えぬだろう。耳は聞えなくなっても、誰か来て墓参りを
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
こうした出迎えにも、古い格式のまだくずれずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
酒を呼んで、わざと膝をくずし初める。頼母子講たのもしこうの事などを、雑談のあいだにわざとして、やがて茶漬を食べ、思い思いに散じて去る。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
歳は三十の前後、細面ほそおもてで色は白く、身はせているが骨格はえています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐あおあらしくずれる。
ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体をくずした。それは見るも気の毒な気の落としようだった。
月世界探険記 (新字新仮名) / 海野十三(著)
補佐役の青木主膳あおきしゅぜんという侍から「あれは寄手よせてが追いくずされる物音です」とか、「今度は味方が門内に引き揚げる合図のかいです」
この時振動の力さらに加わりてこの室の壁眼前にくずれ落つる勢いすさまじく岡村と余とは宮本宮本と呼び立てつつ戸外に駆けいでたり。
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
類人猿が、じぶんを埋葬にくる悲愁の終焉地しゅうえんちだと思うと、私はその壁を無性にかきくずした。すると、その響きにつれてどっと雪崩なだれる。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
何もかも、しんと静まり返って、うちの犬までが、木戸のそばに丸くなってねむっていた。わたしは、温室のくずれ残りによじ登った。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
御用邸に近い海岸にある荘田しょうだ別荘は、裏門を出ると、もう其処そこの白い砂地には、くずれた波の名残りが、白い泡沫ほうまつを立てているのだった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
大概たいがいのことでは一かうさわがぬやうなかれ容子ようすほかからではさうらしくもえるのであつた。も一つは服裝ふくさうけつしてくずさぬことであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
滅多に電車も通らないだだ広い路を曲ると、川に添った堤に出て、くずされた土塀のほとりに、無花果いちじくの葉が重苦しく茂っている。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ちくずし、下関の旅館で自殺をしたときいた。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
それは破れた数本のたるきのある小家で、くずちようとしている壁を木の股で支えてあるのが見えた。そこに小さな室があった。
田七郎 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
橋は、丸木をけずって、三、四本並べたものにすぎぬ。合せ目も中透なかすいて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろとくずれて落ちる。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
高鳴りひびく音が旗を巻き、くずれ散り、うらみこもる低音部の苦しみ悵快ちょうおうとした身もだえになると、その音は寝ている梶のはらわたにしみわたった。
罌粟の中 (新字新仮名) / 横光利一(著)
私の部屋の窓からは、いまにもくずれそうな生墻いけがきを透かして、一棟ひとむねの貧しげな長屋の裏側と、それに附属した一つの古い井戸とがながめられた。
三つの挿話 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
明朝あした目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭まくらもとには綺麗に火入れの灰をならした莨盆と、折り目のくずれぬ新聞が置いてあった。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
見るさえまばゆかった雲のみねは風にくずされて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様のかたむくに連れてさすがにしのぎよくなる。
太郎坊 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
湖のへりはそこから左にひらけて人家がなくなり、傾斜のある畑が丘の方へ続いていた。黒いその丘ははるかの前にくずれて湖の中へ出っぱって見えた。
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
朝の跡片づけの手伝いをすませた瀬川艶子は、自分の部屋にめられた玄関脇げんかんわきの三畳に引っ込むと、机の前にくずすわった。
五階の窓:04 合作の四 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣きくずれて理性を失うというような所はなかった。
私の父と母 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
と私のかおを見て微笑にッこりしながら、一寸ちょいと滑稽おどけた手附をしたが、其儘所体しょていくずして駈出して、表梯子おもてはしごをトントントンとあがって行く。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
川が直接この美しい珠玉を運んで来るわけではないのだが川は山をくずして岩にし岩を崩して石にし石をくだいて砂利じゃりにし砂利をふるって土にする。
さくらんぼ (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
林のすそ灌木かんぼくの間を行ったり、岩片いわかけの小さくくずれるところを何べんも通ったりして、達二はもう原の入口に近くなりました。
種山ヶ原 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
数日後ニネヴェ・アルベラの地方をおそった大地震だいじしんの時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、かべくず書架しょかたおれた。
文字禍 (新字新仮名) / 中島敦(著)
障子しょうじは破れたきり張ろうとはせず、たたみはらわたが出たまゝ、かべくずれたまゝ、すすほこりとあらゆる不潔ふけつみたされた家の内は、言語道断の汚なさであった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
綱雄はむずかしき顔もくずさず、眉根まゆねを打ち寄せて黙然たり。見るにこなたも燃え立つ心、いいわ、打っちゃっておけ!
