あぶら)” の例文
佐々木小次郎をよく知っている者か、面識でもある間がらでもあれば、たちまち嘘がばれて、あぶらをしぼられるところであったがと——
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子けぬきあぶらをとるのを眺めていた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
スタールツェフはますますふとってあぶらぎって来たので、ふうふう息をつきながら、今では頭をぐいとうしろへらして歩いている。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
おびえ切つた青い顏ですが、よくあぶらが乘つて、ヒステリツクで、主人半左衞門がこの女を持て餘してゐた消息もよくわかりさうです。
「お嬢さんのお詞によって、注いであげるから、こぼしちゃいけないよ、一滴でもおあしだ、それも、みんな、私の汗とあぶらが入ってるのだ」
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「ありません。たゞ、脂肪類を喰わないことですね。肉類やあぶらっこい魚などは、なるべく避けるのですね。淡泊な野菜を喰うのですね。」
マスク (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「フロムゴリド教授はあなたをよく治療しました。あんまりあぶらっこいものを食べなさるな。ウォツカは一滴もいけませんよ。いいですね」
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
黄色い夏の麻布で作った大きなあぶらじみた外套のポケットに両手をつき入れて、隅から隅へと部屋を歩き回りながら、彼はことばを続けた
煙草はマドロスパイプを使う舶来の鑵入りでなければ吸えないようになった。弁当は香料のいた、あぶら濃い洋食か支那料理に限られて来た。
鉄鎚 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
この土器どきなが使用しようしてゐるうちに水垢みづあかがついたり、さかなけだものあぶらがしみんだりして、そのために水氣すいきもしみさないようになりますので
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
五十近いでっぷり肥った赤ら顔でいつもあぶらぎって光っていたが、今考えてみるとなかなか頭の善さそうな眼付きをしていた。
重兵衛さんの一家 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
とろりと白いあぶらを流したような朝凪あさなぎの海の彼方、水平線上に一本の線が横たわる。これがヤルート環礁かんしょうの最初の瞥見べっけんである。
ぬるぬるとあぶらの湧いたてのひらを、髪の毛へなすり着けたり、胸板むないたで押しぬぐったりしながら、己はとろんとした眼つきで、彼方此方あっちこっちを見廻して居た。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
クリストフはあぶらじみた踏段に腰を降ろした。胸の中は、憤怒と激情とで心臓がどきついていた。小声で彼は父をののしった。
金串に刺した肉は、炉の火に焙られて、肉汁とあぶらとたれの、入混って焦げる、いかにも美味うまそうな匂いをふりまいていた。
その真っ先に立ったのは、年も恥じず赤黄青のさも華美きらびやかの色模様ある式服を纏った鬼王丸で、そのあぶらぎったあから顔には得意の微笑が漂っている。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
あるひはラブがなかつたせいかもれぬ。つましんからわたしれてるほど、夫婦ふうふ愛情あいじやうあぶらつてないせいかもれぬ。
背負揚 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
全体長一メートル半、目方七十五キロの大きい魚で、全身は青色に輝いた金属光沢を帯び、魚体はあぶらぎってぴかぴか光っていた。
証明を終ったロジェル・エ・ギャレは、薔薇ばら材のパイプに丹念に小鼻のわきのあぶらを塗りはじめた。木を古く見せて、光沢を出そうというのである。
踊る地平線:11 白い謝肉祭 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
やがて意地汚いじきたな野良犬のらいぬが来てめよう。這奴しゃつ四足よつあしめに瀬踏せぶみをさせて、いと成つて、其のあと取蒐とりかからう。くいものが、悪いかして。あぶらのない人間だ。
紅玉 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
牛の肝臓かんぞうもケンネあぶらに包まれている腎臓じんぞうも心臓も胃袋も料理法次第で結構に戴けますから安直なお料理は沢山出来ます。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
体に、あぶらがあると見えて、お風呂ふろにはいった時も、川で泳いだときも、水から出て見ると、水晶の玉のように、パラパラと水をはじいてしまって——
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
小鼻の脇に、綺麗きれいあぶらの玉が光って、それを吹き出した毛穴共が、まるで洞穴ほらあなの様に、いともなまめかしく息づいていた。
火星の運河 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
いつもはっきりと頭に刻まれている十七歳のその可憐な脆美スレンダーな肉体と、眼前の(やや誇張的に言えば)あぶらぎったぶよぶよの美佐子の身体とを比較した。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
「ありがたう。かう、あぶらがぬけきつてしまつてはどうにも仕方がありませんよ。すべては過ぎ去つてしまひました」
老残 (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
お辞儀をしながら見た少佐夫人の顔には白粉がこってり塗られており、まるっこい鼻の頭にはあぶらが浮いていた。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
ことに、あのイヤなおばさん、はちきれるほどあぶらたっぷりなおばさんが、もろくもこんに引かれ死んでしまった。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
