いこ)” の例文
春風はおもむろに空を吹き、また柳を吹く。柳の枝のなびくにつれて、そこに掛けた笠も揺れるのである。笠を掛けていこう者は旅人であろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
誠の道を、いたるところの名高い坊さん達に問ひたづね、又ひとりで石の上や小川のへりにいこふとき、自分の心の中に考へたづねた。
良寛物語 手毬と鉢の子 (新字旧仮名) / 新美南吉(著)
「白鳥の歌」の十四曲中、「アトラス」「都会」「セレナード」「いこいの地」「海辺にて」「影法師かげぼうし」などはわけても珠玉的である。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
おつぎは晝餐ひる支度したくちやわかした。三にん食事しよくじあとくちらしながら戸口とぐちてそれからくりかげしばらうづくまつたまゝいこうてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
その間二里半、そこを右に折れて道の至り得たところが峠である。乙舞峠という。年老いた一本の松が旅人にはいこいの茶屋である。
日田の皿山 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
長い苦難を経て、魂のいこいはようや飛鳥あすかの野にも訪れたかに思わるる、そういうほのかな黎明れいめい時代を太子は築かれつつあったのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
「長途の御旅、さだめし、おつかれにおわそう。山寺のことゆえ、雨露のおしのぎをつかまつるのみですが、お心やすくおいこいを」
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昼餉ひるげののち、師父しふが道ばたの松の樹の下でしばらくいこうておられる間、悟空ごくう八戒はっかいを近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
それとればにはかかたすぼめられてひとなければあはたゞしく片蔭かたかげのある薄暗うすくらがりにくるまわれせていこひつ、しづかにかへりみればれも笹原さゝはらはしるたぐひ
別れ霜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
追いつめられて、天地にたった一つの、最後に見つけた、鳥の巣、狐の穴、一夜のいこいの椅子であったこと、高須は、なんにも知らなかった。
火の鳥 (新字新仮名) / 太宰治(著)
其妾と云うかみみだした女は、都の女等をくさげににらんで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上にいこうた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
みちに迷いて御堂みどうにしばしいこわんと入れば、銀にちりばむ祭壇の前に、空色のきぬを肩より流して、黄金こがねの髪に雲を起せるは
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
心とからだいこいをどこかの山林に取りたいとはいつも思うことだが、そんな生活も現代ではすでに相当贅沢ぜいたくなものであった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
……そして、この怖ろしい考えがはっきり分ってきても、我ながら可笑おかしい程夫人は狼狽しなかった。むしろ不思議な落付きと安らかないこいを感じた。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
彼岸ひがんに達せんとすれどもながれ急なればすみやかに横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角がんかくぢていこひ、おもむろにその道を求めざるべからず。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
かくして、耕作と播種はしゅと収穫とを終え、つらいまた美しい労働を終えたとき、日に照らされた連山のふもといこうの権利を得て、その山々に向かって言う。
心の底の流れは河沿のこもの上の、土にいこう乞食の安けさに惹かれながら、まわりの都会生活の営々の気にあおられると
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りていこう。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
このみちは、はじめ来しおりの道よりは近きに下り坂なれば、人力車にてゆく。小布施という村にて、しばしいこいぬ。
みちの記 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
兎角とかくするほどに、海底戰鬪艇かいていせんとうてい試運轉しうんてんをはり、櫻木海軍大佐さくらぎかいぐんたいさふたゝ一隊いつたい指揮しきして上陸じやうりくした。電光艇でんくわうていあだか勇士ゆうしいこうがごとく、海岸かいがん間近まぢか停泊ていはくしてる。
あるとき、張果老が長い旅にすっかり疲れはてて、驢馬から下りて野なかの柳の蔭でいこっていたことがあります。
艸木虫魚 (新字新仮名) / 薄田泣菫(著)
植物園の黄昏たそがれに松やすゝきを眺めてバンクにいこうた時は日本の晩秋のうら寒い淋しさを誰も感ぜずに居られなかつた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
南京に着いて宿舎にいこう暇もなく汪精衛主席に会う都合がついたからと公館に挨拶に出かけることになった。
中支遊記 (新字新仮名) / 上村松園(著)
ようやく順番が来て加療が済むと、私達はこれからいこう場所を作らねばならなかった。境内到る処に重傷者はごろごろしているが、テントも木蔭こかげも見あたらない。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
負傷をうけ、病におかされ、敵地に俘虜ふりょとなってさいなまれ、最後に、やせた脚を引きずって家路をたどり、幼年時代の場所にいこいをもとめて帰ってきたのだ。
「島がみつかれば、どうなるんでしょう。そういえば私たちは、田鶴子さんの姿を見つけなかったし、田鶴子さんのいこっている部屋も見かけなかったですわねえ」
