むな)” の例文
くだん古井戸ふるゐどは、先住せんぢういへつまものにくるふことありて其處そこむなしくなりぬとぞ。ちたるふた犇々ひし/\としておほいなるいしのおもしをいたり。
森の紫陽花 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
松向寺殿の御居城八代やつしろに相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召具めしぐせられ、繁務にわれ、むなしく月日を相送り候。
のみならずついに何事をもなさず何をしでかすることなく一生むなしくひとの厄介で終わるということは彼にとって多少の苦痛であった。
河霧 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼女は動悸どうきを抑へながら、暫くは唯幌の下に、むなしい逡巡を重ねてゐた。が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
六対十の比率に安心していたのもむなしく、今自分達が出て奮戦しないと、このまま懐しい故郷へ帰れないことになるらしいのであった。
空襲葬送曲 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「どうしたものだろう?」茫然と、事件のうちに自失して、その処置も方針もつかず、幾日かを、ただ困惑とむなしい捜索に暮れていた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と博士はしるせり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひてむなしく帰る俗客もあるべしかし。(一月十八日)
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
怪しげな旅の男はそれを知って、山の中へ逃げ込んで、かいくれ姿を隠したから、追いかけて行った同心はむなしく帰って来ました。
彼は水に映るむなしき影を追うて疲れ、雲ひときれを捕える前に、おそらくはやがてこの妄想の犠牲となって、死に果てるであろう。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
が、万一自分が鴎外に先んじたらこの一場の約束の実現を遺言するはずだったが、鴎外が死んでしまったのでその希望もむなしくなった。
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
ただの一度の仕合にきずつきて、その創口きずぐちはまだえざれば、赤き血架はむなしく壁に古りたり。これをかざして思う如く人々を驚かし給え
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
付させられ懷姙くわいにんし母お三婆のもとへ歸るみぎり御手づから御墨付すみつきと御短刀たんたうそへて下し置れしが御懷姙の若君わかぎみは御誕生たんじやうの夜むなしく逝去遊おかくれあそばせしを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱むなしくかへる事度々なり、これ目前もくぜんしたる所なり。
しかもこの「東方の巡礼」は、既に幾度か出発し、西にあこがれて行き、そして国境のあたりをさまよい、むなしくまた家に帰って来た。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
瘳二子及び門人王稌おうじょ拾骸しゅうがいの功またむなしからず、万暦に至って墓碑祠堂しどう成り、祭田さいでん及び嘯風亭しょうふうてい等備わり、松江しょうこう求忠書院きゅうちゅうしょいん成るに及べり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、はんのひょろ長いむなしい幹が青い空におすように見られた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
それが、一夜限りのむなしい夢と消えないで、実生活の上に、ちゃんとした根を下して来たことが、信一郎にはこの上なく嬉しかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
若しやといふ果敢はかない期待がむなしく持ち續けられて半年も經つと、本當に世の中が眞暗になつて了つたやうな氣がするのであつた。
よく見ると右の腕はつけ元からなくて洋服の袖はむなしくだらりと下がっている。一足二足進み寄るのを見ると足も片方不随であるらしい。
小さな出来事 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
二時間以上もむなしく待ったでしょうか。もう辛抱し切れなくなった彼は、やがてとぼとぼと力ない足どりで山を下り始めました。
算盤が恋を語る話 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
山を越え川を渡り、谷峡を辿たどけわしい旅路を続けて、飯田城下もむなしく過ぎ、赤穂という小さな駅に泊ったときのことであった。
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
若者わかものは、せっかくここまできながら、のぞみのしまくこともできず、むなしく海底かいていのもくずになってしまうのかと残念ざんねんがりました。
一本の銀の針 (新字新仮名) / 小川未明(著)
痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕はむなしく二月を過ごした。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
船室に置いておいたら、いつの間にかだれか食ってしまい、ぼくには、そんなむなしいおくり物をする、だぼはぜ嬢さんがあわれだった。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
すなわちヨルダン川にて洗礼者ヨハネのバプテスマを受け給うたことから筆を起こして、墓のむなしくあったことに終わっている。
其後そのご一週間いつしゆうかんむなしく※去すぎさつたならば、櫻木大佐さくらぎたいさつひには覺悟かくごさだめて、稀世きせい海底戰鬪艇かいていせんとうていともに、うみ藻屑もくづえてしまうことであらう。