三坪程の木小屋に古畳ふるだたみを敷いて、眼の少し下ってあぶらぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろのげた歯を桃色のはぐきまで見せて
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
ちょうど具合よく、あの男は仔鹿かよあぶらをうけて、右眼が利かないのですし、さんの間から洩れる月の光が、紙帳の隅の、その所だけを刷いているのですから。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
さけあぶらのにおいが、周囲しゅういかべや、器物きぶつにしみついていて、よごれたガラスまどから光線こうせんにぶうえに、たばこのけむりで、いつも空気くうきがどんよりとしていました。
風はささやく (新字新仮名) / 小川未明(著)
そこで田虫の群団は、鞭毛べんもうを振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、あぶらみなぎった細毛の森林の中を食い破っていった。
ナポレオンと田虫 (新字新仮名) / 横光利一(著)
あぶらぎった、利口な人たちで、眼は大きな皿のようで、顎は肥えて二重になっていて、ヴァンダーヴォットタイムイティスの普通の住民よりもよほど長い上着を着
鐘塔の悪魔 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
猫は約束だとて受け付けず、犬その約束を見たいというから、委細承知と屋根裏に登ると、原来かの誓書に少しあぶらが付きいたので、鼷が食い込んで巣を構えいた。
さらずば一の肉體があぶらと肉とをわかつごとく、この物もまたそのふみの中にかさぬる紙を異にせむ 七六—七八
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
「でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、あぶらがぬけちまって、もうあと、いくらももちません」
地底戦車の怪人 (新字新仮名) / 海野十三(著)
わんふたをとれば松茸まつだけの香の立ち上りてたいあぶらたまと浮かめるをうまげに吸いつつ、田崎はひげ押しぬぐいて
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
しめて、室中へやじゅう暗くしなくては、あぶらがうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日阿麻仁あまにを少しずつやって置いてれないか。
フランドン農学校の豚 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
次に國わかく、かべるあぶらの如くして水母くらげなすただよへる時に、葦牙あしかびのごとあがる物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲うましあしかびひこぢの神。次にあめ常立とこたちの神
しいて評価すれば、第一編はマダ未熟であり、第三編はあぶらが抜けて少しくタルミがあるが、第二編に到っては全部が緊張していて、一語々々が活き活きと生動しておる。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
船長は、こいつ一つあぶらをすっかりしぼりぬいてやろうと考えた。そして、それからつっ放す! と。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
事実本を一冊訳しあげるようなワキ目もふらぬ緊張のせいもあったであろうが、顔に表れる憔悴しょうすいが顕著で、目はくぼみ、顔全体があぶらでギラギラしわだらけで黄色であった。
青い絨毯 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
何杯も何杯も、頭から水をかぶって、遠慮なく飛沫ひまつを周囲へ飛ばせ、謡曲らしきものをうなりながら自由体操を行うところのあぶらぎった男などは、朝風呂に多いのである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
刀をおいた彼は、無器用な手つきで、ふところをさぐって、はだのあぶらを吸って黒く光っている、胴巻きをとり出した。胴まきは、ずっしりと重そうに、ふくらんでいた。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
棕櫚しゆろ繩の太いのを握つてゐるお梅のあぶら肥りの赤い手を見ながら、猪之介はこんなことを言つた。
兵隊の宿 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
皆の話し声が段々高くなって来た。天願氏も酔っぱらったと見えて隣の男と何か話しながら笑っている。額にあぶらが出ていて、電灯が小さく映っているのがいやらしかった。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
黒く染めたる頭髪かみあぶらしたたるばかりに結びつ「加女さん、今年のやうにかんじますと、老婆としより難渋なんじふですよ、お互様にネ——梅子さんの時代が女性をんなの花と云ふもんですねエ——」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
しめった草の根からきだすぬかのようなぶよが、脚絆きゃはんのあいめ、手甲てっこうの結びめなどのやわらかい皮膚に忍びこんで来た。汗とあかあぶらと、ふんぷんとした体臭をまき散らした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
なるほど、彼が風邪かぜを引くと、ルピック夫人は、彼の顔へ蝋燭ろうそくあぶらを塗り、姉のエルネスチイヌや兄貴のフェリックスが、しまいにけるほど、べたべたな顔にしてしまう。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
やがて、女中はあつらえて置いた鳥の肉を大きな皿に入れて運んで来た。あかくおこった火、熱した鉄鍋てつなべ、沸き立つあぶらなどを中央まんなかにして、まだ明るいうちに姉弟は夕飯のはしを取った。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その美しいかおだちをもった、まだ十七八の少女の顔が、殊更ことさら、抜けるように白く見え、その滑かな額には、汗のようなあぶらが浮き、降りかかった断髪が、べっとりとくっついていた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)