つち)” の例文
……机上に安んじていた彼れの堅固な心が長兄の帰省前後から破れかけていたのに、今夜の災難は最後に下されたつちのようだった。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
肩に懸けたる手をば放さでしきりゆすらるるを、宮はくろがねつちもて撃懲うちこらさるるやうに覚えて、安き心もあらず。ひややかなる汗は又一時ひとしきり流出ながれいでぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
内側から肋骨ろっこつを、つちで叩きでもするように、心臓が荒く激しく動悸どうきを打ち、喉が塞がり、息苦しさのために胸が裂けそうであった。
まるでうしろからつちなぐりつけたように、階段の上で、ごとごとばたんばたんと、しきりに前に倒れ、そして転がるのであった。
二、〇〇〇年戦争 (新字新仮名) / 海野十三(著)
遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりするつちだけは見えた。そして、その槌の音が遠いきぬたの音のように聞えた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それを知らずに石の枕を石のつちで撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
僕等はいつか工事場らしい板囲いたかこひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせとつちを動かしながら、大きい花崗石くわかうせきけづつてゐた。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
「いってくれんな、おっ母、そのことはのみ込んでるんだ。きっと、おらが、かせぎ出してみせる。——このつちが焼けるほど、働いてみせる」
野槌の百 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがすのみと、鑿をたたつちと、それから爪をけずる小刀と、爪をえぐみょうなものと、それから……」
二百十日 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
これはつかあたまつちあたま、あるひはこぶしげたようなかたちをしてゐるもので、おほくはきんめっきをしたどう出來できて、非常ひじようにきれいなものであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
古い絵のなかの人のようなよそおいをした刀鍛冶の孫六が、美濃の国、関の在所にあって専心雲竜の二刀をつちうつところを!
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
頭はしろがねの針を磨いたようにきらきらと光り、片手にはつちのような形のものを持ち、もう一方の手は、これ又何やら光るものを持っていた。
胡坐あぐらを組んだままで、やや長い時、ぼんやりとしていましたが、あやまりに行こうともせず、そのままつちをとり上げてわらを打ちにかかりました。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
誰が見たつて、女や子供の手際とは思はないよ、——まさか、咽喉笛へ出刄を當てさしてよ、つちで叩かせる者もあるめえ
動脈は両のこめかみに、鍛冶屋かじやつちのように激しく脈打っているのが聞こえ、胸から出る息は洞穴どうけつから出る風のような音を立ててるらしく思えた。
隨分ずゐぶんあれえことしたとえつけな、らも近頃ちかごろになつてくれえな唐鍬たうぐは滅多めつたつたこたあねえよ、」鍛冶かぢあかねつした唐鍬たうぐはしばらつちたゝいて
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
声に応じて四方から、おっ取り刀のお侍さんや、のこぎりつちを持った船大工の群れが、松明たいまつなどを振り照らして、わたしたちの方へ駈けつけて来ました。
怪しの者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
どんなに僕らはさけんだでしょう。千五百万年光というものを知らなかったんだもの。あの時鋼はがねつちがギギンギギンと僕らの頭にひびいて来ましたね。
楢ノ木大学士の野宿 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
明智は何を思ったのか、アトリエの隅から、彫刻用のつちを拾って来て、いきなり、傷ついた三人の裸女の、顔といわず、胸といわず、たたき始めた。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
幕のおりている仮舞台の上には、ヤーコフほか下男たちがいて、せきばらいやつち音が聞える。散歩がえりのマーシャとメドヴェージェンコ、左手から登場。
その当時、鶴見の仮寓の真向いは桶屋おけやだった。すこぶる勤勉な桶職で、夜明けがたからつちの音をとんとん立てていた。
その時、廻転琴オルゴールのミニュエットが鳴り終ると、二つの童子人形は、かわるがわる右手のつちを振り上げて、チャペルを叩いた。そして、八時を報じたのであった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
いえうちに、ランプのは、うすぐらくともっていました。そして、おじいさんが、つちでわらをたたおとが、さびしいあたりに、おりおりひびいたのであります。
こまどりと酒 (新字新仮名) / 小川未明(著)
夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工のつちの音がいつの間にか消えると、青白い河靄かわもやがうっすり漂う。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
Aは、いまだに、「あれから、これへ」を口吟くちずさみながら、それでも懸命につちを振りあげている。Bは、えあがるほのおの傍らで時はずれにも弁当を喰っている。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
ようやく、つちの音がやむ。谷底から、おーい、という声がきこえる。谷底をのぞきこんで見ると、四人が崖の上をふりあおぎながら手をあげて叫んでいる。
キャラコさん:04 女の手 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