俺が行かない間は、共同弁護人はみんな手をむなしくして待つて居る。俺をさしおいて審理に取りかかるやうな事は決して無い。
畜生道 (新字旧仮名) / 平出修(著)
同じく漂流漂着という中でも、結果のあったものとむなしいものとがあって、勿論もちろん上古には第二の方が、悲しいほども多かったにちがいない。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
こうなってはむなしく引き揚げるのほかはなかったが、それでも年造の平素の行状や、死亡前の模様などを一応取り調べて置く必要があるので
半七捕物帳:55 かむろ蛇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そう思うと、にわかに、そのように見えて来るむなしかった一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠けだるさで、いつか彼は空を見上げていた。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
私が私自身に帰ろうとして、外界を機縁にして私の当体とうたいを築き上げようとした試みは、むなしい失敗に終らねばならなかった。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
心がかりの時間を、むなしく他の稽古の明くのを待っていた芸術座の座員たちは、ようやく翌日の午前二時という夜中に楽屋で扮装を解いていると
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
今は批判の時代であり意識の時代である。よき審判者たる幸が吾々に許されてある。私たちは時代の恵みとしてそれをむなしくしてはならない。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
宮崎運転士が、必死の力をふりしぼって差し出した手も、むなしく押し返されて、ひとびとは、それっきり、はなればなれに遠ざかって行った。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
眞理をあさりて、わざを有せざる者は、その歸るや出立つ時とさまを異にす、あにむなしく岸を離れ去るのみならんや 一二一—一二三
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
万里の波濤はとう俯瞰ふかん睥睨へいげいする大ホテル現出の雄図、むなしく挫折ざせつした石橋弥七郎氏の悲運に同情するもの、ただひとり故柳田青年のみならんや!
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
私どもは、とかく「明日あり」という、その心持にひかれて、つい「今日の一日」をむなしく過ごすことがあります。いや、それが多いのです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
研究せざれば無用の冗費じょうひのみかさなりて人はむなしく金銭を浪費するのみ。主人の中川新式の火鉢とスープ鍋を客の前にいださしめ
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
おほきな藏々くら/″\建物たてものむなしくほどさい傭人やとひにん桃畑もゝばたけに一にち愉快ゆくわいつくすやうになれば病氣びやうきもけそりとわすれるのがれいであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
むなしき脱穀ぬけがらのごとくに、その魂を後方に脱ぎ捨てる。人生は死と復活との連続である。クリストフよ、よみがえらんがために死のうではないか。
これらはいずれもが、漫然出来得ると軽率にも誤認し、それをむなしく求めているだけだと、私の常識と経験はいつでも断言をおしまないのである。
この有様を見て、その批評をする新聞はどういう風であるかというと、新聞の批評も心をむなしくして見れば、果して正確なる批評であるや否や。
政治趣味の涵養 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
前者を無視し、または前者と後者との考察の順序を顛倒てんとうするにおいては「いき」の把握は単にむなしい意図に終るであろう。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
その才の故にかえって四方に敵を作りむなしくうもれ果てたのは自業自得ではあるけれどもまことに不幸と云わねばならぬ。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
一日はむなしく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸ガラスども、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
黎元れいぐわん撫育むいくすることやや年歳としを経たり。風化ふうくわなほようして、囹圄れいごいまむなしからず。通旦よもすがらしんを忘れて憂労いうらうここり。頃者このごろてんしきりあらはし、地しばしば震動す。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ただむなしく有耶無耶うやむやとしているもののように見える場合に云うので、極端にえらい人やえらくない人、大人物を装うものや負け惜しみの強い卑怯者
鼻の表現 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
わたくし決心けっしんあくまでかたいのをて、両親りょうしん無下むげ帰家きかをすすめることもできず、そのままむなしく引取ひきとってしまわれました。
……そんなむなしい努力の後、やっと私の頭にうかんだのは、あのお天狗てんぐ様のいるおかのほとんど頂近くにある、あの見棄みすてられた、古いヴィラであった。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
免職の事を吹聴ふいちょうしたくも言出すしおがないので、文三は余儀なく聴きたくもないはなしを聞てむなしく時刻を移す内、説話はなしは漸くに清元きよもと長唄ながうたの優劣論に移る。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)