ひま)” の例文
したがって生計上に困ることは自然の理で、ようやくその日をのりする位のもので、さらに他を顧みるひまもなかったことでありました。
あまりひまな晩に、または用事に、または仲間への御礼返しに……。だからおかみさんにとっても、彼女はごく忠実な抱えっ妓だった。
操守 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
奥へ踏込むところを、折よく外から帰って来たお菊の声におどろいて、何にも盗むひまもなく、そのまま逃げてしまったというのです。
その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん——この人は、まだ休んでいてひまですから、そこいら、御案内を
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
クリストフはユーディットの利己心を、その冷血を、その凡庸な性格を、見て取った。彼はすっかりとりこになってしまうひまがなかった。
お雪さんの、血の急流が毛細管の中をはしっているような、ふっくりしてすべっこくない顔には、刹那も表情の変化の絶えるひまがない。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
表町おもてちょうで小さいいえを借りて、酒に醤油しょうゆまきに炭、塩などの新店を出した時も、飯ひまが惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
いつも今時分は内科もひまなのを知つてゐるので、忙しい院長を職務外の事に向けさせるのに、ちやうどいい折だと私はひそかに思つた。
嘘をつく日 (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
そしてそのひまに近所で昼食をしたためて来てから、自分も若夫婦に手を貸して、ほこりうずたか嵩張かさばった荷物を明るい縁先へ運び出した。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
厩から出てゆっくり歩きながらここまで来るに三分かかっている訳だ。あとは僅に十七分間である。女の事なぞ考えているひまはない。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
けふもアウレリアが部屋をばおとづれ給ひし檀那達いと多かりき、宿に案内しまゐらするは易けれど、歸るには些のひまあるべしと答ふ。
ガルールは二皿の料理を瞬くひまに平らげ、更になみなみと注いだ酒を飲み乾したが、それでやっと人心地がついたように、ほっと一息した。
おもふに、ひとちれ演場しばゐ蕭然さみしくなるいとふゆゑなるべし。いづくにかいづる所あらんとたづねしに、此寺の四方かきをめぐらして出べきのひまなし。
能登守殿がおっしゃるには、自分はもう今の世では望みのない身体じゃ、このひまに西洋を見て来たい、いずれ万事は帰ってから後のこと。
いたって少ないわずかなひまの時間を、昼は園芸に夜は観想に分かち用いていたこの老人にとって、それ以上何が必要であったか。
新一さんにどうしてそんなことをするひまがあったでしょう。お母さまを縛って逃げた奴が下手人です。新一さんではありません。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
あのおりおもいのほか乱軍らんぐん訣別わかれ言葉ことばひとつかわすひまもなく、あんなことになってしまい、そなたもさだめし本意ほいないことであったであろう……。
ふいと背後うしろに軽い物音がした。それはマリイであった。見返るひまもない内に、女はそこへ出て来て、輝く目をして、顔を少し赤くしている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
いとなみ候へども彼地は至て邊鄙へんぴなれば家業もひまなり夫故それゆゑ此度同所を引拂ひきはらひ少々御内談ないだんも致度事これありて伯父上をぢうへ御許おんもと態々わざ/\遠路ゑんろ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
というのでこそ/\とあとにさがる。此のひまに宇治の里の亭主手代などもかわる/\詫びますけれども一向に聞入れがありません。
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
殊に今もしみじみとあわれを覚えるは、夕顔の巻、「八月十五夜、くまなき月影、ひま多かる板屋、残りなく洩り来て」のあたり
『新訳源氏物語』初版の序 (新字新仮名) / 上田敏(著)
人間は丁度それだ、それぎりだ、結んで、落ちて、流れるしたゝりだ。而してその束の間に一の世界を創作して、それをきてゆくひまをもつてゐる。
落葉 (旧字旧仮名) / レミ・ドゥ・グルモン(著)
折しも秋の末なれば、屋根にひたる芽生めばえかえで、時を得顔えがおに色付きたる、そのひまより、鬼瓦おにがわらの傾きて見ゆるなんぞ、戸隠とがくやま故事ふることも思はれ。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
霜夜しもよふけたるまくらもとにくとかぜつまひまよりりて障子しようじかみのかさこそとおとするもあはれにさびしき旦那樣だんなさま御留守おんるす
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
自分は日あたりを避けて楢林ならばやしの中へと入り、下草したぐさを敷いて腰をろし、わが年少画家の後ろ姿を木立ちのひまからながめながら、煙草たばこに火をつけた。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
ひま漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は蚰蜒げじげじう畳の上から壁虎やもりのへばり付いた壁の上にうごめいている。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
許宣はびっくりして弁解いいわけしようとしたがそのひまがなかった。彼の体にはもう縄がひしひしと喰いついて来た。彼はその場から府庁に曳かれて往った。
