ぬぐ)” の例文
しかるときは赤ペンキはたちまち自動車をベタベタに染め、運転手が驚きてぬぐわんとすれども中々おちぬところに新種ペンキの特長あり。
発明小僧 (新字新仮名) / 海野十三佐野昌一(著)
病女びょうじょうらめしげな、弱った吐息を吹きかけて、力なくぬぐった鏡のように、底気味の悪い、淋しいうちに、厭らしい光りを落していた。
夜の喜び (新字新仮名) / 小川未明(著)
大体の構想に痕跡のぬぐうことのできないものはあるが、その他は間然かんぜんするところのない独立した創作であり、また有数な傑作でもあって
怪譚小説の話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
その諦めもほんのうわつらのもので、衷心に存する不平や疑惑をぬぐい去る力のあるものではない。しかたがないからという諦めである。
お濱の——うつたへるやうに平次を仰ぐ黒い眼は、夕立を浴びたやうにサツと濡れて、ハラハラとぬぐひもあへぬ涙が膝にこぼれました。
眼を空にして、割烹衣かっぽういの端で口をぬぐっているときお千代は少し顔をあからめた。お絹は姉の肩越しに、アンディーヴの鉢を覗き込んだが
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
大臣も不承不承慎んで馬の糞を金箕でける役を勤めたとあらば、定めて垂れ流しでもあるまじく、蜀江しょっこうの錦ででもぬぐうたであろう。
看護婦がアルコールをしませた脱脂綿を持ってくると、俊夫君はそれを受け取って、死体の顔の右の頬にある黒子ほくろの上をぬぐいました。
紫外線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
壁の裏が行方ゆくえであらう。その破目やれめに、十七日の月は西に傾いたが、よる深く照りまさつて、ぬぐふべき霧もかけず、雨も風もあともない。
光籃 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
「いや、大阪もひどいにはひどいが……」岩田氏は鼻の先の汗を邪慳に手帛ハンケチで押しぬぐつた。「しかし、東京よりはましのやうです。」
女等をんならみな少時しばし休憩時間きうけいじかんにもあせぬぐふにはかさをとつて地上ちじやうく。ひとつにはひもよごれるのをいとうて屹度きつとさかさにしてうらせるのである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
「もとよりのこと。仰せのごとき暴をなせば、上下しょうか怨嗟えんさをうけ、諸方の敵方に乗ぜられ、末代、殿の悪名はぬぐうべくもおざるまい」
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
気丈な母ですから、懐剣を抜いてあふおちる血をぬぐって、ホッ/\とつく息も絶え/″\になり、面色めんしょく土気色に変じ、息を絶つばかり
第六 毎日まいにち一度いちど冷水ひやみづあるひ微温湯ぬるゆにて身體からだ清潔きれいぬぐひとり、肌着はだぎ着替きかへべし。入浴ふろは六七日目にちめごとなるたけあつからざるるべきこと
養生心得草 (旧字旧仮名) / 関寛(著)
なみだ各自てんでわけかうぞと因果いんぐわふくめてこれもぬぐふに、阿關おせきはわつといてれでは離縁りゑんをといふたもわがまゝで御座ござりました
十三夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
「ええ」とうなずきながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分でおどろき、汗をぬぐうふりをすると、あわてて船室に駆け降りました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
語り來つて石本は、痩せた手の甲に涙をぬぐつて悲氣かなしげに自分を見た。自分もホッと息をいて涙を拭つた。女教師は卓子テーブルに打伏して居る。
雲は天才である (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルでぬぐわれた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ユーザ・サヨ・サマーレとは、当地の言葉にて「神々よ! 汝の手により涙をぬぐいたまいて」という慰めの意味だそうであります。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
そういうひどい勢いが一時間経たぬ中にパッとやんでしまいまして、後は洗いぬぐうたごとくマンリーの雪峰が以前のごとくに姿を現わし
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
私はこの事件の直後、ぬぐい去ろうとしても拭い去ることの出来ない憂鬱症のために、われるようにしてこのX市を立ち去った。
そして、手の甲で唇と舌とを横撫でして、おまけにその手の甲を何でぬぐおうとするでもなく、そのまま頭を掻いたりさかなをつまんだりした。
鬼涙村 (新字新仮名) / 牧野信一(著)
といつて、此時涙をぬぐひながら其おもちやを片づけ升た。銀貨と銅貨はまだ残つて居り升たが、黄金機会はモウおしまひでした。
黄金機会 (新字旧仮名) / 若松賤子(著)
連呼しながら、僕は、両頬りょうほおに伝う熱い涙を感じたが、それをぬぐおうともせず、なおも石油ポンプの把手を、力のかぎり、根かぎり押した。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
それは嵐のような拍手をき起した。手を夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、ソッとぬぐっている中年過ぎた漁夫がいた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
貴婦人は差し向けたる手をしかと据ゑて、目をぬぐふ間もせはしく、なほ心を留めて望みけるに、枝葉えだはさへぎりてとかくに思ふままならず。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
