火影ほかげ)” の例文
遠くの方へ流れてゆく小さなさびしい火影ほかげと三味線の音——小さい者は泣くにもなけない不思議なわびしさに閉じこめられてしまう。
旧聞日本橋:17 牢屋の原 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
すっかり目がさめて、じっと目を据えると、窓越しにすぐ前の壁の上に、燈火のついたどこかの窓の赤い火影ほかげがさしてるのを認めた。
その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影ほかげ口惜くやしさうに見つめてゐました。
アグニの神 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
さっき、隅の小屋から足を洗いに飛び出した若い男のつらがまえは、ちらと火影ほかげに見ただけであるが、到底、凡者ただものまなざしではなかった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、毎晩まいばんのように、そのおみやにあがったろうそくの火影ほかげが、ちらちらとらめいているのが、とおうみうえからのぞまれたのであります。
赤いろうそくと人魚 (新字新仮名) / 小川未明(著)
黄色い薄明りが障子を照して、火影ほかげが搖曳してゐる。それは皆が寢てゐる部屋からではなくてその次の間の茶の間からであつた。
続生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
揺れる火影ほかげに入乱れる処を、ブンブンとうなって来て、大路おおじの電車が風を立てつつ、さっ引攫ひっさらって、チリチリと紫に光って消える。
露肆 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
米友はにがりきって、行燈の火影ほかげに薄ぼんやりした室内を見廻した揚句に、ギックリと眼を留めたそれは、床の間の掛軸です。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
わが家に辿たどりついて、机の上の燈火をつけると、その火影ほかげもまた昨夜とは違い、にわかに清く澄んでいるような心持がする。
虫の声 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
こけむしたる古井のもとに立ちて見入るに、唐紙からかみすこし明けたるひまより、一三〇火影ほかげ吹きあふちて、一三一黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ。
晩に、たがいに近くランプの火影ほかげにすわって、沈黙に陥るような場合に、彼女は彼が今にも言い出しはすまいかとにわかに感ずるのであった。
火影ほかげ片頬かたほゝけたつまかほは、見恍みとれるばかりに綺麗きれいである。ほゝもポーツと桜色さくらいろにぼかされて、かみいたつてつやゝかである。
背負揚 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
楽しい笑声は座敷の内にあふれた。お志保はあかくなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈ランプ火影ほかげに横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
ついあそこまで往って見たい。火影ほかげが外へ差しているか。話声がかすかにでも聞えているか。それだけでも見て来たい。いやいや、そんな事は出来ない。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
寝しずまった町はひそやかで、両側の家々はとぼそしとみも、門も窓もとざしてしまって、火影ほかげ一筋洩らしていなかった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
取出し拔て行燈あんどう火影ほかげきつと鍔元より切先きつさきかけて打返し見れども見れどもくもりなき流石さすが業物わざもの切味と見惚て莞爾と打笑うちわらさやに納めて懷中ふところへ忍ばせ父の寢顏ねがほ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
うろ/\方々を見廻すうちに、侍がきらつく長いのを持って立って居たのを火影ほかげに見たから、小僧は驚き提灯をほうり出して向うへ逃げ出したから提灯は燃え上る
冬になると雪が全然すっかり家を埋めてしまう、そして夜は窓硝子まどガラスから赤い火影ほかげがチラチラとれる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林のこずえから雪がばたばたとちる
牛肉と馬鈴薯 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
守の前に出されると、ほのぐらい火影ほかげに背を向けたまま、女は顔に袖を押しつけるようにしてうずくまった。
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
港の中には汽船ふね二艘にはい、四つ五つの火影ほかげがキラリ/\と水に散る。何処ともない波の音が、絶間たえまもない単調の波動を伝へて、働きの鈍り出した渠の頭に聞えて来た。
病院の窓 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
四度目であったか——火影ほかげの暗い座敷に、独り机によっていたら、引入れられるように自分のこと、お前のこと、またお宮のことが思われて、こらえられなくなった。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
朝の薄い光が窓から斜めに隊長の頭に落ちていたが、近頃めっきり白さの増した頭髪やまた形相ぎょうそうの衰えが、蝋燭の火影ほかげの中でくまをつくり、かえって険悪な表情に見えた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
本館の方から洩れてくる部屋部屋の火影ほかげが、植込の間にちらちらと見えるかと思えば、庭の木立の上からは、まっ白いお月さまが、そっと、のぞき込むのでございました。
両面競牡丹 (新字新仮名) / 酒井嘉七(著)
硝子張ガラスばりの障子を漏れる火影ほかげを受けているところは、家内やうちうかがう曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立こだちむ夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然ぶるぶると身震をして起揚たちあが
