ちかづ)” の例文
楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年こどもから大人にちかづいたのである。急に自分のことが解つて来たのである。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
思起すと、私はもう一足も其の方へちかづくのに堪へぬやうな氣がして、にぐるが如く東照宮の石段をのぼつて、杉の木立の中に迷ひ入つた。
歓楽 (旧字旧仮名) / 永井荷風永井壮吉(著)
むさゝびからぬがきツ/\といつてむねへ、やがおよ小山こやまほどあらうと気取けどられるのがむねすほどにちかづいてて、うしいた。
高野聖 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
大洞は、色を失つて戦慄せんりつするお加女の耳にちかづきつ、「こし気を静めさして今夜の中にそつと帰へすがからう——世間に洩れては大変だ」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
知らず、その老女ろうによは何者、狂か、あらざるか、合力ごうりよくか、物売か、はたあるじ知人しりびとか、正体のあらはるべき時はかかるうちにも一分時毎にちかづくなりき。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
大井おほゐ中津川なかつがはの諸驛を過ぎて、次第に木曾の翠微すゐびちかづけるは、九月もはや盡きんとして、秋風しうふう客衣かくいあまねく、虫聲路傍に喞々しよく/\たるの頃なりき。
秋の岐蘇路 (旧字旧仮名) / 田山花袋(著)
鴿はとの面をもてる者に蛇の心あり、美はしき果実に怖ろしき毒を含めることあり、洞にちかづけば※蛇げんじやちつし、林に入れば猛獣遊ぶ。
哀詞序 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
折柄おりから廊下をちかづく足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
灯下書に親むべきとき、刻々にちかづく、万物は涼々たる清味を湛へ始めた時、——諸君の健康と努力とをひたすらに祈ります。
〔編輯余話〕 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
少年少女こどもたちちかづくと、トムちやんは手を上げてこれを制しておいて、自分の方からダラダラ坂を下の方へ駈けて行きました。
女王 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
ちかづけば飛ぶ山鳥を追ひ廻して彼方此方へと走る程に森の奧に稍〻明るき光を見て、鳥追ふことも忘れ、光を慕ひ行きぬ。
花枕 (旧字旧仮名) / 正岡子規(著)
同情のみが彼らの心を占領したらんには、彼らはただちにヨブにちかづいてあつき握手をなし以て慰藉いしゃことばを発したであろう。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
顏を洗ふべく、靜かに井戸にちかづいた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この曉方の神々しい靜寂しづけさを破る必要がなかつた。
葬列 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へちかづいても臭気紛々たるものであったそうだ。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
此時このとき電光艇でんくわうていはるかのおきから海岸かいがんちかづきたり、櫻木海軍大佐さくらぎかいぐんたいさは、無事ぶじ一隊いつたい水兵すいへいとも上陸じやうりくしてたので、陸上りくじやう一同いちどうたゞちに其處そこ驅付かけつけた。
品物しなものけばわかります。だがね、そいつはきてるから、ちかづいたらびついて、すぐ噛殺かみころさないとげられますよ、よござんすか。では、さよなら
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
遊人などをちかづけていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑稽こっけいにも莫迦々々ばかばかしくも見えた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
自分じぶん少年せうねんとは四五十けんへだたつてたが自分じぶんは一けんして志村しむらであることをつた。かれは一しんになつてるので自分じぶんちかづいたのにもつかぬらしかつた。
画の悲み (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
それが漸次しだいちかづくと、女の背におぶはれた三歳みっつばかりの小供が、竹のを付けた白張しらはりのぶら提灯ぢょうちんを持つてゐるのだ。
雨夜の怪談 (新字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
さうすると、とろりとろりと最後の笛を鳴らす。水平にちかづく頃には、ちやうど八月の青草の中に一つ開いた落花生の花のやうな黄ろい燈をともしたのである。
海郷風物記 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
進んで和文世に出でゝ言語と文章のやうやく親密にちかづきし事情を叙する所、鋭敏なる観察力は火の如く耀かゞやけり。
明治文学史 (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
七時にちかづいても友は帰って来なかった。佐瀬がいとまを告げようとした時に、電話の呼鈴が激しく鳴った。
真珠塔の秘密 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
交渉はようやく歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社にとおざかり、博文館にちかづいた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
うまくあの役者にちかづくことが出来たかしら。そんなことを想像すると、もう一刻もじっとしていられない。そこで、確芝居を見た翌々日だったかに、僕はまたRを訪問した。
百面相役者 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸にちかづき望みを起し自ら制せんとして制し得ず
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
先年桃林の花を見に来た時この門前に一人の婆さんが茶を売ってったことを思い出す、ちかづいて見れば無論婆さんは居ない、茶店のあったらしい所には石が三つ四つ並んで居る