一度で得た記憶を二返目へんめ打壊ぶちこわすのは惜しい、たび目にぬぐい去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
今は主君と先祖の恩恵にて飽食ほうしょく暖衣だんいし、妻子におごり家人をせめつかい、栄耀えいようにくらし、槍刀はさびもぬぐわず、具足ぐそくは土用干に一度見るばかり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
その晩の煩わしい会合の記憶は、海綿ででもぬぐい去られるように消えていった。もう何にも残らなかった。ライン河の声がすべてを浸した。
倫敦ロンドン市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼をぬぐわせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
青白い顔の若い男が三、四人の者に、青い作業服の腕をつかまれて立っていた。そのそばで、商人風の背の小さな男が鼻血をぬぐってもらっていた。
街頭の偽映鏡 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
「小説を書いたのです。十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだままてのひらで両の鼻翼の油をゆっくりぬぐった。
彼は昔の彼ならず (新字新仮名) / 太宰治(著)
ぬるぬるとあぶらの湧いたてのひらを、髪の毛へなすり着けたり、胸板むないたで押しぬぐったりしながら、己はとろんとした眼つきで、彼方此方あっちこっちを見廻して居た。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
草を苅る如く人を切ったのでさすがに数馬も疲労つかれたらしくホッと深い溜息をしたが、やがて静かに太刀をぬぐいパチリとさやに納めてしまった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
しかし何しろ秋の夜の空はぬぐった様に晴れ渡って、月は天心てんしん皎々こうこうと冴えているので、四隣あたりはまるで昼間のように明るい。
死神 (新字新仮名) / 岡崎雪声(著)
と、涙をおぬぐいになりながら東宮へ後事をお頼みになるのであった。母君の女御にも信じ切ったようにして院は女三の宮のことを仰せになった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
給仕するしもべの黒き上衣うわぎに、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起してぬぐひゐたり。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
今秋マサニ鎌倉移住ノ命アラントス。都ニ出デゝ三日奄然えんぜんトシテ寂セリ。(中略)かなしイカナ。戊午晩秋十三夜月明ノ窓下そうかニ涙ヲぬぐつつしンデ書ス。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
千円の顕微鏡を雪の露天に放り出して置いても、乾いた布でぬぐうだけの注意をしていれば何の故障も起らないのである。
雪雑記 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
しかも五月の空はぬぐった如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよとでていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。
歌麿懺悔:江戸名人伝 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
差さるる盃を女は黙って受けたが、一口附けると下に置いて、口元を襦袢じゅばんの袖でぬぐいながら、「金さん、一つ相談があるが聞いておくれでないか?」
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
涙で顔中ぬらぬらとれてくるのをぬぐはうともしずに、馳け出してみたり、馬鹿らしくなつて歩いてみたりしてゐた。
イボタの虫 (新字旧仮名) / 中戸川吉二(著)
茶碗にぬぐいをかけるやら、炭をあおぎはじめるやら、ここはおとっさんが車輪になって八人芸をつとめる幕となりました。
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
彼女が二度目に悲しい溜息ためいきを吐いたのは、ヘレンのためだつた。ヘレンのために、彼女は頬の涙をぬぐつたのであつた。
だが色鍋島そのものに対する不満を語らずとも、その仕事のぬぐい難い欠点は、単なる繰返しに過ぎないということである。それも摸写というにとどまろう。
北九州の窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
そこは東北地方の風景といふ先入觀念を完全にぬぐひとるに足る明るい澄んだ、そして又おとなしい畫面ぐわめんである……。
地方主義篇:(散文詩) (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
暇があるとぬぐいをかけたりこなを打ったりして、いつまでもあきずに眺めていた。とぎに出したりするのも好きだった。
そして、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。それから再び腰をおろしたが、それは前に坐っていたところでなく、反対側の壁ぎわの床几しょうぎであった。
要するに東京の尻を田舎がぬぐう。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻あとしりを拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
記し終りてかたふうじ枕元なる行燈あんどうの臺に乘置のせおきやゝしばし又もなんだに暮たりしが斯ては果じ我ながら未練みれんの泪と氣を取直とりなほし袖もてぬぐひ立上り母の紀念かたみ懷劍くわいけん
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)