蒼黒あおぐろ)” の例文
三輛目の三等客車の窓から、思い切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへおろおろ会釈している蒼黒あおぐろい顔がひとつ見えた。
列車 (新字新仮名) / 太宰治(著)
蒼黒あおぐろくむくんだ、溺死者できししゃのような相貌になり、手足は極端にまで痩せ、まぶた指趾ししは絶えず顫戦せんせんし、唇からはよだれが垂れた。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非常ひじょうに遠くの方のこおったようにしずかな蒼黒あおぐろい空をかんずるのでした。
背景に船とほばしらと帆を大きくいて、その余った所に、際立きわだって花やかな空の雲と、蒼黒あおぐろい水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四五人いた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
頤骨あごぼねとがり、頬がこけ、無性髯ぶしょうひげがざらざらとあらく黄味を帯び、その蒼黒あおぐろ面色かおいろの、鈎鼻かぎばなが尖って、ツンとたかく、小鼻ばかり光沢つやがあって蝋色ろういろに白い。
灯明之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
もともとこちらの世界せかいのことであるから、さまでかわった事件ことおこらぬ。最初さいしょここへまいったとき蒼黒あおぐろかったわしからだがいつのにかしろかわったくらいのものじゃ。
ただ、小倉や門司もじを隔てて、一衣帯水の海門の潮流が、さばの背のように、蒼黒あおぐろく、暮れかけているだけだった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
セコチャンは、自分をのみ殺した湖の、蒼黒あおぐろい湖面を見下ろす墓地に、永劫えいごうに眠った。白い旗が、ヒラヒラと、彼の生前を思わせる応援旗のようにはためいた。
死屍を食う男 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒あおぐろい樹木の茂りが家を隠していた。かなり広い庭も、大木が造る影にすっかり苔蒸こけむして日中も夜のようだった。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
そして売場の前を通ってバルコニイへ出て、濠端ほりばたの夜景を見ていた。五月のころでもあったろうか、街路樹の葉はすでに蒼黒あおぐろしげっていて、軽い雨がふっていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私は蒼黒あおぐろほおのすぼんだ小男の染之助の代りに、美しい維盛卿と逢ったのだから、先方が神妙に控えているうちは好かったけれど、その維盛卿が私の前で手を突いて
ある恋の話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
森君は犬の脚を高く上げて、爪の間に西瓜すいかの種ほどの大きさにふくれている蒼黒あおぐろい蝨をつまんで、力一杯引張ってようやくの事で引離して、地面に投げつけると踏み潰した。
贋紙幣事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
全身、蒼黒あおぐろくなりその上、やせさらばう骨のくぼみの皮膚にはうす紫のくままで、漂い出した中年過ぎの男は嵩張かさばったうしろくびこぶに背をくぐめられ侏儒しゅじゅにして餓鬼のようである。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
「ああ、ここでしんぼうをするんだ。」と、下男げなんおもいました。そして、ゆきけ、こおりやぶって、そのすきまから、いとれました。こおりしたには蒼黒あおぐろみずかおせていました。
北の国のはなし (新字新仮名) / 小川未明(著)
引戸の前のほこりッぽい土の上にひざをついて、出て来るものを待ち受けていたのだ。ま上にはひろびろとしたあかるい空があり、地の上は蒼黒あおぐろく、窪み窪みからは夜がひろがっていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
蒼黒あおぐろい掌だけの指が、シッカリと軸を掴んでいるのだ、手首のところからすっぽりともげて、掌だけが、手袋のような恰好で……、手首の切れ目から、白い骨とけんがむき出され、まだ
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
今日現存する肖像画によれば、豊麗な美人と言ってよい方であるが、実際は決して美しくはなく、背が低く色が蒼黒あおぐろく、不恰好かっこうな鼻と、粗野な口とを持っていたとさえ伝えられている。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
それは山田稔としたわかい俳優の自筆であった。広栄の顔は蒼黒あおぐろくなっていた。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
青根で甲斐と会ったとき、彼は肥えているようにみえたが、いまはひどく痩せているし、皮膚の色も蒼黒あおぐろく、つやがなかった。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立こだち蒼黒あおぐろく見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地くぼちの左側に、また一軒の萱葺かやぶきがあった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まるっきりの、根っからの戯作者げさくしゃだ。蒼黒あおぐろくでらでらした大きい油顔で、鼻が、——君レニエの小説で僕はあんな鼻を読んだことがあるぞ。危険きわまる鼻。
ダス・ゲマイネ (新字新仮名) / 太宰治(著)
と見るとしゃちに似て、彼が城の天守に金銀をよろった諸侯なるに対して、これは赤合羽あかがっぱまとった下郎が、蒼黒あおぐろい魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そなたもとおり、おお見受みうける竜神りゅうじんたいてい蒼黒あおぐろいろをしてるであろうが……。
彼の頭には村はずれを流れている大川の早瀬が想い浮び、杉のもりの裏にある沼のよどんだ蒼黒あおぐろい水が見えるように思った。
日本婦道記:二十三年 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
館の前をおおうようにそびえている蒼黒あおぐろい一本の松の木を右に見て、綺麗きれい小路こみちをのそのそ歩いた。それでも肝心かんじんの用事について、父は一言ひとことも云わなかった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
短い角刈にした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼ひとえまぶた三白眼さんぱくがんと、蒼黒あおぐろい皮膚であった。身丈は私より確かに五寸はひくかった。私は、あくまで茶化してしまおうと思った。
逆行 (新字新仮名) / 太宰治(著)
森なす大芭蕉おおばしょうの葉の、沼の上へぬきんでたのが、峰から伸出のしだいてのぞくかと、かしらに高う、さながら馬のたてがみのごとく、たとえば長髪を乱したていの、ばさとある附元つけもとは、どうやらやせこけた蒼黒あおぐろ