私は想い惑っている。酷い鑿や無情なつちがお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くはないのだ。この事を考えて胸を痛めている人は多いにちがいない。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
やせて、毛なみはばさばさで、首は細くて醜く、頭はつちのような形だし、色のさめたたてがみや尾はもつれたうえに、いがなどがくっついて、くくれていた。
たとへばつちはづる〻とも青年せいねん男女なんによにして小説せうせつまぬ者なしといふ鑑定かんていおそらくはづれツこななるべし。
為文学者経 (新字旧仮名) / 内田魯庵三文字屋金平(著)
それよ今宵こよひよりは一時いちじづゝの仕事しごとばして此子このこため收入しうにふおほくせんとおほせられしなりき、火氣くわき滿みちたるしつにてくびやいたからん、ふりあぐるつち手首てくびいたからん。
軒もる月 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
或は他の石片をつちとしてただちに其周縁そのまわりき或は骨角こつかくの如きかたき物にて、作れる長さ數寸のばうの一端を、石斧とすべき石片の一部分にて、此棒の他端たたんをば
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
それを見ようと思って、己は海水浴場にく狭い道へ出掛けた。ふとつちの音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りてく階段を、エルリングが修覆している。
冬の王 (新字新仮名) / ハンス・ランド(著)
浸してはさらし、晒しては水にでた幾日の後、むしろの上でつちの音高く、こもごも、交々こもごもと叩き柔らげた。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
鯨には抹香まっこう鯨、つち鯨、つばな鯨、白鯨、ごんどう鯨、白長鬚鯨、長鬚鯨、いわし鯨、座頭鯨、背美せみ鯨、北極鯨、小形鰮鯨など大分変わった種類があり、すなめり、いるか
海豚と河豚 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
胴びろの鋸が木口からみついて行って、ざっくん、ざっくんと、眠いような音を立てた。近くではかんなのすべる音が交錯していた。たんたん、のみを打ちこむつちの音。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
それはすみからすみまで數多あまた畦畝うねになつてました、其球そのボールきた針鼠はりねずみつちきた紅鶴べにづるで、それから兵士等へいしらは二れつになつて、緑門アーチつくためあしそばだてました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
楓は起って蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十余歳、烏帽子えぼし筒袖つつそで、小袴にて、のみつちとを持ち、木彫の仮面めんを打っている。ひざのあたりには木のくずなど取り散らしたり。
修禅寺物語 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
つちで庭掃く追従ついしょうならで、手をもて畳を掃くは真実まこと。美人は新仏しんぼとけの身辺に坐りて、死顔を恐怖こわごわのぞ
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかし、べつに寒そうなふうでもなく、両足をふんばり、頭から一尺ほどの高さの板木を、近眼鏡のおくから見つめて、いかにも念入りに、ゆっくりとつちをふるっていた。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
われわれは深い眠に陥っているが、彼等の眠というものは全くの別物なんだ。あすこで眠っているものは猩紅しょうこうの血、黄金の蛇だ。巨人チイタンつちを振う山が眠っているばかりだ。
朱色の上に桜の色の汗袗かざみを着せ、下には薄色の厚織のあこめ、浮き模様のある表袴おもてばかまはだにはつちの打ち目のきれいなのをつけさせ、身の姿態とりなしも優美なのが選ばれたわけであった。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
『そして、ムタラではつちの音がひびきますし、ノルチェーピングでは織機おりきの音が聞かれます。』
わたくしはすき提燈ちょうちんつちをもって家を出ました。墓地の塀を乗りこえて、わたくしは彼女を埋めた墓穴を見つけました。穴はまだすっかり埋めつくされてはおりませんでした。
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
じいさんは胡坐あぐらをかいて草鞋わらじを作っている。今叱ったのは、子供がわらを打つつちを持ち出そうとしたからである。子供は槌をいておれの方を見た。じいさんもおれの方を見た。
ヰタ・セクスアリス (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「いえ、その方ならば大丈夫でごぜえます。ほら、あれを御聞きなせえまし、夜業よなべでもしておりますものか、あの通りつちの音が聞えますゆえ、棟梁達とうりょうたちの首は大丈夫でごぜえます」
蟹田がんだなる鍛冶かじ夜業よなべの火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしとつち持てる若者の一人答えていぶかしげなる顔す。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
翌朝村人僧の教えのままに、馬頭と金魚、および三足鶏の屍を見出し、また寺のいぬいすみの柱上よりつちの子を取り下ろす。この槌の子がもっとも悪い奴で、他の諸怪を呼んだのだ。
雑誌記者はつちをとって木魚をたたいた。ポクポクポクポク、なかなかその調子がいい。和尚さんも原という文学者もそれを見て、「これはうまい、たたいたことがあるとみえるな」
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
文字は学問をするための道具にて、たとえば家を建つるにつちのこぎりの入用なるがごとし。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
詩人らのつちの音が聞こえてきた。それは花瓶かびんの側面に種々のものを彫りつけていた。