-
トップ
>
-
人數
>
-
にんず
幾ら
人數が少ないと
謂ツて、書生もゐる
下婢もゐる、それで
滅多と笑聲さへ聞えぬといふのだから、
恰で冬の
野ツ
原のやうな光景だ。
おゝい、おゝい、
母屋に
集へる
人數の
目には、
其の
盥たゞ
一枚大なる
睡蓮の
白き
花に、うつくしき
瞳ありて、すら/\と
流れ
寄りきとか。
この
八月の
十五日には
天から
迎への
者が
來ると
申してをりますが、その
時には
人數をお
遣はしになつて、
月の
都の
人々を
捉へて
下さいませ
呼て其方は天一坊
召捕方手配を致べしと仰付られ池田大助には天一坊
召取方を申付らる是に
依て三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ
人數を
廣くもない
畑へ
残らずが一
度に
鍬を
入れるので
各が
互に
邪魔に
成りつゝ
人數の
半は
始終鍬の
柄を
杖に
突いては
立つて
遠くへ
目を
配りつゝ
笑ひさゞめく。
それは
世間から
見ると、
人數は
少なし、
家邸は
持つてゐるし、
樂に
見えるのも
無理のない
所でせうさ。
人數は
彼のそそくさに
此女中と、
他には
御飯たきらしき
肥大女および、
其夜に
入りてより
車を
飛ばせて
二人ほど
來りし
人あり、
一人は
六十に
近かるべき
人品よき
剃髮の
老人
寶引にも
酒にも
加はらぬ
老人等は
棚の
周圍を
廻つてからは
歸つたものも
有つて
寮には
幾らか
人數も
減つて
居たが
若い
人は
筑前の
出生、
博多の
孫一と
云ふ
水主でね、十九の
年、……七
年前、
福岡藩の
米を
積んだ、千六百
石の
大船に、
乘組の
人數、
船頭とも二十
人、
寶暦午の
年十
月六日に
物いはゞ
振切らんず
袖がまへ
嘲るやうな
尻目遣ひ
口惜しと
見るも
心の
僻みか
召使ひの
者出入のもの
指折れば
少からぬ
人數ながら
誰れ
一人として
我れ
相談の
相手にと
名告出づるものなし
落すなと申
付られ又吉田三五郎には天一坊の
召捕方を池田大助には
召捕手配方を申付られたり是に
依て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ
人數を
配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を
家あり、
妻あり、
眷屬あり、いろがあつて、
金持で、
大阪を
一のみに、
停車場前を、さつ/\と、
自動車、
俥、
歩行くのさへ
電車より
疾いまで、
猶豫らはず、
十字八方に
捌ける
人數を
團子屋の
頓馬も
唯は
置ぬと
潮のやうに
沸かへる
騷ぎ、
筆屋が
軒の
掛提燈は
苦もなくたゝき
落されて、
釣らんぷ
危なし
店先の
喧嘩なりませぬと
女房が
喚きも
聞ばこそ、
人數は
大凡十四五
人
初め江戸の
出口十三ヶ所へ
人數を
これは
御世話と
筆やの
妻にも
挨拶して、
祖母が
自からの
迎ひに
正太いやが
言はれず、
其まゝ
連れて
歸らるゝあとは
俄かに
淋しく、
人數は
左のみ
變らねど
彼の
子が
見えねば
大人までも
寂しい
日露戰爭のすぐ
以前とは
言ひながら、
一圓づゝに
算へても、
紙幣の
人數五十枚で、
金の
鯱に
拮抗する、
勇氣のほどはすさまじい。
時は
二月なりけるが、
剩さへ
出陣に
際して、
陣羽織も、よろひもない。
公園の
圍の
草畝を
枕にして、うちの
女中と
一つ
毛布にくるまつた。これに
鄰つて、あの
床屋子が、
子供弟子づれで、
仰向けに
倒れて
居る。
僅に
一坪たらずの
處へ、
荷を
左右に
積んで、
此の
人數である。