おもむろ)” の例文
春風はおもむろに空を吹き、また柳を吹く。柳の枝のなびくにつれて、そこに掛けた笠も揺れるのである。笠を掛けていこう者は旅人であろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体をおもむろに運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それから思えばナオミのような少女を家に引き取って、おもむろにその成長を見届けてから、気に入ったらば妻に貰うと云う方法が一番いい。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、おもむろ巻莨まきたばこを取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝にいた、肩がそびえた。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おもむろに椅子を離れた長髪の人は右の手で額をき上げながら、左の手に椅子の肩をおさえたまま、き父の肖像画の方に顔を向けた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
『横笛、横笛』、件の武士は幾度か獨語ひとりごちながら、おもむろに元來し方に歸り行きぬ。霞の底に響く法性寺ほふしやうじの鐘の聲、初更しやかうを告ぐる頃にやあらん。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
もし仮にしかりとすれば年少後学の枕山は父の友であった五山に対してまず刺を通じて、然る後おもむろに謁を請うべきはずであろう。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おもむろに、彼女の乗つたブランコは、巨大な時計の振子のやうに、砂を払つてゆるやかにくうを蹴つた。やがて振子は半円に達するほどの弧を描いた。
海棠の家 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
貴女きじょは?」と正次は驚きながら訊ねた。訊ねながらも油断無く、ゆみ矢筈やはずをパッチリと嵌め、脇構えにおもむろつるを引いた。
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのために幾度いくたびまぶたぢ/\した。なみだおもむろにあふれでゝもう直視ちよくししようとはしない眼瞼まぶたひかり宿やどしてまつてゐた。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
正面から持ち込めばねるにきまっているから、先ず冗談で皮切りをして、おもむろに俊一君の申開きをする段取りだった。
嫁取婿取 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
一の心状を示さむが為、おもむろに物象を喚起し、或はこれとさかしまに、一の物象を採りて、闡明せんめい数番の後、これより一の心状を脱離せしむる事これなり。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
ソクラテスは、その間、心静に、師を思う情の切なるこの門弟子もんていしの熱心なる勧誘の言葉に耳を傾けておったが、やがておもむろに口を開いて答えていうには
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
市九郎は、街道に沿うて生えている、一むらの丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦の近づくのを、おもむろに待っていた。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして、静かに竿を立て、おもむろにあしらいつつ、手許へ引き寄せて、掛かった鮎を手網のなかへ吊るし入れた。長さ七寸あまり、三十五匁はあろうと思う。
(新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
息巻くお峯の前に彼はおもてして言はず、静に思廻おもひめぐらすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまでことばを継がざりしが、さておもむろ
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
離れ山の洞窟のこの荒くれ男から、少しはなれた切株の上に腰をおろしたわかい女は、なまなましい脚を組んで、やはり山麓をゆく一行をおもむろに見まもっていた。
四年前に仁和寺にんなじ御室から叮嚀な封状が届いたのでギョッとしたが、相手が出家ゆえ金の催促でもあるまいと妻子の手前おもむろに開封すると、茶の十徳という事あり
習慣というの類といえども、そのって来るところを密にして、現在並びに将来に於ける利害得失を究めて、しかる後におもむろにその向うところを定めなければならぬ。
現代の婦人に告ぐ (新字新仮名) / 大隈重信(著)
うでをこまねいて、あごをいた春信はるのぶは、しばおのひざうえ見詰みつめていたが、やがておもむろくびった。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
軒端のきばから青竹あをだけたなうていてあるむしろわたつておもむろまはる。彼等かれらはそれをお山廻やままはりといふのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
爾迦夷るかゐすなはち両翼を開張し、うやうやしくくびを垂れて座を離れ、低く飛揚して疾翔大力を讃嘆すること三匝さんさふにして、おもむろに座に復し、拝跪はいきしてただ願ふらく、疾翔大力、疾翔大力
二十六夜 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
おもむろに某国代表の御意見は御尤ごもっともであるが、しかし他方にはまたこういうこともあるから、御再考を願いたいというような、婉曲に対手あいての感情を害せぬように叮嚀ていねいに争うのである。
国家の元気索然さくぜんとして、遂にた奮わず、この膝一たび屈して遂にた伸びず、故に一時逆流に立ち、天下の人心を鼓舞作興し、しかる後おもむろに開国の国是こくぜを取らんと欲したるのみ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
とうげの馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々ゆうゆうたる霊山とを黄昏たぞがれおもむろに来たりて包容し尽したり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
