ぼう)” の例文
女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のためにぼうとなって横たわっていた。
源氏物語:50 早蕨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかりみはったが、すぐ、それさえもぼうとなる。
開扉一妖帖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
姿がぼうとぼけてしまい、焔が太くなった時に一枚の襖の一つの引き手が、妙にキラキラ輝いて見えたが、今は反対に見えなくなった。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
この中国にを唱えた祖先赤松一族の行方はどこにありましょう。ぼうとして、去年こぞの秋風を追うようなはかない滅亡を遂げたままです。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
痛いには違いあるまいが、頭がただもうぼう無感覚ばかになっているから、それで分らぬのだろう。また横臥ねころんで夢になって了え。
そこに、神鏡のようにぼうッと白く浮かんでいる老人の顔を見ると、弥生は、はじめて気がついたようにあたりを見まわした。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
ぼうとした空に月がかさを帯びて、その光が川の中央にきらきらと金を砕いていた。時雄は机の上に一通の封書をひらいて、深くその事を考えていた。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
それを見て四方から、らいのような喝采かっさいのどよめきが起こりました。塔の上からながめると、一面にぼうとした星明りでした。
彗星の話 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
キャラコさんは、楽しすぎて、すこしぼうとなる。そのひとの掌は大きく温かくて、その手にとられていると、なんともいえない頼母たのもしさを感じる。
わたくしはもう半分は死んだ者のようにぼうとなってしまいまして、なにをどうしようという知恵も分別ふんべつも出ませんでした
半七捕物帳:02 石灯籠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
たとえば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いてくずれてゆくのだ。空には青い青いぼうとした光線がある。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
二郎は魂の抜け去ったようにぼうっとしてたたずんでいますと、頭の上の大きな杉林に風の音が物凄く、月の光りがちらちらと洩れてふくろ啼声なきごえが聞えます。
迷い路 (新字新仮名) / 小川未明(著)
締めてみるがよい。苦しくなって夢中になって、いよいよ命がなくなるという時は、気持がぼうとしてしまって、自分で絞めている手拭を離すそうだよ
しかもぼうっとしてものの考えられぬ頭で、ただばかのように私は結婚結婚ということばかり、思い詰めていたのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
すると、湧いては流れ、解けては結ばれる激流のなかに、ぼうっと光る、白いうねりのようなものが現われた。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
黒い木橋は夢の国への通路のように、かすかに幽かに、その尾を羅のとばりの奥の奥に引いている。そして空の上には、高層建築が蜃気楼しんきろうのようにぼうと浮かんでいた。
猟奇の街 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
昨日久野が潜んでいたあたりは、今日は夕方から曇ったのでただぼうと黄色い蘆が見えるだけであった。
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
私は行手の様子が気に懸るので、岩の上に登ってひょいと首を出すと、ぼうっとした白いものが眼に入った、雪渓! 脚の下から——何処まで続いているか分らない。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
橋の際に柳が立ち並んで、夜の雨でぼうっとしている。岸の家々の軒燈籠が水にちらちら写っている。
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、ぼうと斜めにさしている。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
恐らく風も何もない晩で、空に見える星の影も、いずれかといえばぼうとしたような場合であろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
ぐらりとかしいだ船を踏みつけるようにして、ひょうぼうはてしないくらやみの海を、ひろがった河口の先にしげしげと見入るのであった。彼は、ぶるッと身ぶるいをした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
一望ぼうとして、北氷洋がこおったように雲は硬く結んでいる、東方甲斐の白峰しらねを先頭とせる赤石山系のみは、水の中に潜んでもいるように藍をした、我が一脈の日本アルプスは
奥常念岳の絶巓に立つ記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
ぼうとして気を失いかけた。クリストフの片手はザビーネの小さな足の細い指先を握りしめていた。ザビーネは汗ばみまた冷たくなって、クリストフの方へ身をかがめてきた……。
寝台ねだいい下りて、北窓の日蔽ブラインドき上げて外面そとを見おろすと、外面は一面にぼうとしている。下は芝生の底から、三方煉瓦れんがへいに囲われた一間余いっけんよの高さに至るまで、何も見えない。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
〔ああ、ヱヴェレストはまだとほいらしい。〕ペンペはかなしいこえをあげてきだしたが、自分じぶんこえいてすくひにるものもいのかとおもふと、はらつて、あたまなかぼうッとしてた。
火を喰つた鴉 (新字旧仮名) / 逸見猶吉(著)
若きころ夜遊びに出で、まだよいのうちに帰り来たり、かどくちより入りしに、洞前ほらまえに立てる人影あり。懐手ふところでをして筒袖つつそでの袖口を垂れ、顔はぼうとしてよく見えず。妻は名をおつねといえり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
