くぎ)” の例文
年老いた父が今麦稈むぎわら帽子をくぎにひっかけている。十月になっても被りつづけている麦稈帽子、それは狐がけたような色をしている。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
彼女は扉のそばにくぎ付けになって、身動きもせず、凍えきり、歯をうち合して震え、扉を開く力もなく、床につく力もなかった……。
私は海をながめていた。腰掛はくぎがゆるんでいるので、足を突っ張ってうまく支えていないと、すぐさまつぶれてしまいそうであった。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
二人の客はいつも来る人と見えて、何か親しげに子供に物を言ふ。主客とも雨覆を脱いで長押なげしくぎに掛けて、奥に這入つて行つた。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
掃き清められた広い刑場の奥手には白衣を着た女たちがずらりと髪の毛を木のくぎにくくりつけられたままだらんとぶらさげられている。
飯を食ってから、踏台をして欄間らんまくぎを打って、買って来た額を頭の上へ掛けた。その時細君は、この女は何をするか分らない人相だ。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ある人咸陽宮かんようきゅうくぎかくしなりとて持てるを蕪村はそしりて「なかなかに咸陽宮の釘隠しといはずばめでたきものなるを無念の事におぼゆ」
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
為世はそれに対しては「万葉集の耳遠き詞などゆめゆめ好み読むべからず」と一本くぎをさして、「詞は三代集をづ可らず」を固く守る。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
尖端せんたんうへけてゐるくぎと、へい、さてはまた別室べつしつ、こは露西亞ロシアおいて、たゞ病院びやうゐんと、監獄かんごくとにのみる、はかなき、あはれな、さびしい建物たてもの
六号室 (旧字旧仮名) / アントン・チェーホフ(著)
先刻さっき見た裏口とは反対の方、奥の主人の部屋の前の板塀の上に、忍び返しが少し損じて、古くぎに新しいきれが少し引っかかっていたのです。
「どうだ、これを怪しいとは思わねえか。あの金庫のことは、ネジくぎ一本だって調しらべをつけてあったんだ。それにむざむざと……」
地中魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そうして事のついでにもう一本痛烈なくぎをぶち込んで二十年間の溜飲を一度に下げてやろうと決心したのでいよいよ落ち着いて咳払いをした。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
これをくぎで打ちつけるとひびがはいりやすく、またそこから腐りやすかったので、板屋根にはくぎをつかうことを非常にきらった。
母の手毬歌 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そして、まるでくぎづけにでもされたように、そのまま彼から目を放さなかった。レベジャートニコフは戸口の方へ行こうとした。
私はひつぎくぎを打ちます。十一時きっかりに礼拝堂へ参ります。歌唱の長老たちとアブサンシオン長老とがきていられるのでございますな。
ところが人形には、うす着物きものの下にくぎがいっぱい、とがったさきを外にけてつまっているのです。いくら大蛇おろちでもたまりません。
人形使い (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
居士を病床にくぎ附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎はこの時既にその症状を現わし来つつあったのであった。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
大工が仕事を初めたところで、くぎをすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智慧ちえを欠かなかった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
額際ひたいぎわとか、み上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合ころあいの笊を注文して、頭へ一つ一つくぎで打ち附けて行ったものです。
木々の枝を透いてあちこちのくぎづけになった別荘があらわに見えて来ますが、日向さんのところはいつも締まっていて、ひっそりとしています。
朴の咲く頃 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
袈裟けさをはずしてくぎにかけた、障子しょうじ緋桃ひもも影法師かげぼうし今物語いまものがたりしゅにも似て、破目やれめあたたかく燃ゆるさま法衣ころもをなぶる風情ふぜいである。
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あざみも長い間の押し問答の、石にくぎ打つような不快にさっきからよほどごうが沸いてきてる。もどかしくて堪らず、酔った酒もめてしまってる。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
こしたばさみ此青壯年あをにさいいざ行やれとのゝしりつゝ泣臥なきふし居たる千太郎を引立々々ひきたて/\行んとすれば此方こなたむねくぎ打思ひ眼前がんぜん養父のあづかり金を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
いけないことだ。「我はその手にくぎあとを見、わが指を釘の痕にさし入れ、わが手をそのわきに差入るるにあらずば信ぜじ」
散華 (新字新仮名) / 太宰治(著)
そのあとに玩具がんぐのように小さい櫃が竹くぎを入れたらしく、仮輪かりわで形だけ整ったのがころがっている。かやはそれを取上げ
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
一本くぎを打ッた言い方だった。そして相手の反応をたのしむような眼が、道誉の顔のなかの黒子ほくろと一しょに、にんまりする。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
