ふた)” の例文
母は縫目ぬいめをくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜のふた取手とってを指で廻し始めた。母はまたいった。
(新字新仮名) / 横光利一(著)
秋山は御用箱のふたをあけて、ひと束の書類を取出した。彼は吟味与力の一人であるから、自分の係りの裁判が十数件も畳まっている。
真鬼偽鬼 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
でっぷりえた中年の人間が——倉庫係のおじさんだ——ぼくたちのぎっしりまっているボールばこを手にとって、ふたを明けたのだ。
もくねじ (新字新仮名) / 海野十三(著)
くだん古井戸ふるゐどは、先住せんぢういへつまものにくるふことありて其處そこむなしくなりぬとぞ。ちたるふた犇々ひし/\としておほいなるいしのおもしをいたり。
森の紫陽花 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
「灰が湿しめっているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せてふたをとると、赤い絹糸でくくりつけた蚊遣灰がいぶりながらふらふらと揺れる。
一夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
赤シャツの農夫は、窓ぶちにのぼって、時計のふたをひらき、針をがたがた動かして見てから、盤に書いてある小さな字を読みました。
耕耘部の時計 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
顔のあかい男は盛相のふた玄米げんまいいてあるぐたぐたの飯を分け、って熊笹くまざさの葉を二三枚って来てそれにのっけて僧の前にだした。
岩魚の怪 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
お安い御用と言わぬばかりに、弥兵衛老人が鎧櫃のふたを取って見せると、井戸の底をでも深くのぞき込むように、お雪は傍へ寄って
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その弾機を押すと、がくのうしろはふたのように開いた。その蓋の裏には「マリアナがなんじに命ず。生くる時も死せる時も——に忠実なれ」
されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし堪忍かんにんの水門、夫の棺のふた閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
「先生も、もうそろそろおででしょう。構いませんから先へやりましょう。」と駒田はさかずきを年上の記者にさして吸物椀すいものわんふたをとる。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「わたしは、もういただかぬ——飲みませぬ。そなたのような人と、酒ごとなぞいたしたとてかえって胸がふたがるばかりでござります」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
「それだからこの息子は可愛かわいいよ」。片腹痛いことまで云ッてやがて下女が持込む岡持のふたを取ッて見るよりまた意地の汚いことをいう。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
母がその重箱を持ってきて、皆の前でふたを取ったとたんに「ああ、綺麗だな」と子供心に思ったことを、今頃になって思い出した。
御馳走の話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
家康は本多佐渡守正純ほんださどのかみまさずみに命じ、直之の首を実検しようとした。正純は次ぎのに退いて静に首桶くびおけふたをとり、直之の首を内見した。
古千屋 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
チビ公がふたをあけると巌はすぐ手をつっこんだ、それから焼き豆腐をつかみあげて皮ばかりぺろぺろと食べて中身を大地にすてた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
*うなぎ酒はふた茶碗にうなぎの焼いたのを入れて熱い酒をかけて、茶碗の蓋をしたままむ。この場合は関西風の焼き方にかぎる。
料理メモ (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
この刹那せつなに箱のふたをあけると、案の通り土で造った円筒状の煙管キセルの雁首が一箇出た。箱の蓋をく見ると、煙草タバコを刻んだ跡もある。
土塊石片録 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
人間相互の残酷性である。この世の地獄をふたしている揚げ戸をもち上ぐるや否や、オリヴィエの所まで、叫喚の声が立ちのぼってきた。
下の段に積んであつた小道具の中から、紐のかゝつた手箱を出して、ふたを拂つて見ると、中から出て來たのは、男の手紙が十二本。
すぐに、ばたばたと女房、座敷に走って来て、「小判はここに。」と言い、重箱のふたを差し出した。そこにも、きらりと小判一枚。
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「中を調べるなら、ふたをあけてお見せするで、待ってくらっせえ。槍などで樽に穴をけられたら、味噌がえてしまうでねえか」
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
領主 (柩のふたをはずし、死せる公子の姿を現わす、屍は白き花を以て飾られたり)この屍に罪を謝し、く月桂冠を取りはずせ!
