たもと)” の例文
裏藪うらやぶの中に分け入ってたたずむと、まだ、チチッとしか啼けないうぐいすの子が、自分のたもとの中からでも飛んだように、すぐ側から逃げて行く。
死んだ千鳥 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
晩春の黄昏たそがれだったと思う。半太夫は腕組みをし、棒のように立って空を見あげており、その脇でお雪が、たもとで顔をおおって泣いていた。
これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子おんばこ橋、一名さんだが橋のたもとにある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあった為に
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
込み上げて来る悲しさを、たもとの端で、じっと押えて、おろおろと、その場を立去りもせず、死ぬる思いを続けたことでございます。
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
其時ふとこいつあ千住の方にいるんじゃないかと思ったんで、変電所へ踏込む積りで、橋のたもとを右へ、隅田すみだ駅への抜道をとりました。
白蛇の死 (新字新仮名) / 海野十三(著)
なでて見るとおかしな手障てざわりだから財布の中へ手を入れて引出して見ると、封金ふうきんで百両有りましたからびっくりして橋のたもとまで追駆おっかけて参り
文七元結 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
橋のたもとに二軒の農家があって、その屋根の下を半ば我が家の物置きに使っているらしく、人の通れる路を残してたきぎたばが積んである。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ちょうど真蔵が窓から見下みおろした時は土竈炭どがまずみたもとに入れ佐倉炭さくらを前掛に包んで左の手でおさえ、更に一個ひとつ取ろうとするところであったが
竹の木戸 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
能く一行を輔助ほじよせしことをしやし、年々新発見にかかる文珠菩薩もんじゆぼさつの祭日には相会してきうかたらんことをやくし、たもとわかつこととはなりぬ。
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
……そこで宵のに死ぬつもりで、対手あいてたもとには、あきないものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀ナイフさえ用意していたと言うのである。
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右のたもとに火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼をかすめ、兵営や火薬庫に忍込しのびこみます。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この時、他の一方の橋のたもとから、また一組の相合傘が現われました。その相合傘は、こちらの相合傘とはだいぶ趣をことにしています。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そこで本町橋の東詰ひがしづめまで引き上げて、二にんたもとを分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入はひつた。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
翌日彼は朝飯あさはんぜんに向って、煙の出る味噌汁椀みそしるわんふたを取ったとき、たちまち昨日きのうの唐辛子を思い出して、たもとから例の袋を取り出した。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
……そんなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちんとすわり直してたもとで顔をおおうてしまった)泥棒どろぼう
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
半円札でしたか、一円札ですか。なぜ銭入に入れて行かなかったろう、せめてたもとにでも入れて行けばよいのにと、祖母がつぶやきました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
男の人が、それをたもとへ入れろ入れろと言うじゃないかなし。私が入れた。そうすると、この袂をつかまえて、どうしても放さなかった……
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
九曜星の紋のある中仕切りの暖簾のれんを分けて、たもとを口角に当てて、出て来た娘を私はあまりの美しさにまじまじと見詰めてしまった。
河明り (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
日本橋のたもとに立って、橋を渡る棺桶の数を数える数奇者すきしゃはなかったが、仕事に離れて、財布の中の銭を勘定する労働者は無数であった。
死の接吻 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
が、大井は黒木綿の紋附のたもとから、『城』同人のマアクのある、洒落しゃれた切符を二枚出すと、それをまるで花札はなふだのように持って見せて
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
私のたもとには、五十銭紙幣一枚しか無いのである。これは先刻、家を出る時、散髪せよと家の者に言われて、手渡されたものなのである。
乞食学生 (新字新仮名) / 太宰治(著)
橋の行詰ゆきづめにも交番があって、巡査は入口にもたれて眠るようにしていた。山西は安心した。小女こむすめはそのたもとを左に折れて河岸かしぶちを歩いた。
水魔 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
湯村はたもとから巻煙草を出してマッチを擦つた。何本も無駄にした揚句、やつといたのをろくにも吸はずに、忙しく河へ投込んだ。
茗荷畠 (新字旧仮名) / 真山青果(著)
平次は頃合をはかつて足を止めると、たもとを探つて取出した得意の青錢、右手はさつと擧ります。朧をつて飛ぶ投げ錢、二枚、五枚、七枚。
