むせ)” の例文
つい先夜は、べつな場所で、久しぶり尾崎士郎の手に杯を見たが、かの莊重なる浪花ぶしがむせび出るにいたらぬまに別れてしまつた。
折々の記 (旧字旧仮名) / 吉川英治(著)
御無事でおめでとうという言葉はのどつかえて出なかった。それだけいうのが精いっぱいで、母は式台に膝をついたまま、むせびあげた。
はたし状 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その刹那、ふるおののく二つの魂と魂は、しっかと相抱いて声高く叫んだ。その二つの声は幽谷にむせび泣く木精こだまと木精とのごとく響いた。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
流は寒煙にむせんで淙々と響いてゐた……微な響だ。で、橋板を鳴らす大勢の人の足音に踏消されて、大概の人の耳には入らなかツた。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
死んで後までもこんな重い物をかぶせて、魂を幽冥ゆうめいの下までもむせび泣かしむる人間というものの仕様しわざの、愚劣にして残忍なることよ。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったかわずのように、ただもがいてばかり居りました。
蜘蛛の糸 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかしてわれ今再びこの河畔かはんに立ってその泉流のむせぶをき、その危厳のそびゆるを仰ぎ、その蒼天そうてんの地にれて静かなるをるなり。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
谷あいの草原を飾る落葉松や白樺の夢のように淡いみどり、物寂びた郭公かっこうの声、むせぶような山鳩のなく音、谷の空を横さまに鳴く杜鵑ほととぎす
秩父の渓谷美 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
火元から遠くにある家々は猛烈な煙の為に全く囲まれてしまって、人々は煙にむせび、呼吸すら全く自由には出来ない有様ありさまであった。
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
夕日ゆふひは低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸かし左右さいうのセエヌがはかは一杯いつぱいきしめて、むせんでそゝさゞなみに熱い動悸どうきを見せてゐる。
牧羊神 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
婆様の老松おいまつやら浅間あさまやらのむせび泣くような哀調のなかにうっとりしているときがままございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ
(新字新仮名) / 太宰治(著)
岩にせかれてむせび落ちる山川を境にして、上の方の脊山にも、下の方の妹山にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。
島原の夢 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
と、どこからか泣声のような物声が聞えてきた。趙は不思議に思うてその方へ耳をやった。それは確かにむせび泣く泣声であった。
愛卿伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
そのカークの言葉を身にむように聴きながら、座間はくらい海の滅入るような潮騒しおさいとともに、ひそかにむせびはじめていたのだ。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
種々いろんなことが逆上こみあがって、咽喉の奥ではむせぶような気がするのをじっこらえながら、表面うわべは陽気に面白可笑く、二人のいる前で、さっき言った
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
すると大変に感心して、シナの坊さんというものはそんなに道徳心即ち菩提ぼだい心のあついものであるかと大いに悦んで随喜の涙にむせびました。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
智慧ちゃんのなくなったときむせび泣いていた弟さん。「すぐそこにいます」というの。「いつから?」「夏から」本当にびっくりしました。
と云ううちに若侍の眼から涙がハラハラとあふれ落ちた……と思う間もなく畳の上に、両袖を重ねて突伏すと、声を忍んでむせび泣き初めた。
斬られたさに (新字新仮名) / 夢野久作(著)
と、女は水洟みずばなをすすると一緒に唇からみ入る涙をぐっとみこんだらしかったが、同時に激しくごほんごほんとせきむせんだ。
母を恋うる記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
思ひ入りたる小松殿の御氣色みけしき、物の哀れを含めたる、心ありげのことば端々はし/″\も、餘りの忝なさに思ひ紛れて只〻感涙にむせぶのみ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
ればハイカラに仕立てたお島の頭髪あたまは、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体にむせぶような香水のにおいがしていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
たまに一声二声叫んでみると、その声は上野の森にむせび泣くように反響するのみで、自分のみじめさをその反響に映して見るような気がした。
「はい」と芳江はむせびながら、「何んと申しても私達は敵同志の間柄。もしも恐ろしい邪魔でもはいって別れるような事があったらと……」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
新聞紙の報ずるだけでも、彼は十指に余る人間の命を絶ち、多くの子女の貞操を蹂躙じゅうりんし、数多あまたの良民をして無念の涙にむせばせて居るのでした。
ある抗議書 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもうむせび声になっていた。
光の中に (新字新仮名) / 金史良(著)
みませぬみませぬ、どうぞどうぞおゆるしくださいませ……』何回なんかいわたくしはそれをかえしてなみだむせんだことでしょう!