レモンの花の咲く丘へ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
トン魚がついと隠れ、タニシがもぞもぞとふたをしめ、そこまで来ると、もはや、聞える物音は幻覚ではない。感触出来るものであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
彼れは手ごろの書物を探し出して、行李へふたをしようとしたはずみに、彼の躯は奇妙な恰好に捩れて、歪められた鉄管のようになった。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
上等にしますと三寸位の山葵なら一合の沸湯にえゆいで、固くふたをしておく事が一時間、そうすると山葵の辛味がすっかりお湯へ出ます。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
「やっぱりそうだ。恒川君、やつはこの辺で人形箱のふたをひらいてみたんだ。そして、一杯わされたことを知って怒り出したんだね」
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
お前はひつぎふたをするのです。修道女たちがそれを礼拝堂に持ってゆきます。死の祭式を唱えます。それからみな修道院の方へ帰ります。
勘次かんじは一にち仕事しごとへてかへつてては目敏めざと卯平うへい茶碗ちやわん不審ふしんおもつてをけふたをとつてた。つひかれ卯平うへいふくろ發見はつけんした。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
吸物のふたを取ると走りの松蕈まつたけで、かうばしい匂がぷんと鼻にこたへる。給持きうぢ役僧やくそうは『如何どうだ』といつた風に眼で笑つて、してつた。
茸の香 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
忽ち髪をもしゃもしゃにした子供の首がはこふたをもちあげて出て来て、北の方を向いてお辞儀をした。それは彼の子供であった。
偸桃 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
月はなふたをあけてみて、思いもよらぬお得意がさらわれているのを発見することがあるが、みなK紙にしてやられているのである。
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
と、ミチは浴槽の半分だけあけた残りのふたを取り始めた彼に、湯ぶねのなかから声をかける。すると藤三は羞恥しゅうちの苦笑を浮べる。
刺青 (新字新仮名) / 富田常雄(著)
翌日よくじつ別當べつたう好意かういで、玄竹げんちく藥箱くすりばこあふひもんいた兩掛りやうがけにをさめ、『多田院御用ただのゐんごよう』のふだを、兩掛りやうがけけのまへはうふたててもらつた。
死刑 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
そして、出入口のふすまだのガラス障子だのをすっかり締め切ってしまってから、バスケットを部屋のまん中にえて、ふたを開けた。
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「しかし、たとえば、留置場か、棺桶のふたのような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這入はいるものではないが」
記憶 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
僕は大急ぎで両手でふたをしたけれども、婆やはかまわずに少しばかり石を拾って婆やのすわっている所に持っていってしまった。
碁石を呑んだ八っちゃん (新字新仮名) / 有島武郎(著)
次に左ポケットからは銀のふたのついた大きな箱のようなものが出てきましたが、二人には持ち上げることができませんでした。
学校の机のふたの裏側に、は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろうと、キザなことをってきた。
いずこへ (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
「じゃア、一しょにおいで!」といって、継母ままはは部屋へやへはいって、はこふた持上もちあげげながら、「さア自分じぶん一個ひとつりなさい。」
で三百の歸つた後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思ひで、包裝をぎ、そしてそろ/\と紙箱のふたを開けたのだ。
子をつれて (旧字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
半日掛りでようやく棺桶をふたすることが出来た。單四嫂子は泣いたり眺めたり、何がどうあろうとも蓋することを承知しない。
明日 (新字新仮名) / 魯迅(著)
無論むろんふたはしてるが往來わうらい飛出とびだされても難儀なんぎ至極しごくなり、夫等それらおもふと入院にふゐんさせやうともおもふがなにかふびんらしくてこゝろひとつにはさだめかねるて
うつせみ (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
いよいよふたを明けましたのが確か五月の六日……五日の節句という目論見もくろみであったが、間に合わず、六日になったように記憶しております。
右角に色彩をかわら屋根でふたをしている果物屋があって左側には小さい公設市場のあるのが芝居の書割のように見えて嘘のようだ。
豆腐買い (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
とおげんは新しい菓子折をひざに載せて、ふたを取って見た。病室で楽しめるようにと弟の見立てて来たらしい種々な干菓子がそこへ出て来た。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
算盤をはじき終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事にふたをかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
浴場の広い流し場へうすべりを敷いたのが聴衆席であり、浴槽よくそうふたをし、その上へさらに板を並べ、古テーブルを置いたのが演壇であった。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
一概に臭い物にふたをせよと言うのでなく、臭い物は別に始末すれば宜ろしい。美くしい芸術品などの前ではそれを考えたくないと思うのです。
新婦人協会の請願運動 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
ボデイの方は、ブリキを切断して、円く胴をつくり、ふたをくっツけて締めつけ、それが空気がれないか、どうかを調べる。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)