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
我等近づき、一の場所にいたれるとき、さきにわが目に壁を分つわれめに似たる一のひまありとみえしところに 七三—七五
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
『一ッくるまなんだらう?』とはおもつたものゝかんがへてるひまもなく、やが砂礫されきあめまどりかゝるとに、二三にんしてあいちやんのかほ打擲ちやうちやくしました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
水仙の鉢を置いてそれを見て楽しむというのも畢竟ひっきょうひまがあっての上の事で、多忙となるとなかなかそういう悠長なことに時間をつぶしているひまがない
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
如何いかに答へんとさへ惑へるに、かたはらには貫一の益なじらんと待つよと思へば、身はしぼらるるやうに迫来せまりくる息のひまを、得もはれずひややかなる汗の流れ流れぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴のたばをのけんとして柴をかかえたるまま山よりすべり落ちたり。そのひまにここをのがれてまたかやを苅る翁に逢う。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
だが、はたして誰が拾ったか、それを見定めるひまもなく、それッ、と、うしろの方で叫んだ。幸運の餅は反対の隅に向って投げられるところであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
私は犬飼現八と立ち廻りをしながら、ひまぬすんで、見物席の何時も貴女が、坐っていた辺りを見ますと、私の感じは私をあざむいてはおりませんでした。
ある恋の話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
煙は中天に満々みちみちて、炎は虚空にひまもなし。まのあたりに見奉れる者、更にまなこあてず、遥に伝聞つたへきく人は、肝魂きもたましひを失へり。法相ほつさう三論の法門聖教、すべて一巻も残らず。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ひま行くこまの足早くてうまの歳を迎うる今日明日となった。誠や十二支に配られた動物輩いずれ優劣あるべきでないが、附き添うた伝説の多寡に著しい逕庭ちがいあり。
「金の調達がひまどつて、僕の東上が遅れるやうだつたら、Oは死ぬかも知れない。もしかそんなことがあつたら、Oを殺した責任の幾分は君にあるんだから」
恋妻であり敵であった (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
彼れはこのひまに兄の方を見た。兄は眞蒼まつさをな額に玉のやうな冷汗を滴らしながら、いつの間にか椅子から立上つて、腕を組んだまゝぢつと死體を見詰めてゐた。
実験室 (旧字旧仮名) / 有島武郎(著)
乳酪ミルクを買う銭がないので、ひまをつぶして、あっちこっちと情け深い人の恵みを求め歩いた。で、昼はまずどうやらこうやら過ごしていくが、夜が実につらい。
ネギ一束 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
されど自慢の頬鬢掻撫かいなづるひまもなく、青黛の跡絶えず鮮かにして、萌黄もえぎ狩衣かりぎぬ摺皮すりかは藺草履ゐざうりなど、よろづ派手やかなる出立いでたちは人目にそれまがうべくもあらず。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
で、弦四郎の一行は、顔を互いに見合わせたが、眼を返すと木立のひまから、歌声の来る方をすかして見た。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ひまさえあれば、道綱を呼びにお寄こしになって、別に為事しごともないのにいつまでもお手放しにならなかった。それにはさすがの道綱も殆ど困っているらしかった。
ほととぎす (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にてひまに候間、覺書いたし候——源十郎五十三歳記す』
桃の雫 (旧字旧仮名) / 島崎藤村(著)
燕の軍戦っててばすなわち可、克たずんば自ら支うる無き也。しこうして当面の敵たる何福かふくは兵多くして力戦し、徐輝祖じょきそは堅実にしてひま無く、平安へいあん驍勇ぎょうゆうにして奇をいだす。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「先日、ゆっくりお話し申すひまもございませんで名残惜しゅう存じました。じつはあたくし——あなたさまのお帰りを、どんなにお待ち申していたか知れないのです」
初午試合討ち (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
秋に別れて冬になろうと云う此ひまに、自然が一寸静座の妙境みょうきょうに入る其幽玄のおもむきは言葉に尽くせぬ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
まだまだと云ってるうちにいつしか此世のひまが明いて、もうおさらばという時節が来る。其時になって幾ら足掻あがいたって藻掻もがいたって追付おッつかない。覚悟をするなら今のうちだ。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
且年若より一日もひまに暮したる事なき身故、何ぞの業を致度候得ども、それもいらぬ事故、念仏を日々の稽古事の様に致し候ゆへ、毎日朝起いたし、夜もはやくは休不申
大久保湖州 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
そのひまにプリスタフは頻にソロドフニコフをなだめてゐる。「先生。どうしたのです。なぜそんなに。それは気の毒は気の毒です。併しどうもしやうがありませんからな。」