何時までも進まぬ。ぼうとした耳に、此世話よばなしが再また、まぎれ入って来たのであった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
輪郭りんかくにじんだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白くぼうとして空と水の境が無く、岸の平沙へいさは昼のように明るく柳の枝は湖水のもやを含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶ばんだの花はあられに似て
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
顏が無いので、服装と持物とによつて見分ける外はないのだが、革帶の目印とまさかりの飾とによつてまぎれもない弟の屍體をたづね出した時、シャクは暫くぼうつとしたまま其の慘めな姿を眺めてゐた。
狐憑 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)
百貨店の前身は勧工場かんこうばである。新橋しんばし上野うえのしばの勧工場より以前にはたつくちの勧工場というのがあって一度ぐらい両親につれられて行ったようなぼうとした記憶があるが、夢であったかもしれない。
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
石段を下り切つたぐ前に、眞ツ黒な古ぼけた家が、やみの中から影の如く見えてゐた。内部なかのラムプの光で黄色く浮き出した腰高こしだか障子しやうじには、『御支度所おしたくじよ大和屋やまとや』といふ文字もんじぼうとして讀まれた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
歳月匆々そうそう十歳じっさいに近し。われ今当時の事をかえりみればぼうとして夢の如しといはんのみ。如何いかんとなればわれまた当時の如き感情を以て物を見る事能はざればなり。物あるひは同じかるべきも心は全くしからず。
矢立のちび筆 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
爺さんは、しばし解けぬ疑いにぼうっとして、堂の入口に佇んだ。
『七面鳥』と『忘れ褌』 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
ると頭がかるくグラ/\として、氣にぼうツとする。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
ぼうの世界に消えてゆく
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
意味いみそんするところ何方いづこぞやぼうとしてくらきわかのかげいとゞまよひはしげふばかりるゝよしそらつき心〻こゝろ/\はんじてれどいづ眞意しんいぞわきがたよろこぶべきかなげくべきかお八重やへはお八重やへ優子いうこ優子いうこはれなばくせんの决心けつしんたがひかたけれどおもひのほかなるかへしにはなにさだめてなにとせん未練みれん
五月雨 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
そのいしずえ花崗岩みかげいしと、その扉の下半分とが、ぼうと薄赤く描き出されていた。どうした加減か一つのびょうが、鋭くキラキラと輝いていた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
わがことであって身勝手な思いなしによるものなのであろうと気恥ずかしいような思いをしながらぼうと外をながめつつ寝ていた。
源氏物語:49 総角 (新字新仮名) / 紫式部(著)
耳が遠くおなんなすったくらい、ぼうとしていらっしゃるのに、悪いことだと小さな声でいうのが遠くに居てよく聞えますもの。
誓之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして抜け殻のような身をぼうと祈りのなかにおいて或る観念にいやおうなく達してきたとき、初めて一すじの光を心のすみが見つけていた。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
順一の顔には時々、けわしい陰翳いんえいえぐられていたし、嫂の高子の顔は思いあまってぼううずくようなものが感じられた。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
勇はぼうとして、自分の飛んだ独楽の行衛ゆくえを見ていましたが、だんだん悲しそうな顔付になって泣き出しました。
百合の花 (新字新仮名) / 小川未明(著)
顔が火照ほてって頭がぼうっとして、こうしていても躍り出したくなる無性に楽しいような気がしてきますけれど、それでいて彼女と膝が触れ合っていることが
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、対手あいての顔を穴の明くほどじっと見詰めると、お葉は少しくぼうとなって来た。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
部屋の中から射すあかりで、そこらはぼうッと明るく、廊下の先は、夏の夜ながらうそ寒い半暗はんあんに沈んでいるのだ。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
闇の中でほうぼうと押し拡がっていて、やがては灰色をした砂丘となり、またその砂丘が、岩草のはびこっているあたりから険しく海に切り折れていて、その岩の壁は
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
すねでくくった義経袴よしつねばかまをちらッと見ただけで大野順平は眼を伏せた。何とも云いようの無い感動が彼の全身を駈けめぐっていた。笑うことも泣くことも出来ずぼうッとしてしまうのだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
力は乱され、意識は暗くなる。気がぼうとしてるそういうおりに、一撃の雷電が彼の夢遊病的歩行を中止させるならば、彼にとっては災いなるかな! 彼は崩壊するばかりである……。
その時もぼうとしたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持こころもちになった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)