沼夫人 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
蒼黒あおぐろく乾いたしわだらけの皮膚の下に、あらゆる骨が突き出ているようにみえ、腹部だけが不自然に大きく張っていた。
それから天井てんじょうの真中から蒼黒あおぐろい色をした鋳物いもの電灯笠でんとうがさが下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだためしのない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そのお方がおひとりでぼんやりお宅の門のそばに立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんにお会釈なさったら、その師匠さんの気むずかしそうな蒼黒あおぐろいお顔が
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
蛞蝓なめくじの舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まずいとして、その隅っ子の柱に凭掛よりかかって、遣手やりてという三途河さんずがわの婆さんが、蒼黒あおぐろい、せた脚を突出してましてね。
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
まるで酔いつぶれていた者が、そのまま起きて来たように、着物もはかましわだらけで、乱れた髪毛が、血のけのない、蒼黒あおぐろく憔悴した顔にふりかかっていた。
蒼黒あおぐろの中に茶の唐草からくさ模様を浮かした重そうな窓掛、三隅みすみ金箔きんぱくを置いた装飾用のアルバム、——こういうものの強い刺戟しげきが、すでに明るい電灯のもとを去って
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒あおぐろほおに薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っているはずだ。」とあきれるくらいに強く、きめつけるような口調で言い
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
そこには高さ二尺幅一尺ほどの木のわくの中に、銅鑼どらのような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。色は蒼黒あおぐろく貧しいに照らされていた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
顔色は蒼黒あおぐろく、骨のようにせて、おちくぼんだ眼だけが大きく、生きている証拠のように、たしかな光りと動きをもっていた。——掃部介信高は一昨年の冬、卒中で倒れた。
月の松山 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
蒼黒あおぐろい両頬が桃の実のようにむっつりふくれた。彼はそれを酒ぶとりであると言って、こうからだが太って来ると、いよいよ危いのだ、と小声で附け加えた。私は日ましに彼と仲良くなった。
ダス・ゲマイネ (新字新仮名) / 太宰治(著)
そこにはさい岩が多少の凸凹とつおうを描いて一面につらなる間に、蒼黒あおぐろ藻草もくさが限りなく蔓延はびこっていた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
枯木のようにせ、蒼黒あおぐろい顔をして、綿のはみ出た薄い蒲団にくるまって、はっはと苦しそうにあえいでいた。彼は又四郎を見ると黄色い歯をみせ、ひどくしゃがれた声でこう云った。
百足ちがい (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
直治は、十日ほど前に、南方の島から蒼黒あおぐろい顔になってかえって来たのだ。
斜陽 (新字新仮名) / 太宰治(著)
一丈余りの蒼黒あおぐろい岩が、真直まっすぐに池の底から突き出して、き水の折れ曲るかどに、嵯々ささと構える右側には、例の熊笹くまざさ断崖だんがいの上から水際みずぎわまで、一寸いっすん隙間すきまなく叢生そうせいしている。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は五尺あるかなしかの小男で、焦茶色にもなり蒼黒あおぐろくもなる顔色の、骨ばかりのようにせた、そして鼻の下にちょびひげを立てたという風態ふうていなんだ。少しばかりは出っ歯だったかもしれない。
陽気な客 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
十七、八の弟子がひとりいて、これは蒼黒あおぐろく痩せこけていた。散髪所と、うすいカアテンをへだて、洋風の応接間があり、二三人の人の話声が聞えて、私はその人たちをお客と見誤ったのである。
美少女 (新字新仮名) / 太宰治(著)
何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒あおぐろい葉を垣根のそばに茂らしているほかに、木らしい木はほとんどなかった。ほうき馴染なずまない地面は小石まじりに凸凹でこぼこしていた。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
焦茶色のようでもあり蒼黒あおぐろいようでもあるせた顔や思わせぶりなちょび髭も、ちっぽけなちょこまかしたからだつきも、なにもかも急にいやらしく狡猾にみえ、おれは馘になった落胆もあろうが
陽気な客 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
蒼黒あおぐろ土気つちけづいた色を、一心不乱に少女の頭の上にしかけるようにかざして、はらわたしぼるほど恐ろしい声を出す。少女はまたまたたきもせず、この男の方を見つめて、細い咽喉のどを合している。
満韓ところどころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
吃驚びっくりしたような眼と、伸ばした月代と、蒼黒あおぐろいような骨ばった顔を。
しじみ河岸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
杉かひのきか分からないが根元ねもとからいただきまでことごとく蒼黒あおぐろい中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引たなびいて、しかと見えぬくらいもやが濃い。少し手前に禿山はげやまが一つ、ぐんをぬきんでてまゆせまる。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ぶすっとそんなことを云って、濁酒どぶろく焼酎しょうちゅうを入れたのを取って、それをすぐには飲もうともせず、蒼黒あおぐろいような疲れた顔を俯向うつむけて、なにかぶつぶつ独りでつぶやいたり、なんども深い太息といきをしたりする。
嘘アつかねえ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
仰向あおむいて見たが、日向ひなたはどこにも見えない。ただ日の落ちた方角がぽうっと明るくなって、その明かるい空を背負しょってる山だけが目立って蒼黒あおぐろくなって来た。時は五月だけれども寒いもんだ。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)