幾重いくえ)” の例文
今御覧の通り幾重いくえにも幾重にもして焼いたものですから横から見てちょうど紙を幾百枚もかさねたようにならなければいけません。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
川音がタタと鼓草たんぽぽを打って花に日の光が動いたのである。濃くかぐわしい、その幾重いくえ花葩はなびらうちに、幼児おさなごの姿は、二つながら吸われて消えた。
若菜のうち (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あの船や鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ幾重いくえかの海苔粗朶のりそだの向うに青あおと煙っているばかりである。……
少年 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しもに焼けたつつじのみが幾重いくえにも波形に重なって、向こうの赤松あかまつの森につづいている。空は青々とんでおり、風もない。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
一度途切とぎれた村鍛冶むらかじの音は、今日山里に立つ秋を、幾重いくえ稲妻いなずまくだくつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
二百十日 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず幾重いくえにもよろしくとてその日は携へ来りし草稿『すだれの月』一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様このよう無躾ぶしつけな御手紙を、差上げます罪を、幾重いくえにもお許し下さいませ。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
まず関鎖かんさ幾重いくえの難関を無事にえた喜びの余りに、仏陀ぶっだの徳を感謝するその思いの強いために非常に寒かった事も忘れた。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
みな、涙ぐみながら、てんでに毛布やクッションを持ち出してきて、幾重いくえにも梓さんの身体に巻きつけて『着ぶくれ人形』のようにしてしまった。
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、幾重いくえにもお許し下さいまし」
大菩薩峠:10 市中騒動の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その地図の上に、なにやら盛んに線が引張ってある。赤鉛筆で書いた大きい輪が、室町の辺に幾重いくえにもかさなっていた。
地中魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
二人のあとをつけて来たのは千枝松ばかりでなく、鎧兜を着けた大勢の唐人どもが弓やほこを持って集まって来て、台のまわりを忽ち幾重いくえにも取りまいた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「のう太夫たゆう。おまえさん、わびはあたしから幾重いくえにもしようから、きょうはこのまま、かえっておくんなさるまいか」
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
それも打っている人はまだい。それを幾重いくえにも取り巻いて見物して居る連中に至っては、実に気が知れない。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そのうちに、かぜいてくると、いとは、きりきりと風船球ふうせんだまのまわるたびに、幾重いくえにもえだにからんでしまって、もはや、どんなことをしてもはなれませんでした。
風船球の話 (新字新仮名) / 小川未明(著)
主人の足裏あしうらさめあごの様に幾重いくえひだをなして口をあいた。あまり手荒てあらい攻撃に、虎伏す野辺までもといて来た糟糠そうこう御台所みだいどころも、ぽろ/\涙をこぼす日があった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
したゝをはりし書面しよめんをば幾重いくえにもたゝみ、稻妻いなづま首輪くびわかたむすけた。いぬあほいでわたくしかほながめたので、わたくしその眞黒まつくろなるをばでながら、人間にんげん物語ものがたるがごと
幾重いくえにも張廻はりまわしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭しんがいしたという。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
なおなお幾重いくえも目出度く存じたてまつり候。相替らず拝正の儀、東西御奔走と察し奉り候。さて今朝雑煮ぞうにを食い、りきれぬ事、山亭にての如し。これ戯謔ぎぎゃくの初め、初笑々々。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
光ったりかげったり、幾重いくえにもたた丘々おかおかむこうに、北上きたかみの野原がゆめのようにあおくまばゆくたたえています。かわが、春日大明神かすがだいみょうじんおびのように、きらきら銀色にかがやいてながれました。
種山ヶ原 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
の陣に陣を、山陽道に沿って、幾重いくえにも置いていたのであった。——いや義貞をして、もっとてこずらせたのは、ややもすれば、後方を突いて来る乱波らっぱ(ゲリラ)であった。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露しらず、まこと父君ちちぎみ母君と思ひて、我儘わがまま気儘にすごしたる、無礼の罪は幾重いくえにも、許したまへ」ト、数度あまたたび養育の恩を謝し。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
幾重いくえにも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも先方さきがぐずぐずいえば正面まともに源太が喧嘩を買って破裂ばれの始末をつければよいさ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
この度の議会解散とが国民の政治的自覚を幾重いくえにも刺戟したことであるから
鏡心灯語 抄 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮一方ひとかたならず、この段御宥恕ごゆうじょなし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重いくえにも願いたてまつり候。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