鉄錆てつさびに似た生き血の香が、むっと河風に動いてせかえりそう……お艶は、こみあげてくる吐き気をおさえて、たもとに顔をおおった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「いえいえ、それをおっしゃってくださるにはおよびませぬ」と、おしおは顔にたもとを押当てたまま、おろおろ泣きだしてしまった。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
枕山は横山湖山その他の詩人と共に星巌を送って板橋駅に到ってたもとを分った。星巌は道を中山道なかせんどうに取って美濃みのに還らんとしたのである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
かくいう時、人は我々のたもとを引き止めるかも知れない。時として論の鋭利を和らぐる方法となる概括を人は持ち出すかも知れない。
たもとを取られ鎌をつきつけられ妹に自殺を勧められて彼はすっかり途方にくれた。もちろん自殺しようなどとは彼は夢にも思わなかった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
純粋小説論は哲学とここの所で一致して進むべきものと思うが、しかし同時にここから、技術の問題として、たもとを分けて進まねばならぬ。
純粋小説論 (新字新仮名) / 横光利一(著)
これはしょうが悪くて、客が立止って一度価を聞こうものなら、金輪際こんりんざい素通りの聞放しをさせない、たもとを握って客が値をつけるまで離さない。
江戸か東京か (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
反り橋のたもと神楽殿かぐらでんの前で、思わせぶりなポーズをしながら行きつ戻りつしていたが、三時近くまで、いちども声がかからない。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
院中の人々も、少将の袖をとらえて離さず、たもとにすがって、いつまでもいつまでも別れを惜しんでは、又ひとしきり涙を流すのであった。
それも手に持ちたもとに入れなどして往きたるはかいなし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
はらりと下る前髪の毛を黄楊つげ鬂櫛びんぐしにちやつときあげて、伯母さんあの太夫さん呼んで来ませうとて、はたはた駆けよつてたもとにすがり
たけくらべ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
今まで人間の世界と没交渉に、そこらに生えている杉菜を食っていた馬が、急に引立てられることによって、二人はたもとを分つわけになる。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
もし山𤢖やまわろか。」と、市郎は咄嗟とっさに思い付いた。で、その正体を見定める為に、たもとから燐寸まっち把出とりだして、慌てて二三本った。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
職人は暫くそんな悪戯いたづらをしてゐたが、最後にたもとを探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火をつて虱の背に当てがつた。
それから少時しばらくのち私達わたくしたちはまるでうまかわったような、にもうれしい、ほがらかな気分きぶんになって、みぎひだりとにたもとわかったことでございました。
おこのがはらったのはずみが、ふとかたからすべったのであろう。たもとはなしたその途端とたんに、しん七はいやというほど、おこのにほほたれていた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
しばらく言い合ったが、お庄はかくおおせないような気がした。そしてたもとで顔ににじみ出る汗を拭きながら、黙って裏口の方へ出て行った。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その風は裳裾もすそたもとひるがえし、甲板の日蔽ひおいをあおち、人語を吹き飛ばして少しも暑熱しょねつを感じささないのであるが、それでもはだえに何となく暖かい。
別府温泉 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
顔を伏せるようにして、女は、たもとの端を噛みながら低声こごえにいった。白粉のにおいと温泉の匂いとが、静かに女の肌から発散した。
機関車 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
私は書生時代にいつも橋のこっちのたもとから四日市の方へと近路をして抜けて行ったが、その時分の雑踏はとてもお話にならないものだった。
日本橋附近 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
江戸開城かいじょうの後、予は骸骨がいこつい、しばらく先生とたもとわかち、あと武州ぶしゅう府中ふちゅうの辺にけ居るに、先生は間断かんだんなく慰問いもんせられたり。
私はたもとの中にあった一かけの蝋燭を出して、火をつけ、じっとあなたの帰られるのを待っていました。何と云う佗しい気持だったでしょう。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
と言いどもって、男の左のたもとをじろりと眺めた。男は機械的に左の袂に手をやると、何か堅い陶器のような物がはいっているのに気がついた。
香爐を盗む (新字新仮名) / 室生犀星(著)
私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方のたもとに一ツずつそれを入れて、まぶしい外に出た。そしていつものように飯屋へ行った。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
噛つくように呶鳴っていた由子も、しまいには鼻声になって、こみ上げて来る啜泣すすりなきを、たもとで押えたまま、出て行ってしまった。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
その後ろ姿を凝乎じっと見送っていたが、跫音あしおとが廊下の向うへ消え去ったのを見澄まして、大急ぎで私は机の右たもとの一番下の抽斗ひきだしの鍵を開けた。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)