けむり)” の例文
彼の考えは吐き出される煙草のけむりのように渦巻いた——彼は刑事に尾行されている——彼は郵便局の現金を盗み出したのであろうか。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
鳥部野とりべの一片のけむりとなって御法みのりの風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩にょぼさつ一員いちにん増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様おしょうさま随喜の涙をおとされし。
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
此のけむりほこりとで、新しい東京は年毎としごとすゝけて行く。そして人もにごる。つい眼前めのまへにも湯屋ゆや煤突えんとつがノロ/\と黄色い煙を噴出してゐた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
「何にしても、これでは困るけど……」と仰つた儘青木さんは、お吹きになつたお煙草のけむりの消えて行くのを見入つてお出でになる。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
紫のけむりが、春の光の中にゆらゆらと流れると、どこかの飼いうぐいすの声が、びっくりするほど近々と聞えます。長閑のどかな二月の昼下がり、——
敷島しきしまけむりを吹いていた犬塚が、「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生をさせて遣るがかろう」
食堂 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
けむりのようなもやがねばりついていた、そして村はずれに屹えている、のウェッテルホルンの絶壁には、滝のように霧が這い下って来る。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
今しがたまでお客がいたものと見え、酒のかおりと共に、煙草たばこけむりこもったままで、紫檀したんテーブルみぞには煎豆いりまめが一ツ二ツはさまっていた。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
この地獄は不潔な劣情のほのおによりて養われ、悔と悲のけむりによりてつちかわれ、過去の悪業に伴える、もろもろの重荷が充ちみちている。
しかし、その人は、家が焼けているのみを知って、そのけむりとともに、消え去って行く悲劇のあった事などは知らなかったのである。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
うがはやいか、おじいさんの白衣びゃくい姿すがたはぷいとけむりのようにえて、わたくしはただひとりポッネンと、この閑寂かんじゃく景色けしきなかのこされました。
今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿らしている。家々の湯のけむりも低く迷っている。
磯部の若葉 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
与次郎は烟草のけむりの、二三本はなから出切できる間丈ひかへてゐたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすら/\と話して仕舞つた。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
万物蕭条しょうじょうとした中に暖炉のけむりらしいものの立ち昇っているのなんぞを遠くから見ただけでも、何か心のなぐさまるのを感じた。
木の十字架 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
東京の街には夕霧ゆうぎりけむりのように白く充満して、その霧の中を黒衣の人々がいそがしそうに往来し、もう既にまったく師走しわすちまたの気分であった。
メリイクリスマス (新字新仮名) / 太宰治(著)
手に薬屋からかって来た、キナエンの薬袋を持ってうちへ入った。——風が少し出て来た。間もなく、お島の家の低い窓から真青なけむりが上り始めた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
ただ、雪と、林の木と幹とが見えるばかり。空を見れば、風もなく、けむりのような灰色の曇った空だ。空疎な、……絶えがたい寂莫な自然の姿だ。
遠野へ (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
その日その日をようよう細いけむりに暮らす小作人まで、それ相応に涙をふるうて財布の底払いをする訳ですから、貴下あなたなぞはうんと御奮発を願いたい。
厄払い (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
厨房だいどころすみからすみまでけむりで一ぱいでした、公爵夫人こうしやくふじん中央まんなかの三脚几きやくきつてッちやんにちゝましてました、それから料理人クツク圍爐裡ゐろり彼方むかふ
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
「山のゆ出雲の児等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(巻三・四二九)というので、当時大和では未だ珍しかった火葬のけむりの事を歌っている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
一の大河を隔てて東西に人里ある所に生まれて、朝のけむり東の里に立つ時は東に廻り到る、烟は立てども食いまだ出来ざる間、また西の里に烟立つを
「芭蕉の句の『馬にねて残夢月遠し茶のけむり』というのがその茶粥を炊く煙だそうですが、一体何んなもんですか?」
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
山中君は怖いと云うよりもただ呆気あっけにとられてそれを見つめていた。と、二三分も経ったかと思う比、その足がけむりのようにだんだんと消えてしまった。
天井からぶらさがる足 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その内北の方に火事のけむりが上がった。それを見たとき、なるほど地震には火事が伴うはずだったというふうな、当然のことを見ている気持ちになった。
地異印象記 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
時どきけむりを吐く煙突があって、田野はそのあたりからひらけていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
