“背(そむ)” の例文
奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝頼に背(そむ)いて、徳川に帰順したわけである。
長篠合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
左(と)に右(か)く紅葉の政治的才幹が硯友社を結束し、美妙が忽ち背(そむ)いて孤立したのが二者の成功を著るしく懸隔さした一つの原因であった。
お前(まえ)とは長年(ながねん)いっしょにくらして来(き)たが、お前(まえ)はただの一言(ひとこと)もわたしの言葉(ことば)に背(そむ)かなかった。わたしたちはしあわせであったと思(おも)う。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
著実の性や堅固な質が、工藝の美を守るのである。不確さや粗悪は慎しまねばならぬ。それは用に逆らうが故に美にも背(そむ)くのである。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
有爲轉變(うゐてんぺん)の世の中に、只〻最後の潔(いさぎよ)きこそ肝要なるに、天に背(そむ)き人に離れ、いづれ遁(のが)れぬ終(をはり)をば、何處(いづこ)まで惜(を)しまるゝ一門の人々ぞ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
徒(いたず)らに恋愛の泥濘(でいねい)に悶踠(もが)いているにすぎない彼に絶望していたが、下手に背(そむ)けば、逗子事件の失敗を繰り返すにすぎないのであった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
と考へて、学士は痙攣状に顔をくしや/\させて、頭を右左にゆさぶつて、窓に顔を背(そむ)けて、ぼんやりして部屋の白壁を見詰めてゐた。
帝(みかど)は御伯父(おじ)のこの宮に深い御愛情をお持ちになって、宮から奏上されることにお背(そむ)きになることはおできにならないふうであった。
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
小賊(せいぞく)肯(き)かずして、則(すなは)ち刀(かたな)を執(と)つて其(そ)の指(ゆび)を切(き)つて珠(たま)を盜(ぬす)むや、指(ゆび)より紅(くれなゐ)の血(ち)衝(つ)と絲(いと)の如(ごと)く迸(ほとばし)りぬ。頭領(とうりやう)面(おもて)を背(そむ)けて曰(いは)く、於戲痛哉(あゝいたましいかな)。
唐模様 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
今年の暮に機屋一家は破産しそうである。それはお蝶が親の詞(ことば)に背(そむ)いた為めである。お蝶が死んだら、債権者も過酷な手段は取るまい。
心中 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
が、一方ではまた、仇討は仇討だ、君父の仇を討ったものが、たとい公儀の大法に背(そむ)けばとて、やみやみ刑死に処せられるはずはない。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
覚めてから覚えている夢も覚えていない夢も、母にはぐれたり、背(そむ)いたり、厭われたりするような夢ばかりなことはたしかだった。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
「だからといって他の人を愛する気にはなれない。私には古い貞操観念がこびり着いているので、それに背(そむ)くことは生れつきできない」
鍵 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
良(い)い分別といふのは外(ほか)でもない、もしか卜新老が約束に背(そむ)いたら、持前のお医者の腕を揮(ふる)つてみせる事だ。ゲエテが言つたぢやないか。
かのラオコーンには——ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背(そむ)いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
これが傍に坐し、左の者の傍には、恩を忘れ心恒(つね)なくかつ背(そむ)き易(やす)き民マンナに生命(いのち)を支(さゝ)へし頃かれらを率(ひき)ゐし導者坐す 一三〇—一三二
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
ここに若日下部の王、天皇に奏(まを)さしめたまはく、「日に背(そむ)きていでますこと、いと恐し。かれおのれ直(ただ)にまゐ上りて仕へまつらむ」
「いや、わしも思わぬことではないが……。如何せん、固く守って攻めるなかれ、という洛陽の勅命じゃ。勅に背(そむ)くわけにゆかん」
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「それは余も一度見たことがありますが、実に顔を背(そむ)けずにはいられなかったです。その毒蛇と今日の毒蛇と、毒性は同じものですかね」
事態がこうなってみると、玄竜はその命令に背(そむ)く訳には行かなくなったのだ。いよいよこの二日の中に出掛けねばならなかった。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
「この蛇を取ってお捨てなさい」と法然が云えば法蓮房は生来非常の蛇嫌いの人であったけれども師命背(そむ)き難く、こわごわその蛇を捕え
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
と写真を直視しているのにも堪えやらぬように、顔を背(そむ)けながら突っ立っていた亭主が、震え声を出して私の口許を凝視(みつめ)ていた。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
使いの内侍(ないし)が、民人として国王の命にそむくことはできぬと言葉をはげましていうと、「国王の仰せ事を背(そむ)かば、はや殺し給ひてよかし」
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
何卒(どうぞ)旦那これだけは私(わたし)の云う事を聞いて、今迄貴方のいう事は背(そむ)かねえが、私(わし)も最(も)う五十一になって、貴方より外に力に思う者はないに
先方(むこう)の知らぬを幸いに地底を深く螺旋形(らせんけい)に掘り、大富金山に属すべきものを我らが方へ横取りするは、天意に背(そむ)いたいわば盗(ぬす)み。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