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
寒さもまさり来るに急ぎ家に帰ればくずれかかりたる火桶もなつかしく、風呂吹ふろふき納豆汁なっとうじる御馳走ごちそうは時に取りての醍醐味だいごみ、風流はいづくにもあるべし。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
それ喧嘩だというと、大勢がくずれて、私たちの跳ね出し店の手欄てすりを被り、店ぐるみ葭簀張よしずばりを打ち抜いて、どうと背後うしろまで崩れ込んで行ったものです。
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとにしわを寄せ、唯一のつかみどころである書類が覆われているので、ぐったりと椅子の肘掛ひじかけくずれかかった。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
その友人とは、彼の言葉によると「左翼くずれ」で、内地は特高がうるさいもんだから、上海に逃避したのだと言う。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
この工場と相対むかいあってる北側に、今は地震でくずされて旧観をあらためてしまったが、附属の倉庫の白壁の土蔵があった。
足元からくずれ落ちる真黒な山路も、物ののような岩の間をとどろき流れる渓川たにがわも、慣れない身ながら恐れもなく、このような死人の息さえきこえぬ山奥で
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
袴のひだくずさずに、前屈みになって据わったまま、主人はたれに話をするでもなく、正面を向いて目を据えている。
百物語 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいにくずれていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
あるひはまたひらたく畳の上につくばひて余念もなく咲く花を仰ぎ見たる、あるひはひざくずして身をうしろざまにくつがえさんばかりその背を軽く欄干に寄掛よせかけたる
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
てき大将たいしょう高丸たかまるはくやしがって、味方みかたをしかりつけては、どこまでもとどまろうとしましたけれど、一くずれかかったいきおいはどうしてもなおりません。
田村将軍 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
それではくずれてしまうと思ったものが、塩水しおみずによくひたしてから焼くようにと教えたという話しかたもある。「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」などは何処どこにもない。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ゆきのためには、あるとしはおされてあやうくれそうになったこともあり、また、あるとしなつには、大雨おおあめあらわれて、もうすこしのことで、この地盤じばんくずれて
葉と幹 (新字新仮名) / 小川未明(著)
ほかの者のぜんには酢味噌すみそ飯蛸いいだこ海鼠なまこなどがつけられていて、大きな飯櫃めしびつの山がみるみるくずされていた。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
現代詩壇に於ける自由詩は、その始め、実に新体詩から解体して、次第にくずしになったのである。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
彼が、くずれゆく、荘園しょうえん貴族文化の最後の典型的な歌い手と呼ばれる所以は、じつにそこにあります。
「はつ恋」解説 (新字新仮名) / 神西清(著)
まちおもむくとそれを抵当にしてあっちこっちの茶屋や酒場で遊蕩ゆうとうふけっては、経川に面目をつぶすのが例だったが、相変らずさようなことに身を持ちくずしていると見える。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
エレベーター・ガールは二人の顔を見てニヤ/\笑った。二人も覚えず相好そうごうくずして、逃げ出した。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
むかしの任侠にんきょうと称する者を見ても、彼らは外見上放蕩ほうとうまいに身を持ちくずすようでありながら、なお女子に対する関係は思いのほかに潔白で、足を遊里ゆうりに踏み込んでも
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
禿げの前額ひたえの湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、くずるるようにすわり
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
香織かおりはそれを両手りょうでにささげ、『たとえおわかれしても、いつまでもいつまでもひめさまの紀念かたみ大切たいせつ保存ほぞんいたします……。』といながら、こえおしまずくずれました。
と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、くずれるようにうしろへ流れて行く。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)