親たる父にだ孝の道もつくさずして先だつ不孝は幾重いくえにも済まぬがわたしは一刻も早くこの苦しい憂世うきよを去りたい、わたしの死せるのちはあの夫は、あんな人だから死後の事など何も一切いっせつかまわぬ事でしょう
二面の箏 (新字新仮名) / 鈴木鼓村(著)
幾重いくえにも折り重なったはるかな山のかいから吉野川が流れて来る。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「お供することに致しましょう。ご貴殿ご熟達の木太刀の妙法、まだまだ会得出来ませぬ故このままお別れ致すことは拙者にとっても残念至極しごく、是非どこへなとお連れくだされてご教授幾重いくえにもお願い申す」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「先刻の非礼、幾重いくえにもお詫びつかまつる」
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
緑色の薄紗ヴェール幾重いくえにもれ下って行く。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
空はここも海辺かいへんと同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重いくえにも二人の頭の上をおおって、日を直下じかに受けるよりは蒸し熱かった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかし、着物は剥ぎ取られましても、この心にはまだまだ我慢邪慢のうみのついた衣が幾重いくえにもまといついておりまする。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「明智さん、父に一言お伝え下さい。不孝の罪は幾重いくえにもお許し下さいましって。そして、不二子は、恋しい黄金仮面の悪魔を救う為に、自殺しましたって」
黄金仮面 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
諸処方々無沙汰ぶさたの不義理重なり中には二度と顔向けさへならぬ処も有之これあり候ほどなれば何とぞ礼節をわきまへぬは文人無頼ぶらいの常と御寛容のほど幾重いくえにも奉願上ねがいあげたてまつり候。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼は国境くにざかいを離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅さんえきの茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重いくえにも同道を懇願した。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
バターの方は一度一度に塗りますがケンネ脂は最初に包むばかりであとはそれを幾重いくえにも展します。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
西にしほう山々やまやまは、幾重いくえにもとおつらなっていて、そのとがったいただきが、うすあかくも一つないそらにそびえていました。まったく、あたりはしんとして、なんのこえもなかったのです。
おおかみと人 (新字新仮名) / 小川未明(著)
町の小児しょうにらが河に泳いでいると、或る物が中流をながれ下って来たので、かれらは争ってそれを拾い取ると、それは一つの瓦のかめで、厚いきぬをもって幾重いくえにも包んであった。
王様。私はこのように安堵あんど致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重いくえにも御許し下さいまし。最早もう夜が明けて参りました。小供達を
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
峠は幾重いくえにもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿いまじょうじゅくまでたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
……川柳にさえあるのです……(細首をつかんで遣手やりて蔵へ入れ)……そのかぼそい遊女の責殺された幻が裏階子うらばしごたたずんだり、火の車を引いて鬼が駆けたり、真夜中の戸障子が縁の方から、幾重いくえにも
雪柳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「まさか城内の者が深夜あのような異装を作って徘徊いたすはずもなし、そうかと申して、要害無双ようがいむそうなこの千代田城のあの幾重いくえほりや石垣や諸門を越えて入り込むことは人間業にんげんわざではできないことじゃ」
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近江おうみの空を深く色どるこの森の、動かねば、そのかみの幹と、その上の枝が、幾重いくえ幾里につらなりて、むかしながらのみどりを年ごとに黒く畳むと見える。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
底光りのする空を縫った老樹のこずえには折々ふくろが啼いている。月の光は幾重いくえにもかさなった霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火しらぬいのようにかがやかしていた。
霊廟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
一つのお願いの儀がござりまするが、幾重いくえにもお聞届けのほど願わしうござりまする——と鈴木殿が、水野閣老に改まって申し出でたものでございます……そこで越前守が
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それが今や、幾重いくえの竹藪をめ尽して、恐ろしい速度で、こなたへこなたへと迫って来る。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
パンを水へ漬けておいて絞って生玉子を溶いてバターを加えて今の肉と絞ったパンとを混ぜて塩胡椒で味をつけてキャベツの葉で幾重いくえにも包んでそれをスープでよく煮るのです。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
またその一団は珍しそうに、幾重いくえにも蜜のにおいいだいた薔薇の花の中へまぐれこんだ。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
彼女は畳にひたいをうずめて、恐れかしこんでわが子の罪を幾重いくえにも詫びた。かれは当然自分ら親子のうえに落ちかかって来るべき神の御罰をのがれるために、あらためて謝罪の祈祷を嘆願した。
半七捕物帳:26 女行者 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
取り急ぎますままに幾重いくえにもおゆるし下さいませ。
押絵の奇蹟 (新字新仮名) / 夢野久作(著)