におい)” の例文
停車場ステエションうしろは、突然いきなり荒寺の裏へ入った形で、ぷんと身にみるの葉のにおい、鳥の羽ででられるように、さらさらと——袖が鳴った。
唄立山心中一曲 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
学校へ行く時、母上が襟巻えりまきをなさいとて、箪笥たんす曳出ひきだしを引開けた。冷えた広い座敷の空気に、樟脳しょうのうにおいが身に浸渡るように匂った。
(新字新仮名) / 永井荷風(著)
末枯すがれては見えますが、色ある花はにおい失せずで、何処やらに水気があって、若い時は何様どんな美人であったかと思う程でございますが
名人長二 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退あとずさりした。くろもじの木のにおいが月のあかりといっしょにすうっとさした。
なめとこ山の熊 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
けれども二度目の硝子戸の音は静かに父の姿を隠してしまった。あとにはただ湯のにおいに満ちた薄明うすあかりの広がっているばかりである。
少年 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
私はおもわず何かほっとしながら、その真白い、いいにおいのする花でもって自分のどうにもならない心をすっかり占めさせて行った。
朴の咲く頃 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
主婦の黒い髪や黒い眼のうちには、幾年いくねんの昔に消えた春のにおいむなしき歴史があるのだろう。あなたは仏蘭西語を話しますかと聞いた。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
よるのこたァ、こっちがてるうちだから、なにをしてもかまわねえが、お天道様てんとうさまが、あがったら、そのにおいだけにめてもらいてえッてよ。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
一体この部屋は二人で寝てさえ狭苦しい上に、ナオミの肌や着物にこびりついている甘い香と汗のにおいとが、醗酵はっこうしたようにこもっている。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
恐らくは音もにおいも、触覚さえもが私の身体からだから蒸発してしまって、煉羊羹ねりようかんこまやかによどんだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。
火星の運河 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ればハイカラに仕立てたお島の頭髪あたまは、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体にむせぶような香水のにおいがしていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
白地の仏蘭西縮緬フランスちりめんの丸帯に、施された薔薇ばら刺繍ししゅうは、におい入りと見え、人の心を魅するような芳香が、夫人の身辺を包んでいる。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
これも読書組の、トシがそばへよってきて、のぞきこんだ。れた臭気だけれど、ムッとめまいするような煙草たばこにおいがした。
工場新聞 (新字新仮名) / 徳永直(著)
それは長く降り続いていた雨の空がひる過ぎからにわかに晴れて微熱の加わって来た、どこからともなしに青葉のかおりのようなにおいのして来る晩であった。
萌黄色の茎 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
垣根のそばの、においザクラの茂みでは、夜鳴きウグイスがまずそっと小手調べをして、やがてのどいっぱいに囀りはじめた。
「何だろう——」と指に附けて拾って見た、それは硫黄いおうの粉末のような物だった。——敦夫は指で潰したり、においを嗅いだりしていたが、不意に
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
お客にするように封建的ほうけんてきをして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑臭きくずくさい汗のにおい我慢がまんして踊ってやる。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
天外に湛えたる積翠、雲表に閃く白雪のにおいを、煤煙と騒音との巷にあって楽しむことを知るものは、何たる幸であろう。
望岳都東京 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
昼のあひだのひどい暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間いかんの腐臭をぐやうな不思議なにおいつたもや
水に沈むロメオとユリヤ (新字旧仮名) / 神西清(著)
気がついたのは——此際このさい呑気のんきな話であるが——なにかしら、馥郁ふくいくたるにおいとでもいいたいかおりの辺にすることだった。
西湖の屍人 (新字新仮名) / 海野十三(著)
といいながら、ついったから、何をるのかと思ったら、ツカツカと私の前へ来てひたと向合った。前髪があごに触れそうだ。ぷんにおいが鼻を衝く。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
また、そんなにはげしい色をしていない代りに、あまい重苦しくなるほど劇しいにおいを持った花もどっさりある——茉莉パクリだとか、鷹爪花ヰエヌニアンホアだとか、素馨スウヒイエンだとか。
蝗の大旅行 (新字新仮名) / 佐藤春夫(著)
だがもう蹄は延びなくなり、すり切れた鉄のすきまからは痛々しく血がにじみ出ていた。においで主人が判った。いつも訴えるような仰山ぎょうさんいななき声で迎える。
蕎麦の花の頃 (新字新仮名) / 李孝石(著)
砂地のけつくようなの直射や、木蔭こかげ微風びふうのそよぎや、氾濫はんらんのあとのどろのにおいや、繁華はんか大通おおどおりを行交う白衣の人々の姿や、沐浴もくよくのあとの香油こうゆにおい
木乃伊 (新字新仮名) / 中島敦(著)
パン屋の地下室から漂うて来るおいしそうなにおいを嗅いだので、ちょっとくらくら倒れそうな気持になりました。
酒の廻りしためおもて紅色くれないさしたるが、一体みにくからぬ上年齢としばえ葉桜はざくらにおい無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻さきより上りて婀娜あだッぽいいい年増としまなり。