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
天幕てんまくの中で今日の獲物をあつものの中にぶちこんでフウフウ吹きながらすするとき、李陵は火影ほかげに顔を火照ほてらせた若い蕃王ばんおうの息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
くはふるに前檣々頭ぜんしやうしやうとう一點いつてん白燈はくとうと、左舷さげん紅燈こうとうえで、右舷うげん毒蛇どくじや巨眼まなこごと緑色りよくしよく舷燈げんとうあらはせるほかは、船橋せんけうにも、甲板かんぱんにも、舷窓げんさうからも、一個いつこ火影ほかげせぬかのふね
テカテカする梯子段はしごだんを登り、長いお廊下を通って、ようやく奥様のお寝間ねま行着ゆきつきましたが、どこからともなく、ホンノリと来るこうかおゆかしく、わざと細めてある行燈あんどう火影ほかげかすかに
忘れ形見 (新字新仮名) / 若松賤子(著)
同時にボーッと燃え上る火影ほかげが二人でふり返って見ている障子にゆらめいて又消えた。
あやかしの鼓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
にははしらにもなるべき木を惜気をしげもなくたきたつる火影ほかげてらすを見れば、末のむすめは色黒いろくろ肥太こえふとりてみにくし。をり/\すそをまくりあげて虫をひらふは見ぐるしけれどはぢらふさまもせず。
秩父ちゝぶの雪の山颪やまおろし、身を切るばかりにして、戸々こゝに燃ゆる夕食ゆふげ火影ほかげのみぞ、慕はるゝ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
「泊めてもらうって——宿屋かね。」と車夫は提灯の火影ほかげに私の風体ふうていを見て
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
惣八郎はと見ると、篝火かがりび火影ほかげで、けぬきを使っていた。惣八郎は今日のできごとを誰にも披露しなかったのだ、と思った。が、甚兵衛の心のうちには、それに対する感謝の心は湧かなかった。
恩を返す話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ふけ行く夜に奧も表も人定まりて、築山つきやま木影こかげ鐵燈かねとうの光のみわびしげなる御所ごしよ裏局うらつぼね、女房曹司の室々も、今を盛りの寢入花ねいりばな對屋たいやを照せる燈の火影ほかげに迷うて、妻戸を打つ蟲の音のみ高し。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
岸近く飛びかふのは松明たいまつである。その赤い焔を風が赤旗のやうにゆるがせてゐる。ちらつく火影ほかげにすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立つて何かの合図をしてゐる。
音吉はゆらめく火影ほかげに、暫くあちこち地面を眺めていたが
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
夢はゆらぎぬ、柔かき火影ほかげの波に。
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
火影ほかげにそむけ、人知れず。
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
人と火影ほかげの美くしい
晶子詩篇全集拾遺 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
そのの十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影ほかげ口惜くやしそうに見つめていました。
アグニの神 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
火影ほかげはなお壁の上にさしていた。しかしそれはもうランプか蝋燭ろうそくかの反映のように薄く穏やかになっていた。窓は相変わらず開かれていた。
ここへ来ると、行手に遠見の番所の火影ほかげがボンヤリと見えている。万一の場合、大きな声を出しさえすれば、誰か番所から駈けつけてくれる。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その夜竜子はいつものように、生れてから十七年、同じように枕を並べて寝た母の寐顔ねがおを、次のからさす電燈の火影ほかげにしみじみと打眺めた。
寐顔 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
また、その一つの火影ほかげしたにすわって、こちらのおきつめているおばあさんの姿すがたを、ありありとえがいていたのです。
海の踊り (新字新仮名) / 小川未明(著)
その蝋燭の日中に並びとぼ火影ほかげには、黒い着物のまま石段の上にひざまずいて、戦地にある人のために無事を祈ろうとするような年若な女も居た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それは蛇形だぎょうじんのごとく、うねうねと、裾野すそののあなたこなたからぬいめぐってくる一どう火影ほかげである。多くの松明たいまつ右往左往うおうざおうするさまにそういない。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
早瀬はその水薬すいやく残余のこり火影ほかげに透かして、透明な液体の中に、芥子粒けしつぶほどの泡の、風のごとくめぐるさまに、莞爾にっこりして
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
日が暮れるとすぐ寝てしまううちがあるかと思うとの二時ごろまで店の障子に火影ほかげを映している家がある。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
街路みちの両側には、門々に今を盛りと樺火かばびが焚いてある。其赤い火影ほかげが、一筋町の賑ひを楽しく照して、晴着を飾つた徂来ゆききの人の顔が何れも/\酔つてる様に見える。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
私は此度は幕で火影ほかげを包んで置いて、それから腹這いになって、煙草を一本摘んだ。それが尽きると、また立ち上って暗くした。お宮はやがてぐっすり寝入ったらしい。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その火影ほかげに照らされて、しょんぼりと立った人影は、他ならぬ三合目陶器師すえものしであった。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)