万寿丸は同じく吉竹よしたけ船長——これはやっぱりこの船のブリッジへびついたねじくぎ以外ではなかった——によって、しぼることを監督されていた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
でも、そうしていてもしかたがないので、おとうさんの甲野さんは、思いきって箱をあけてみることにし、金づちやくぎぬきを持ってこさせました。
魔法人形 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
今度は此方こつちも意地になつて、菓子折で作つた札に、「X—新聞固く御断り申候まうしさふらふ」と油絵具でしたゝめ、それをくぎづけにした。
姉弟と新聞配達 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
それも、すっかりマホガニイの木でこしらえて、銅のくぎで打ちつけて、銅の板でくるんだ、丈夫な船でないと、とても向うまでいくあいだ持ちません。
黄金鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
与一は二寸ばかりの黄色い蝋燭ろうそくくぎ箱の中から探し出すと、灯をつけて台所のある部屋へやの方へ疳性かんしょうらしく歩いて行った。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
たもとをまくって見せましたが、落ちる拍子にくぎか何かに触ったのでしょう、ちょうど右腕のひじのところの皮が破れて、血がにじみ出ているのでした。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
双眼鏡のレンズを虫めがねにして、よく見ると、くぎでかいた英文であるが、なにぶんにも長い月日をへたものらしく、ほとんど消えかかっていた。
無人島に生きる十六人 (新字新仮名) / 須川邦彦(著)
ただ眼つきだけが、見るものの一つ一つにくぎを打ちこむように鋭い。足もとに、ボストン・バッグと、手さげカバン。
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
「だからそれへこの札をつけてさ。——ほれ、ここにくぎが打ってある。これはもとは十字架じゅうじかの形をしていたんだな。」
蜃気楼 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そしてみせてから、もう一自分じぶんいた看板かんばん見返みかえしていたが、いつしかかんがんで、地面じめんくぎづけにされたように、じっとしてうごかなかった。
生きている看板 (新字新仮名) / 小川未明(著)
それは、窓の傍の壁にくぎづけになつてゐる、葉の落ちた櫻の小枝にやつて來て啼いてゐたのだ。私の朝御飯のパンとミルクの殘りが卓子テエブルの上にあつた。
じッと、くぎづけにされたように、春信はるのぶは、おせんの襟脚えりあしからうごかなかった。が、やがてしずかにうなずいたそのかおには、れやかないろただよっていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
台所には、みんなが持ってきてある小さい土瓶どびんが、せとものやのように幾段にもくぎにかけてずらりと並んでいた。
アスファルト路の欠けた処をふさぐためにくぎづけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、金槌かなづち、やっとこの類で、取りはずすのに、大童おおわらわでした。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
空吹く風もつち打つ雨も人間ひとほど我にはつれなからねば、塔破壊こわされても倒されても悦びこそせめ恨みはせじ、板一枚の吹きめくられくぎ一本の抜かるるとも
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その天井の鏡板の一枚にあるたいへん奇妙な画像が、私の注意をすっかりくぎづけにするように強くひきつけた。
落穴と振子 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
初めは恐る恐るぬすみ見たが、次第に太田の眼はじっと男の顔にくぎづけになったまま動かなかった。そういわれて見ればなるほどこの癩病患者は岡田なのだ。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
せめては令見みせしめの為にも折々くぎを刺して、再び那奴しやつはがいべしめざらんにかずと、昨日きのふは貫一のぬからず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ほんの一本くぎがゆるみ、板の継ぎ目がひとつ口をあけようものなら、死神は侵入してくるかもしれないのだ。
船旅 (新字新仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
灰寄せの人夫が集まって、くぎや金物のたぐいを拾った焼け跡には、わずかに街道へ接したへいの一部だけが残った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
郵便配達からは小言の食いづめにあった。それからは固くくぎで打ちつけたが、それでも門標はすぐがされた。この小事件は当時梶一家の神経を悩ましていた。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
「その手にくぎの痕を見、わが指を釘の痕にさし入れ」て見なければ基督キリストの復活は信じないと言い張った、不信者トマスの言葉に飜訳ほんやくすることが出来るであろう。
チェーホフの短篇に就いて (新字新仮名) / 神西清(著)
かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏げたくぎをならべうち蹉跌すべらざるためとす。唐土もろこしにては是をるゐとて山にのぼるにすべらざるはきものとす、るゐ和訓わくんカンジキとあり。
うしてかれ卯平うへいたいする憎惡ぞうをねんかれこゝろきり穿うがつてさらくぎもつ確然しつかちつけられたのであつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)