一朝手裏剣をとっては稀代(きだい)の名手である点、なるほど「山椒(さんしょう)は小粒でもピリッとからい」に背(そむ)かないとうなずかせるものがある。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「それがしは、帝に背(そむ)き奉つて、悪魔(ぢやぼ)に仕へようずと申したれば、かやうに牢舎致されたのでおぢやる。おう、おう、おう。」
きりしとほろ上人伝 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
曾(かつ)ての日かう一途に思ひつめて、我が生みの子に対する盲目的な愛の為に、恩義ある育ての親にも背(そむ)き去つたお信さんだつた。
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
右のごとく、国民は政府と約束して政令の権柄(けんぺい)を政府に任せたる者なれば、かりそめにもこの約束を違(たが)えて法に背(そむ)くべからず。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
我々日本人は之には顏を背(そむ)ける。私は我々のボーイも同樣に、この河水で炊事をせぬかといふ疑を起したが、主人公の長尾君は中々同意せぬ。
大師の入唐 (旧字旧仮名) / 桑原隲蔵(著)
燈火(あかり)に背(そむ)いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を嬲(なぶ)る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
改(あらた)め申けるは此度天一坊樣御身分調(しらべ)の儀に付ては越前守申す事は小石川御屋形(おやかた)の御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を背(そむ)かるゝは則ち上意を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背(そむ)く事あるときはかくかくすると予(あらかじ)め覚悟なくてはならぬ。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
その自由意思をもって神に背(そむ)いたのであるから、その責任は人間にあるのであって、造り主たる神の側にあるのではない。
キリスト教入門 (新字新仮名) / 矢内原忠雄(著)
私はギョッとして、慌てて顔を反対の山の方へ背(そむ)けた。漸く、あの森が、丘の下に沼のように見えるあたりまで来ていた。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
女(むすめ)と壮い男はその火の光に背(そむ)いて、北へ北へと逃げました。修験者はその後(あと)を激しく追っかけました。女(むすめ)と壮(わか)い男は手を執(と)りあっておりました。
宇賀長者物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
長門(ながと)は山陽の西陬(せいすう)に僻在(へきざい)す、而(しこう)して萩城連山の陰(きた)を蔽(おお)い、渤海(ぼっかい)の衝(しょう)に当る。その地海に背(そむ)き山に面す、卑湿(ひしつ)隠暗。城の東郊は則ち吾が松下村なり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
隣家(となり)に咲(さ)ける遲咲(おそざき)きの卯(う)の花(はな)、都(みやこ)めづらしき垣根(かきね)の雪(ゆき)の、凉(すゞ)しげなりしを思(おも)ひ出(いづ)ると共(とも)に、月(つき)に見合(みあ)はせし花(はな)の眉(まゆ)はぢて背(そむ)けしえり足(あし)の美(うつ)くしさ
たま襻 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
宮の肩頭(かたさき)を捉(と)りて貫一は此方(こなた)に引向けんとすれば、為(な)すままに彼は緩(ゆる)く身を廻(めぐら)したれど、顔のみは可羞(はぢがまし)く背(そむ)けてゐたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
カピ長 いや、なう、パリスどの、女(むすめ)は敢(あへ)て献(けん)じまする。彼(か)れめは何事(なにごと)たりとも吾等(われら)の意志(こゝろざし)には背(そむ)くまいでござる、いや、其儀(そのぎ)は聊(いさゝか)も疑(うたが)ひ申(まう)さぬ。
我は詞なくて、卓上の書状を指し、友のこれを讀む間、これに背(そむ)きて涙を拂ひつ。友は我肩を撫でゝ、泣くが好し、泣かば心落着くべしと云へり。
まづ己(おのれ)からその道に背(そむ)きて、君をほろぼし、国を奪へるものにしあれば、みな虚偽(いつわり)にて、まことはよき人にあらず、いとも/\悪(あ)しき人なりけり。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
実(げ)にや人倫五常の道に背(そむ)きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる卿(けい)らが渡世(たつき)こそ目出度(めでた)けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
お母さんの期待に背(そむ)いては申訳ないが、生計さえ立てば宜いと仰有るのを力に、僕はそのまま引き退って、先ず観察から修行することに肚を極めた。
親鳥子鳥 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
と、中老たちに対して、相当の権威を持っている、取締りの老女にささやくと、寵愛(ちょうあい)ならびない浪路のいい分に背(そむ)いて得はないと知る彼女、すぐに
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
天地(てんち)の間(あいだ)にはそこに動(うご)かすことのできぬ自然(しぜん)の法則(さだめ)があり、竜神(りゅうじん)でも、人間(にんげん)でも、その法則(さだめ)に背(そむ)いては何事(なにごと)もできぬ。
子供のかう云ふのを聞いて涙ぐんだので、母は顔を背(そむ)けた。娘はもう父の事を忘れてしまつてゴム毬を衝いてゐる。
板ばさみ (新字旧仮名) / オイゲン・チリコフ(著)
わたしの感懐に背(そむ)いていよ/\「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしはわたしに感じた。
雷門以北 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
つまり天然自然の法則に背(そむ)いているからだ。人間に男女がある以上、必ず配偶者を求むべきが当然の道ではないか。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
然るに彼の粋なる者は幾分か是の理に背(そむ)きて、白昼の如くなるを旨とするに似たり。盲目ならざるを尊ぶに似たり。