まぎ)” の例文
自分が悪口を云われる口惜くやまぎれに他人の悪口を云うように取られては、悪口の功力くりきがないと心得て今日まで謹慎の意を表していた。
田山花袋君に答う (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさをまぎらせようとでもするのか、あちこちと草の中を歩きまわっていた。……
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
まぎれもない、昨夜平次が枕元から盜られた短刀。曲者はこれで植惣をあやめた後、三つ葉葵を散らした鞘だけは持つて歸つたのでせう。
さてはと思って近寄って見ますと、これがまぎれもない白銀の鏡で、今まで美留女姫と思ったのは自分の姿が向うに映っているのでした。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
だが、よく見ると、その門に書いてあるのは、甚だ宝蔵院とまぎらわしい名で「奥蔵院」としてあるのである。頭字かしらじが一つ違っている。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ありゃア酔ったまぎれにツイ摘食つまみぐいをしたので、己がわるかったから堪忍してくれろ、もう二度と彼処あすこきさえしなければいだろう
遺恨ゐこんに存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙つけねらひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りをあとよりつけ來り夜にまぎれて兩人を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
つまり表通りや新道路の繁華な刺戟しげきに疲れた人々が、時々、刺戟をずして気分を転換する為めにまぎれ込むようなちょっとした街筋——
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ところが五月に這入つてから頭の工合が相変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかはるがはるの介抱かいほうに多少の苦しみはまぎらしとつたが
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
学士は答を笑いにまぎらせながら、冷い水で顔を洗った。井戸端から外を見ると、今日も連山には一点の雲も懸っていない好天気だった。
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
肉身の弟が予の召使と通謀して予の供にまぎれ込み、ビョルゲ邸に入り込んで大悪を企図していることを知るものは、予ただ一人である。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
「お祇園さんじゃけ、子供といっしょになって、ワイワイ騒いだら、気分もまぎれやせんかと思うてな、東京に、手紙を出しといた」
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
が、ものおと人聲ひとごゑさへさだかには聞取きゝとれず、たまにかけ自動車じどうしやひゞきも、さかおとまぎれつゝ、くも次第々々しだい/\黄昏たそがれた。
露宿 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
たくみな陰をえらんだ縫い方は、人であるよりも、なにか、やみのくずれがよどんでながれているように、まぎれやすいものであった。
野に臥す者 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
泣いても笑っても一人である。淋しさをまぎらせようと布団の下にある子供たちの手紙をとりだしては泣き、八重の写真を眺めては泣いた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
しかし私の手蹟じゃ不味まずいから長州の松岡勇記まつおかゆうきと云う男が御家流おいえりゅうで女の手にまぎらわしく書いて、ソレカラ玄関の取次とりつぎをする書生に云含いいふくめて
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
何ぞ気イまぎれるようなことはと思いまして、——先生は御存知でしょうか、——あのう、天王寺てんのうじの方に女子技芸学校がっこいうのんありますねん。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
トロツコの車輪を蹴つて見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、——そんな事に気もちをまぎらせてゐた。
トロツコ (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
「姉えさんの言う通りです。いつでも二人で今のような、出来ないことばかし言って、父母の恋しいのをまぎらしているのです」
山椒大夫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そうした時の寂しさとやるせなさをまぎらすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。
この時、下界のこの混乱の中へ、どこをどうしてまぎれ込んだか一挺の駕籠かごがかつぎ込まれたのは、奇観ともなんとも言いようがありません。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるもからの箱をたずさり、喜びにも悲みにも其心の動くたびわが顔色を悟られまじとて煙草をぐにまぎらせるなり
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
二人ふたりは、ぐるぐると横道よこみちをまがって、まぎらそうとしました。しかし、やはりだめでした。いかけてきたおんなは、すぐうしろへせまっていました。
子供どうし (新字新仮名) / 小川未明(著)
圧制あっせい偽善ぎぜん醜行しゅうこうたくましゅうして、ってこれをまぎらしている。ここにおいてか奸物共かんぶつども衣食いしょくき、正義せいぎひと衣食いしょくきゅうする。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
「どこかふくの下にでもまぎれこんではおらんかな、え? ひょっとしたら、長靴ながぐつの中にナイフがちてるかも知れんぞ、え?」
身体検査 (新字新仮名) / フョードル・ソログープ(著)
無論長吉は何とでも容易たやすくいいまぎらすことは出来ると思うものの、それだけのうそをつく良心の苦痛にうのがいやでならない。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