千早館の迷路 (新字新仮名) / 海野十三(著)
智のこれに達するや、あたかも洞の中に野獸ののけものいこふ如く、直ちにその中にいこふ、またこはこれに達するをう、然らずばいかなる願ひも空ならむ 一二七—一二九
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
………滋幹はそんなことを考えながら、耳の奥がじーんとするような静かさの中になお暫くいこうていた。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
幸福のあまい味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、——そのもたらす自由を、そのもたらすいこいをこそ、喜びむかえるべきではなかったか? ところが
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
子珍、定州界内に入りて路傍の樹蔭にやすむ所へまた一人来りいこい、汝は何人なんぴと何処どこへ往くかと尋ねた。
「長羅よ。我は爾のために新らしき母を与えるであろう。爾は臥所ふしどへ這入って、戦いの疲れをいこえ。」
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
この国の羅馬ローマ旧教の季節が来ている。お前も来て、主の受難を記念する夕方にいこえ。お前に食わせる麺麭パン、お前に飲ませる水ぐらいはここにも有ろうではないか……
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
自分たちはこれからこの涸沢のカールの底にある、自分たちにはもう幾晩かのなつかしいいこいと眠りのための場所であった、あの岩小屋へと下りてゆくところだった。
自転車が一台飛んで来て制止にかまわず突切って渡って行った。堀に沿うてうしふちまで行って道端でいこうていると前を避難者が引切りなしに通る。実に色んな人が通る。
震災日記より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ふもとへ十四五ちょうへだたつた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店ちゃみせいこつた時、裏に鬱金木綿うこんもめんを着けたしま胴服ちゃんちゃんこを、肩衣かたぎぬのやうに着た、白髪しらがじいの、しもげた耳に輪数珠わじゅずを掛けたのが
貴婦人 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
彼等父娘おやこはちらちらと崩れかかる榾火ほだびを取り巻いて、食後のいこいを息ずいていたのであったが、菊枝は野を吹く微風になぶられて、ゆれる絹糸のもつれのような煙を凝視みつめて
緑の芽 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
何處いづことも分らず、谷の末は元より意識にあるばかりで、私達の歩いてゐる處は、水の音によつてうかゞひ、立木のたけを見、いこひの息の冷えてゆくさまによつて知るの他はない。
黒岩山を探る (旧字旧仮名) / 沼井鉄太郎(著)
どうかして、かわばたにて、それについてゆこう。そのあとは、にねたり、さといこうたりして、みちきながらいったら、いつか故郷こきょうかえれないこともあるまいとおもいました。
海ぼたる (新字新仮名) / 小川未明(著)
「杖」は身をいこわせるためまた野獣を追うためで、旅人の必携品でありました。「糧」は食糧、「嚢」は食糧その他雑品を入れたもので、いわばかばんとかリュックサックの類。
さてその翌朝あけのあさ、聴水は身支度みじたくなし、里のかたへ出で来つ。此処ここの畠彼処かしこくりやと、日暮るるまで求食あさりしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみてある藪陰やぶかげいこひけるに。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
手すりの外側の壁と、それが支柱へつながる部分とは、緑の葉形模様でつくられていて、小さな天使たちがあるいは元気よく、あるいは静かにいこいながら、その葉をつかんでいた。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
吾がいこふ観音堂に楽書らくがきあり Wixon, Nicol, Spark の名よ
つゆじも (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕さいけいを、しばしば立ちどまりてはいこいつつ、一ちょうあまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
篠田はいつもの如く早く起き出でて、一大象牙盤ざうげばんとも見るべき後圃こうほの雪、いと惜しげに下駄をいんしつゝ逍遙せうえうす、日の光ははるか地平線下にいこひぬれど、夜の神がし成せる清新の空気は
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
何だか、寺の風呂のようなところでした。ささやかないこいの場所なのですが、こことても時間にきめられて這入るので、世間の風呂好きの女のように勝手にふるまうわけにはゆかないでしょう。
いこひ! 一度は、まらうどにならう。いつも、貧しいかてのみで空腹を充たすまい。いつも、すべてのものに敵意をもつのは止さう。一度は、すべてのものを起るがままにさせて置いて、それを見てゐよう。
伝教大師もこの道ではよほど難渋されたと見えて、広済こうさい広極こうきょくという二院を山中に立てて、後の旅人をいこわしむるようにされたとのことだが、その時代、路らしいものはあったにはあったと思われる。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
わがいこひなる、この胸騷むなさわぎのうちに。
一群ひとむら毎に埃がちいこふに堪へぬ惡草あくさう
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
ベンチありいこへば蜘蛛くもの下り来る
六百句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)