八幡の森 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
猪や羚羊も恐れてちかづかねば、岩燕や雷鳥でも躊躇ちゅうちょするだろう、何だか形容のしようもない。
穂高岳槍ヶ岳縦走記 (新字新仮名) / 鵜殿正雄(著)
道行く旅人、野に分け入る百姓は相いましめて、決して琵琶池のほとりにちかづかないという。
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
譬えていえば少女が男子にちかづくことを怖れる、その理由をただせば知らない。
「死」の問題に対して (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
私は暗い路ばたにしょんぼり佇んで、独り涙んでいたが、ふと人通りの途絶えた向うから車のわだちが聞えて、提灯ちょうちんの火が見えた。こちらへちかづいてくるのを見ると、年の寄った一人の車夫が空俥からくるまを挽いている。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
かくの如くにして初めて吾人の目的にちかづくことをべきなり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
信仰の行者を除くの外、昼も人跡まれなれば、夜に入りてはほとんちかづくものもあらざるなり。その物凄き夜をえらびて予はことさらに黒壁に赴けり。
黒壁 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
中年にちかづくに従って元気のない影のような人間になっていたが、旧友の遠藤に説きすすめられ、光子母子おやこの金にふと心が迷って再婚をした。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
互に歩み寄りて一間ばかりにちかづけば、貫一は静緒に向ひて慇懃いんぎんに礼するを、宮はかたはらあたふ限は身をすぼめてひそか流盻ながしめを凝したり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
顔を洗ふべく、静かに井戸にちかづいた自分は、敢てかしましき吊車の音に、この暁方あかつきがたの神々しい静寂しづけさを破る必要がなかつた。
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
長い/\山国の冬が次第にちかづいたことを思はせるのはこれ。其朝、丑松の部屋の窓の外は白い煙におほはれたやうであつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
自分と少年とは四、五十けん隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心になっているので自分のちかづいたのに気もつかぬらしかった。
画の悲み (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
この時、村の方から松明たいまつの火がちかづいて、大勢の人声や跫音あしおとが乱れて聞えたので、すねきず持つ彼は狼狽うろたえて逃げた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
反対に、お貞さんの方の結婚はいよいよ事実となってあらわるべく、目前にちかづいて来た。お貞さんは相応の年をしている癖に、宅中うちじゅうで一番初心うぶな女であった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
頭がくわつとなつたが、それが治まらないで、輕い頭痛と變つて、蟀谷こめかみが痛んだ。時計が五十分にちかづいた。刻々にその刻秒の音が聞えるほどあたりは靜かである。
少年の死 (旧字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
その秘宮には各人之にかぎして容易に人をちかづかしめず、その第一の宮に於て人は其処世の道を講じ、其希望、其生命の表白をなせど、第二の秘宮は常に沈冥にして無言
各人心宮内の秘宮 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
四十代時分には、時々若い遊人あそびにんなどをちかづけたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、ちいさい時から甘やかして育てて来た子息むすこの房吉を、猫可愛ねこかわゆがりに愛した。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
うつして織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋あづまやちかづきぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方こなたを振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
この時李はにわかに発した願が遽にかなったように思った。しかしそこに意外の障礙しょうがいが生じた。それは李が身を以て、ちかづこうとすれば、玄機は回避して、強いてせまれば号泣するのである。
魚玄機 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
手品使いの言葉なんか耳にもかけず、の青年は一寸法師の方へちかづいて行った。
踊る一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし、さらば余は神を拝し神にちかづくための礼拝堂を有せざるか。
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
あはや、くちばしちかづかうとすると
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
円形の池を大廻りに、みどりの水面に小波ささなみ立って、二房ふたふさ三房みふさ、ゆらゆらと藤のなみさかしまみぎわに映ると見たのが、次第にちかづくと三人の婦人であった。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そのそばに児守こもりや子供や人が大勢立止たちどまっているので、何かとちかづいて見ると、坊主頭の老人が木魚もくぎょたたいて阿呆陀羅経あほだらきょうをやっているのであった。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
もしやと聞着けし車の音はやうやちかづきて、ますますとどろきて、つひ我門わがかどとどまりぬ。宮は疑無うたがひなしと思ひて起たんとする時、客はいとひたる声して物言へり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)