ひさし)” の例文
なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被ほおかぶりした半纏着はんてんぎが一人、右側のひさしが下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。
菎蒻本 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
犇々ひし/\と上げくる秋の汐はひさしのない屋根舟を木の葉のやうに軽くあふつて往来と同じ水準にまでもたげてゐる——彼はそこに腰をかけた。
雪をはじめにかきこむすきは、ものすごく大きくて、前へひさしのように出ていた。一郎は、時間のたつのも忘れて、じっと見つめていた。
未来の地下戦車長 (新字新仮名) / 海野十三(著)
わざと、しょくともさずにある。すすきの穂の影が、縁や、そこここにうごいている。ひさしからし入る月は燈火ともしびよりは遥かに明るかった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
本堂はそばに五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりもさびがあった。ひさし最中まんなかからさがっている白いひもなどはいかにも閑静に見えた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
取りはぐれまして難渋なんじゅうひと方ではござりませぬ。今宵いち夜、おひさしの下なとお貸し願えぬでござりましょうか、お願いでござります
牡丹屋ぼたんやの裏二階からは、廊下のひさしに近く枝をさし延べているしいこずえが見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
一枚の畳が乗るだけの台だからそんなに広くない土間に五つ六つのが入るはずもなく私の部屋の長いひさしの下へも一つ持って来た。
通り雨 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
くやしいことと云いながら、津留はつと手を伸ばし、ひさしに吊ってある青銅の古雅な風鈴をはずして、そのまま窓框まどがまちに腰をかけた。
日本婦道記:風鈴 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「よい、よい、よい」と云うような歩き具合いでお祖母さんがまだ朝の光が届きかねて居るくらい奥深い玄関のひさしから出て来た。
かやの生立 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ぶりき板の破片や腐つた屋根板でいたあばらは数町に渡つて、左右さいうから濁水だくすゐさしはさんで互にその傾いたひさしを向ひ合せてゐる。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「どうもないだろう。」とすわったままひさしの先から空を見上げて、「大丈夫やろう、あの通り北風雲あいぐもだから。」と言いました。
少年と海 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
お寺のひさしを見込む形になり、「お稚児桜」でまた長い袖をたくし上げて、西の堂を前に、ひじの角度を左右に開いた形もよい。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
古い汚ないひさしの低い弥勒みろくともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
見ればさきの関白様(兼良男教房のりふさ)をはじめ、御一統には悉皆しっかいお身仕度を調えて、おひさしの間にお出ましになっておられます。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
私は玄関ポーチの横の長く張り出されたひさしの下を選んで、馬を廻した。これらの仕事を、随分手間取ってやっとし終えた時に、東屋氏がやって来た。
死の快走船 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
その途端に、吹き募ったあらしは、可なり宏壮こうそうな建物を打ち揺すった。鎖で地面へつながれているひさしが、吹きちぎられるようにメリ/\と音を立てた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そこは根本中堂のある一山の中心地帯になっていたが、広場から幾らかくぼみの中にある中堂のひさしからは、雪解のしたたりが雨のように流れ下っていた。
比叡 (新字新仮名) / 横光利一(著)
ひさしの上に目の玉の大きな口を開いて、饅頭笠をかぶったその当時の姿をした郵便屋さんが、手に手紙をもって走っている人形が、えつけてあり
新古細句銀座通 (新字新仮名) / 岸田劉生(著)
夜目にも、もの凄い横波が、ひさしのようにおおいかぶさったかと思うと、次の瞬間にはボートはひとたまりもなくひっくりかえってしまったのだった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
金属で巻く飾りも出来て居る。前髪を前で分けたり七三で分けたりしてあるのが若い女の頭で、四十以上の人は日本のひさし髪と同じ形を好んでして居る。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
ブラットシュトレエムは、防水布のひさしの突き出たスウェエデン式の水夫帽を、おれは丸いヘルゴランド風の毛の鳥打——いわゆる大黒頭巾というやつを。
なぐり合い (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
ところがこの二、三日、午飯時おひるどきになると、きっと誰かしらのお弁当が紛失なくなっている。今日も眼玉のひさしとあだなされている、あたしの妹の分がなくなった。
やみにもよろこびあり、ひかりにもかなしみあり麥藁帽むぎわらばうひさしかたむけて、彼方かなたをか此方こなたはやしのぞめば、まじ/\とかゞやいてまばゆきばかりの景色けしき自分じぶんおもはずいた。
画の悲み (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
呼び出した院の預かり役の出て来るまで留めてある車から、忍ぶ草のい茂った門のひさしが見上げられた。たくさんにある大木が暗さを作っているのである。
源氏物語:04 夕顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
近所の省線電車の土堤どてなどから雑草をぬいてきては、軒先三尺の路地口へそれを植えて、陽のめのささぬひさしごしに、見えない太陽を振り仰いでいるんだと
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