たちまち一種の恐怖に襲われて目をくと、痘痕とうこんのまだ新しい、赤く引きった鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えずむせび泣いた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
彼女あれに氣を附けてやつてくれ、出來るつたけ、彼女あれを優しく取扱つてやつてくれ。どうか彼女あれを——」彼は云ひさして涙にむせんでしまつた。
感歓かんくわんまりて涙にむせばれしもあるべし、人を押分おしわくるやうにしてからく車を向島むかふじままでやりしが、長命寺ちやうめいじより四五けん此方こなたにてすゝむひくもならず
隅田の春 (新字旧仮名) / 饗庭篁村(著)
草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭やまかげむせぶばかりの松脂まつやにのにおいである。はしる、駛る、新世界の大きな昆虫。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
必ず一掬いっきく同情の涙にむせぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
夫人が急に顔を近付けると、彼女のふくよかな乳房と真赤な襦袢じゅばんとの狭い隙間から、ムッとむせぶような官能的な香気が、たち昇ってくるのだった。
振動魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
日が暮れるに随って、梢はぴったりと寄り添って、呼吸いきを殺して川のおもてを見詰める、川水はときどきむせぶように、ごぼごぼときこんで来る。
谷より峰へ峰より谷へ (新字新仮名) / 小島烏水(著)
糸につれて唄いいだす声は、岩間にむせぶ水を抑えて、巧みに流す生田いくた一節ひとふし、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
松住町まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔の海である。煙が暑くむせっぽく眼にみて進めない。
震災日記より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
宮は牀几しようぎりて、なかばは聴き、半は思ひつつ、ひざに散来るはなびらを拾ひては、おのれの唇に代へてしきり咬砕かみくだきぬ。うぐひすの声の絶間を流の音はむせびて止まず。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
與吉よきちまたなみだがこみあげてむせびながらしみ/″\とかなしげにいた。こゑくものをたゞきたくさせた。つかれたおつぎのにはふつとなみだうかんだ。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
むせび泣く麗子をたすけて、深い木立の中のロハ台に陣取った加奈子は、涙の隙から、ようやくこれだけの事を聞きました。
向日葵の眼 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
かう云つた時、クサンチスの声は涙にむせんでゐて、目はうるみ、胸は波を打ち、体中どこからどこまで抑制せられた感情が行き渡つてゐるのであつた。
クサンチス (新字旧仮名) / アルベール・サマン(著)
それが、あさましいまでに取りみだし、露地奥の貧乏長屋の古畳の上に両手をついて、肩をふるわせながらむせび泣いているさまは、いかにも哀れぶかい。
顎十郎捕物帳:10 野伏大名 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
しかり雨の窓を打ち軒に流れしたたり竹にそそぐやそのひびき人の心を動かす事風の喬木きょうぼくに叫び水の渓谷にむせぶものに優る。風声は憤激の声なり水声は慟哭どうこくなり。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
むせぶような、絶え入るような小坊主の読経は、細くとぎれとぎれに続いた。小林監督は項垂うなだれて考え込んでいる。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
いぬい」の烟草屋タバコやの物置きに火が掛かると、ありたけの烟草が一どきに燃え出して、そのむせることは……焦熱地獄とはこんなものかと目鼻口から涙が出やした」
親子おやこもしくは夫婦ふうふ僅少わづか手内職てないしよくむせぶもつらき細々ほそ/\けむりを立てゝ世が世であらばのたんはつそろ旧時きうじの作者が一場いつぢやうのヤマとする所にそろひしも今時こんじは小説演劇を
もゝはがき (新字旧仮名) / 斎藤緑雨(著)
妙子の母親は、ともすれば、むせそうになるのをこらえ堪えして、鼻の詰った声で、こんなことを云ったりした。
恐ろしき錯誤 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
むせぶようなやみのなかを、ギイとの音がしたりして、道路おうらいより高いかと思うような水の上を、金髪娘を乗せたボートがかいをあげて、水をってゆくのだった。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
嬢様は荒尾君の大傑作を縕袍どてらと間違へてらツしやると見える。それでも荒尾先生、御感ぎよかんを忝ふしたと心得て感涙にむせんで、今度は又堪らないものを作つた。
犬物語 (新字旧仮名) / 内田魯庵(著)
風上にいる者は雨の飛沫しぶきを受けるだけで我慢もなるが、風下にいる連中は渦巻く煙にむせび返って眼玉を真赤まっかにし、クンクン狸のように鼻ばかり鳴らしている。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
ハッハハハとむせび笑いの声高く屋のむねにまで響かせしが、そのままこうべを天にむかわし、ああ、弟とは辛いなあ。
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
春雨秋風人のうなく、謖々しょくしょくたる松声は、日本男児の記念たる桜花の雪に和して吟じ、喞々しょくしょくたる虫語は武蔵野の原より出でて原に入る明月の清光を帯んでむせぶ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)