山鳴り谷答えて、いずくにかひそんでいる悪魔あくまでも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にもまぎれずに聞えた。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「しかしあんまり同情も出来ませんよ。苦しまぎれですから、うっかりしているとひとの答案を見ます。一人答案の掏り替えをやった奴がありました」
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
例えばわかくして山にまぎれ入った姉弟が、そのころの紋様もんようあるの衣を着て、ふと親の家に還ってきたようなものである。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
芋掘いもほりいやだが、鉱掘かねほりも忌だねえ。どうせ楽はきないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。すきなお酒でも飲んでまぎらしているのさ。」
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼女は、到頭部屋の中に、じっとすわっていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気をまぎらすために、庭の中を歩いて見たいためだった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
さくらに十日ほどおくれて、若い下僕の吾平が行方ゆくえくらましたので、密通のうえかけおちということにまぎれはなかった。
醜聞 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼は唯、学問に没頭することによって、僅かにない失恋の悲しみをまぎらそうとした。北川氏はそれらの事情を知り過ぎる程よく知っていた。
恐ろしき錯誤 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
其れをまぎらすために目を開いて何か唱歌でも歌はうと試みたが、のど硬張こはゞつて声が出無かつた。と、突然低い静かな声で
蓬生 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
などと、自分の病気についての事を云い出したい様にして居たけれ共、栄蔵は、種々な話にまぎらして、一寸の間も、いやな話からのがれて居たがった。
栄蔵の死 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
ただワイワイとはたのやかましいのに、お光は悲しさも心細さも半ばまぎらされていたのであるが、寺からもどって、舅の新五郎も一まず佃の家へ帰るし
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
出帆しゅっぱん前からの神経異常が、あなたとのたのしい交わりに、まぎらわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭のしんは重だるく、気力もなくなり
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめきみだれていても、わが心はそれにまぎれることなくただ一向ひたすらに、別れて来た妻のことをおもっている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
つづみの与の公、この丹波の命をうけて供の人数へまぎれこみ、こけ猿の茶壺をかつぎだしたのです。引出物がなくては、お婿さんの行列は立ち往生。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
苦痛を苦痛でまぎらすように私はお前にすがるのだが、それも結局、お前と私の造り出す地獄の騒音によって、古沼のような沈澱ちんでんの底を探りたい念願に他ならぬ
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
かれはどうしても斷念だんねんせねばならぬこゝろくるしみをまぎらすためふきくはして煙管きせる火皿ひざらにつめてたが
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
信吾は、其話が屹度きつと智恵子の事だと察してゐる。で、う此女に顔を見られると、擽られる様な、かつがれてる様な気がして、妙にまぎらかす機会はづみがなくなつた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
混雑する旅人の群にまぎれて、先方さきの二人も亦た時々盗むやうに是方こちらの様子を注意するらしい——まあ、思做おもひなしせゐかして、すくなくとも丑松には左様さうれたのである。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
動き廻っているときは気がまぎれて、現実にはげしく身を触れあっている気にもなるのだが、ひとりになってみて、気持がほとんど揺れ動いていないことに気がつくと
黄色い日日 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
だがなかなか質問の仕方も上手で、笑いにまぎらすとその僧侶はいろいろの点から質問を始めて来る。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
「気をおまぎらしになって、病気のことをお思いにならないのがいちばんよろしゅうございますよ」
源氏物語:05 若紫 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「いかにも俺は、あの人が好きだよ。好きで好きで、たまらんというような人だ。これだけ言ったら、大将も気が済んだろう」と、なにかをまぎらすように笑うのである。
人外魔境:05 水棲人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
蜘蛛の巣の糸は光りにまぎれて見えないので、ぢつとしてゐる小さい蜘蛛は、空間に喰つ附けられてゐるやうに動かない。土の上には濃い木の陰がはすかひに写つてゐる。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
闇太郎にまぎれなき由、承わって、御隠居さまへ、御土産おみやげとして召し連れました次第でござりまする
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
ても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、最愛いとしき者を見もし見られもせんとからくも思ひさだめ、重景一人ともなひ、夜にまぎれて屋島をのがれ、數々のき目を見て
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)