窓硝子まどガラスに、白い雨がにじんで来た。ついツ、ついツと、小鳥がひさしをよぎつてゐる。ゆき子は立つて、硝子戸を開けた。眼の前の山も空も乳色に煙つてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
俯向うつむけて歩いていた、ひさしの乱れ髪を、一寸横に傾けて、稲妻のように早い、鋭い一瞥いちべつもとに、二人の容貌、態度、性格をまで見たかと思われる位であった。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
『こんなもの、見てゐても仕樣しやうがない。』と、小池は砂だらけの階段を下りて、ひさしの下にかゝげてある繪馬ゑまたぐひを一つ/\見ながら、うしろの方へ𢌞はらうとした。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板はめいた目触めざわりだというので、椿岳は工風をしてひさしを少し突出つきだして、羽目板へ直接じかにパノラマ風に天人の画を描いた。
日本の古い百姓にしてもその茅屋根の勾配といい、張り出しのひさしといい、土間といい、すすびた大黒柱といい、外庭といい、いかにも日本固有の雅味がある。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
薄いウール地の和服の女は、まぶしそうにまゆの上にひさしをつくり、ワイシャツにセーター、ズボンの男のほうは、所在なげにホテルの部屋鍵を指でまわしている。
一人ぼっちのプレゼント (新字新仮名) / 山川方夫(著)
それで階下したへおりてみると、下は立込んだひさし差交さしかわしたあいだから、やっとかすかな日影がちゃの方へれているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
月の光にすかし見れば、半ばくづれし門のひさし蟲食むしばみたる一面の古額ふるがく、文字は危げに往生院と讀まれたり。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
暫く泥棒猫のやうに、天井から天井へ、はりから梁へと渡つて歩いた平次、何時の間にやら、羽目からスルリと拔け出して、離れのひさしの下に這ひ込んでしまひました。
これはうしろから奥の女中方がのぞく処だと申しますが、如何いかゞでございましょうか。白洲には砂利が敷いてあって、其の上はひさしもっおおい、真中まんなかは屋根無しでございます。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
団十郎のふんした高時の頭は円く、薄玉子色の衣裳いしょうには、黒と白とのうろこの模様が、熨斗目のしめのように附いていました。立派な御殿のひさししとみを下した前に坐っています。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
「あたいね、お二階にいると、飛び下りたり、つたってひさしからぶらんこして下りて見たくなる。」
蜜のあわれ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
もう一つはその家の打ち出したひさしなのだが、その廂が眼深まぶかに冠った帽子の廂のように——これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」
檸檬 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
たゞ南瓜たうなすだけは特有もちまへおほきなをずん/\とひろげてつるさきたちまちにかはやひくひさしかられた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
九月ももう二十日を過ぎたので、殘暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々しと/\ひさしを濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰氣な心を起させる。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
寒いあられがばら/\と板戸やひさしを叩き、半里許り距離の隔つてゐる海の潮鳴が遙かに物哀しげに音づれる其夜、千登世は死人の體に抱きついて一夜を泣き明したことを繰返しては
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
いつもの彼なら、ひさしから庭木を伝ってでも下におりて盗み聞きするのだが、今日は不思議に手足まで固くなったような気がして、机の前に坐ったきり、小一時間も動かなかった。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
やっと私は、祖母の部屋の真うらの、広いひさしはりに、いつも金網張かなあみばりの四角な「蠅入はえいらず」があることを思い出した。私はそっとそれをのぞいて見た。が、その中には何もなかった。
一番年量としかさの、多分高谷の姿でも真似たつもりだろう、髪をひさしに結うて、間色のリボンを付けたのが、子を負ったまま、腰を屈めて、愛嬌の深い丸顔を真赤にしてしきりに謝っている。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
ひさしふかさがおいかぶさって、あめけむったいえなかは、くらのように手許てもとくらく、まだようや石町こくちょうの八つのかねいたばかりだというのに、あたりは行燈あんどんがほしいくらい、鼠色ねずみいろにぼけていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
半町ほど先から道が曲がって、見通すことはできなかったが、その曲がり角にかなり大きな、薬種屋らしい家があって、ひさしにかかげてある看板のあたりに、鋭く白く光る物があった。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
斜めになった陽光が、家々のひさしにきられ、黒い格子戸ごしにぼんやりし込んでいる。刻々にうすれている。日没どきのうらぶれた静かさが水色の空気となって城下の街を包んでいた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
肌理きめの細かい真白い顔に薄く化粧をして、頸窪うなくぼのところのまるで見えるように頭髪かみを掻きあげてひさしを大きく取った未通女おぼっこい束髪に結ったのがあどけなさそうなお宮の顔によく映っている。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
そこで二人はれだってひさしの中へ入ったが、しばらくして連城は笑っていった。
連城 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)