東の方の火事は停車場の方に燃えて行ったが、西の方の火の手は段々迫って来て、黒いけむりは松林にもかかって来た。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
私は懐古園かいこえんの松に掛った雪が、時々くずれ落ちるたびに、濛々もうもうとした白いけむりを揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のようにて了ったのをも見た。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「ここにく火のけむりなりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界じんかいを去らねばならぬものでない。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
地平線も町も、みんな暗いけむりの向ふになつてしまひ、雪童子の白い影ばかり、ぼんやりまつすぐに立つてゐます。
水仙月の四日 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
かさねしも女房お光が忠實敷まめ/\しく賃裁縫ちんしごとやら洗濯等せんたくなどなしほそくも朝夕あさゆふけむりたてたゞをつとの病氣全快ぜんくわいさしめ給へと神佛へ祈念きねんかけまづしき中にも幼少えうせうなる道之助の養育やういく
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
よその家の煮焚きのけむりは、ずっと前に消え尽して、箸もおわんも洗ってしまったが、陳士成はまだ飯も作らない。
白光 (新字新仮名) / 魯迅(著)
いまうへにはにくくし剛慾がうよくもの事情じじやうあくまでりぬきながららずがほ烟草たばこふか/\あやまりあればこそたゝみひたひほりうづめて歎願たんぐわん吹出ふきいだすけむりして
別れ霜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
大ドロ/\で幽霊が出るに就て、お定まりのカケ焔焼えんせうけむりを出すなんか古い、化学作用で奇抜な煙を出す。
硯友社と文士劇 (新字旧仮名) / 江見水蔭(著)
とかくするうちに松の花の黄ろい花粉が、ぽか/\と吹く風と共にけむりのやうにあたりに散るやうになつた。
(新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
と言って、眼も口も打たれて、開くことのできなくなったのは、濛々もうもうとして外から捲き込んだけむりでした。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
わづかにはぎが流れの末をくめりとも日々夜々の引まどのけむりこゝろにかかりていかで古今の清くたかく新古今のあやにめづらしき姿かたちをおもひうかべえられん
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
渓底たにそこから沸き上る雲のように、階下の群衆の頭の上を浮動して居る煙草たばこけむりの間を透かして、私は真深いお高祖頭巾の蔭から、場内にあふれて居る人々の顔を見廻した。
秘密 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
能茶山ほど知られてはいませんが安藝あき町近くにも一基の窯があって、けむりが立ちます。こういう雑窯はかえって省みられねばなりません。正直な仕事をしていますので。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
それに添うてうす青いけむりのすじがあとからあとから尾をひいて流れた。コルマックは自分が今どこに来たのかを知った。ちかい頃エイリイ自身から便りをよこしたから。
(新字新仮名) / フィオナ・マクラウド(著)
すると真白なけむり濛々もうもう立昇たちのぼった。どうやら強酸性きょうさんせいの劇薬らしい。なにをやっているのだろう。
爬虫館事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
すると、万年屋の二階の雨戸が二、三枚、あけに染まった虚空こくうの中へ、紙片かみきれか何んぞのようにひらひらと舞い上がりました。と、雨戸のはずれた中から真黒のけむりがどっと出る。
船蟲ふなむしむらがつて往來わうらいけまはるのも、工場こうぢやう煙突えんとつけむりはるかにえるのも、洲崎すさきかよくるまおとがかたまつてひゞくのも、二日ふつかおき三日みつかきに思出おもひだしたやうに巡査じゆんさはひるのも
三尺角 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
清三のいらいらした気持はすぐけむりのように消えていくのを覚えた。数皿の軽い料理が運ばれて、康子が清三に喰べろと云った、清三は葡萄酒で煮たという仔牛の肉を平げた。
須磨寺附近 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
余は昼に大抵帆船「ビアフラ」の甲板に出で、左にけむりのごときアフリカ大陸を眺め、右に果しなき大海原を見渡し、夜は月なき限り、早くより船底の寝室に閉じこもって眠る。
南極の怪事 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
本物の幽霊はピストルのけむりと一緒に消え失せてしまって、アトにはウンウン藻掻もがいている水夫長の肉体だけが残っていたのだから、説明の仕様がなくなった三人が、三人とも
幽霊と推進機 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼は身も世も忘るるばかりに念をめ、けむりを立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
赤蜻蛉あかとんぼのような雲が、一筋二筋たなびく、野面はけむりっぽく白くなって、上へ行くほど藍がかる、近処の黄木紅葉が、火でもともされたようにパッと明るくなる、足許の黒い砂には
雪中富士登山記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
自分の眼にはまづけむりこもつた、いや蒸熱むしあつい空気をとほして、薄暗い古風な大洋燈おほランプの下に、一場のすさまじい光景が幻影まぼろしの如く映つたので、中央の柱の傍に座を占めて居る一人の中老漢ちゆうおやぢ
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
あたしと一緒にけむりの出る煙突のついた大きなお船に乘つて、海を渡つて來ましたの——なんて烟だつたでしよ! そしてあたし氣持が惡くなつたのよ、ソフィイもさうだつたわ
俳諧の一つもやる風流はありながら店にすわっていて塩焼くけむりの見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、店は女房まかせ
置土産 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)