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
この燃殻もえかすの紙は脅迫状の紙と同質なんだ、机の下から発見した半巾ハンカチーフね、あれには手紙を包んであった皺が瞭然はっきり残って、しかもナフタリンのにおいみこんで居た
誘拐者 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
俺はそれらの落書のにおいでもかぐように、そこから何かの面影でも引き出そうとした。「書信室」へ行くと、そこは机でも壁でも一杯に思う存分の落書きがしてある。
独房 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
「露の音」「月のにおい」「風の色」などは最早もはや十分なれば、今後の歌には再び現れぬやう致したく候。
歌よみに与ふる書 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
このにおい、この光、世界のどこに、こんな美しい、神々しい武器があろうか。それから、今、あの山かげへ消えた潜水艦『富士』、あれこそは、日本科学の力の結晶だ。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
白粉おしろいにおいと変ってほのかな体臭、——少し不規則な寝息、それは藤波金三郎に挑むのでは無く、処女の本能的な恐怖のせいとわかって居ても、金三郎の全注意を捉えて
今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行った帰りに、廊下から這入ると、悪い烟草のにおいと汗の香とでせるような心持がする。
あそび (新字新仮名) / 森鴎外(著)
馴れた漁夫は一見してこれは居着これは乗込のりこみ鑑別みわけます。色も違い形も違いにおいも違います。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
天守閣のかすかに黄に輝き残る白堊はくあ。そうして大江のにおい深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな乳酪にゅうらく色となり、藤紫となり、瑠璃紺るりこんうわびかりとなった。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
頭髪おぐしあたま頂辺てっぺんつくったもので、ここにも古代こだいらしいにおい充分じゅうぶんただよってりました。
熊は立ちどまってそいつのにおいをかいで、それから、そいつをぐっと呑んじまった。キーシュは逃げ出しちゃア小さな丸い球をおっことす。熊は幾度でもそいつを呑み込んじまうんだ
負けない少年 (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
畑はかなり広いのでしたから、それを取って染物をするのだなどといって、そこらを汚してはしかられたものでした。菖蒲じめという料理があります。ほのかなにおいをなつかしむのです。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
すると、幸子は直ぐ「ふん、ふん。」と鼻を鳴らせて手を引いた。そんな時彼は淋しい気がした。何か子供の直感で醜さをにおいのようにぎつけているのではないかと恐れることもあった。
御身 (新字新仮名) / 横光利一(著)
二三分立つと、二人は這入はいって戸口の戸を締めた。窓の戸は開けてある。寝台ねだいそばに据えてある小卓こづくえの上には、常の花瓶かびんに赤い薔薇ばらの花がけてある。そのにおいが部屋に満ちている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
ベルクソンは、薔薇ばらにおいいで過去を回想する場合に、薔薇の匂が与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂のうちに嗅ぐのであるといっている。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
ある家の食堂の方からは、おいしそうな御馳走ごちそうにおいがしているのでした。
街の子 (新字新仮名) / 竹久夢二(著)
わたしがこの世に生きていたあいだの生活の半分はラヴェンデルの草の優しいにおいのように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯というものは、かなしみが三一で、あとの二は心配と責苦せめくとであろう。
においある涼しいそよぎをあたりにみなぎらせている。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
双子のお星様たちは悦んでつめたい水晶すいしょうのような流れを浴び、においのいい青光りのうすもののころもを着け新らしい白光りの沓をはきました。
双子の星 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
そよそよと流れて来る夜深よふけの風には青くさいしいの花と野草のにおいが含まれ、松のそびえた堀向ほりむこうの空から突然五位鷺ごいさぎのような鳥の声が聞えた。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
得も言われぬにおいがしました。はてな、あの一軒家の戸口をのぞくと、ちらりと見えた——や、その艶麗あでやかなことと申すものは。——
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
海のにおい、汽船のペンキの匂、石炭の煙の匂などがゴッチャになって、いかにも港らしいなつかしい匂が、あたりにみちています。
新宝島 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
けれども彼は落葉だけ明るい、ものびた境内けいだいけまわりながら、ありありと硝煙のにおいを感じ、飛び違う砲火のひらめきを感じた。
少年 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
一瞬間、ヴィタミンBの強いにおいが部屋じゅうに満ちた。雪子が絆創膏をった上からぴたぴたたたいて肉をんでやっていると
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と、その液体の匂いであろうかそれとも鉢の花の匂いであろうか、こころよ牛蒡ごぼうにおいのような匂が脳にとおるように感じた。
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)