マドロス君はおもむろに牝牛の下に手を入れて、その大きな乳房を撫でてみているうちに、丼を下へあてがって、乳をしぼりはじめたものです……その乳がなみなみと丼の上にあふれ出した時分
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
人格とはかかる場合において心の奥底より現われきたって、おもむろに全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とはかくの如き要求に従った行為でなければならぬ。
善の研究 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
狩野川の川口に起つて、千本浜、片浜、原、田子の浦の海岸に沿ひおもむろに彎曲しながら遠く西、富士川の川口に及んでゐる。長さにして四里に近く、幅は百間以上の広さを保つて続いてをる。
沼津千本松原 (新字旧仮名) / 若山牧水(著)
読み終ると、法水は椅子を前に進め、おもむろに莨に火を点じてから、云い続けた。
夢殿殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
愈〻いよ/\平地へいちはなれて山路やまぢにかゝると、これからがはじまりとつた調子てうし張飛巡査ちやうひじゆんさ何處どこからか煙管きせる煙草入たばこいれしたがマツチがない。關羽くわんうもつない。これを義母おつかさんおもむろたもとから取出とりだして
湯ヶ原ゆき (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
判事はおもむろに放火殺人以下八つの罪名に於て被告支倉喜平を東京監獄に拘留すと書いて最後に署名をした。時に午後九時を過ぎる事二十分で、支倉が東京監獄に這入ったのが同日午後十時だった。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
と、おもむろに口を開いた老人、さてどんな名案を彼に授けようとするか?
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しら雲のくきを出づるおもむろなる静けさで横に移って行く。
富士 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
私は気の毒になっておもむろに起ち掛けようとすると
鴎外博士の追憶 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
おもむろにとりあつめたるむろうち、いとおもむろに
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
匂はおもむろに起き上りて腕をさす
花枕 (旧字旧仮名) / 正岡子規(著)
おもむろに、彼方かなたへ。
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
馬琴はおもむろに一服吸ひつけながら、何時もの通り、早速話を用談の方へ持つていつた。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
戯作三昧 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
老人は馬蠅の飛び去る方をにらみながら、「酒屋か郵便屋だろう。うっちゃってお置きなさい。」とおもむろ石摺いしずりの古法帖をたたんだ。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
日和の空に高く啼く雲雀の声を聞きながら、おもむろに旅程に上る。こういう風物を採って直に餞別とするのは、俳句以外の詩のあまり執らぬ手段であろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラを差しつけて、おもむろに自分の顔を検査し始めた。そうして、命令を下した。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
読み終えて、巻くともなしに手紙を掌に持ったまま、私の冥想はおもむろに、さまざまの方へ向かっていった。
わが童心 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
やがておもむろに夜が來る。さうして靜なる眠の中へ、常に絶えざる「明日は」の希望に導かれて入つて行く。
輝ける朝 (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
蟹はおもむろに穴に入っておれの眷属が到る処充満しいるから鶴はそれを己一人とおもうてだまされる事と笑いいる、鶴が飛んでいる中何処どこへ往っても蟹の穴があるのを見て
爾迦夷るかいすなわ両翼りょうよくを開張し、うやうやしくくびを垂れて座をはなれ、低く飛揚ひようして疾翔大力を讃嘆さんたんすること三匝さんそうにして、おもむろに座に復し、拝跪はいきしてただ願うらく、疾翔大力、疾翔大力
二十六夜 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
唯、縹緲ひようびようたる理想の白鷺は羽風おもむろ羽撃はばたきて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬かうほねの白く清らにも漂ふ水の面に映りぬ。これを捉へむとしてえせず、この世のものならざればなりと。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
正成は悦びたとうるものなく、謹みかしこんで両手に受け、おもむろに開いて読んで行った。
赤坂城の謀略 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
数万の群集を足許あしもとに低き波のごとく見下みおろしつつ、昨日きのう通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆おしかえ人数にんずを望みつつ、おもむろに雪のあぎとに結んだ紫のひもを解いて、結目むすびめを胸に、烏帽子を背に掛けた。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その時に琵琶のぬしが代りました。琵琶ばかり弾いて、あえて歌わなかった一曲はそれで終って、新たに代った人が同じところへ坐って、おもむろに歌い出したのが「木崎原」の一段であります。
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
周圍しうゐ臺地だいちからは土瓶どびんふたをとつて釣瓶つるべをごつとかたむけたやうに雨水あまみづが一ぱいあつまつていね穗首ほくびすこひたつた。田圃たんぼほりひとつにつたみづ土瓶どびんくちからすやうにおもむろひくへとおちる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)