ひとみ)” の例文
童話の創作熱に魂の燃えた時に、はじめて、私の眼は、無窮に、澄んで青い空の色をひとみに映して、恍惚こうこつたることを得るのであります。
『小さな草と太陽』序 (新字新仮名) / 小川未明(著)
ピカルディーの田舎者いなかものの目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンのひとみをよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思ってひとみをこらした。一度は彼らを見たと思った。
ひとみというものの後側も見えるものであったら、この二人の人の瞳は実際は一つの瞳であってどちらも外すことができないものであろう。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
雪童子のひとみはちよつとをかしく燃えました。しばらくたちどまつて考へてゐましたがいきなりはげしく鞭をふつてそつちへ走つたのです。
水仙月の四日 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
お梶が、死んで以来、藤十郎の茂右衛門の芸は、愈々えて行った。彼のひとみは、人妻を奪う罪深い男の苦悩を、ありありと刻んでいた。
藤十郎の恋 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
欣弥は頷きたりしかしらをそのままれて、見るべき物もあらぬ橋の上にひとみを凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
幸子はついぞ見馴みなれない、今朝出て行った時とは全く違う銘仙の単衣ひとえを着て、大きなひとみを一直線に此方に据えて立っている妙子を見た。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ラスコーリニコフは布のように真青な顔をして、その黒い燃えるようなひとみを副署長の視線から放さず、ちぎれちぎれな声で鋭く答えた。
遠光はもう返事もしないで、相手のひとみを一心に睨んでいると、玉藻はなんと感じたか俄に扇でそのおもてを隠しながら高く笑った。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
俺はいまようやくひとみを据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
桜の樹の下には (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
その黒猫は大きなひとみをして、じっと夫人をみつめていた。置物のように動かないで、永遠に静かな姿勢をしてうずくまっていた。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
黒いダブダブの洋服を着て、せて、顔におそろしくしわがあった。目は澄んでいた。茶色のひとみだった。顔にも老年のシミが目立っていた。
悪霊物語 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ひとみのない銀杏ぎんなん形の眼と部厚いくちびる、その口辺に浮んだ魅惑的な微笑、人間というよりはむしろ神々しい野獣ともいえるような御姿であった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
綾小路あやこうじさんがいらっしゃいました」と、雪はかごの中の小鳥が人を見るように、くりくりした目のひとみを秀麿の顔に向けて云った。
かのように (新字新仮名) / 森鴎外(著)
素戔嗚はあの美貌の若者へ、燃えるようなひとみを移した。が、彼はやはり藁の中に、気を失ったのか、仮死そらじにか、眼を閉じたまま倒れていた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
まぶたぢて、ひとみちる光線を謝絶して、静かにはなあな丈で呼吸こきうしてゐるうちに、枕元まくらもとはなが、次第にゆめほうへ、さわぐ意識をいて行く。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
倐忽たちまちひとみこらせる貫一は、愛子のおもてを熟視してまざりしが、やがてそのまなこの中に浮びて、輝くと見ればうるほひて出づるものあり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ひとみをこらして見ていれば、さっさつたる怪影かいえいは、せきやまから竹生島ちくぶしまのあたりへかけて、ゆうゆうとつばさをのばしてうのであった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黒い夜空ににおいそめた明星のように、チラリチラリと、眼をあげるたびに、星のようなひとみが輝き、なつかしいまたたきを見せる。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ひとみらしてよく見ると、それが女のかぶるかつぎであることがわかり、それを冠ったまま、むすめが一人たおれているのが判りました。
鯉魚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
死体になった丈吉は、衣紋えもんの崩れもなく、ひとみへ真っ直ぐに立った畳針を見ると、争いがあったとは思いも寄らなかったのです。
まなこの光にごひとみ動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。まといしはあわせ一枚、裾は短かく襤褸ぼろ下がり濡れしままわずかにすねを隠せり。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、ひとみはもはや大きくなつてゐた。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
眼だけが、偏執的に光りながら、伏せている兵隊の背にあちこち動いた。燃えるようなひとみのいろであった。不意に振り返り、私の方を見た。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
流眄、すなわち流し目とは、ひとみの運動によって、こびを異性にむかって流しることである。その様態化としては、横目、上目うわめ伏目ふしめがある。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
濱島はまじまふね舷梯げんていまでいたつたときいま此方こなた振返ふりかへつて、夫人ふじんとその愛兒あいじとのかほ打眺うちながめたが、なにこゝろにかゝることのあるがごとわたくしひとみてんじて
そんな問答が聞えるのか聞えないのか、おせんは泣き叫ぶ子を揺すりながら、ひとみのぬけたような眼でじっとどこかをみつめるばかりだった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
君ら二人の目は悒鬱ゆううつな熱に輝きながら、互いにひとみを合わすのをはばかるように、やや燃えかすれたストーブの火をながめ入る。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
庸三はやつれたその顔を見た瞬間、一切の光景が目に彷彿ほうふつして来た。葉子のいつも黒いひとみは光沢を失って鳶色とびいろに乾き、くちびるにも生彩がなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私の家来のフラテはこの水をさもうまそうにしたたかに飲んでいた。私は一瞥いちべつのうちにこれらのものを自分のひとみへ刻みつけた。
薄曇りの空には微熱にうるむひとみがぼんやりと感じられた。と、コンクリートのへいに添う並木の姿が彼の眼にカチリと触れた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
彼女のひとみの底に刻みつけられた凜々りりしく逞しい小姓の姿の中に、昨日までの藤作のおもかげは、もはや探るべくもなかった。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛いひとみでチョット見上げていたが、何故か多少、悄気しょげたように俛首うなだれて軽いタメ息を一つした。
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼女はひざの上に両肘りょうひじもたせて、あごを支えながらじいっと、湖へひとみを投じています。彼女に膝を並べて、私も言葉もなく、湖をながめていました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
というのは、そのだぼはぜ嬢が、愈々いよいよひとみこびをたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
毎朝の抜毛と、海と同じ様な碧色の黒みがかった様な色をした白眼の中にポッカリとひとみのただよって居る私の眼は、見るのが辛い様な気がする。
秋毛 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
その眼は——かつて彼がとらえ得なかった未知の眼は——彼の上にすえられていた。ひとみの大きな、燃えたったきびしい視線の、青黒い眼だった。
私達のひとみはそこでかち合った。私はどぎまぎした。が、こうなってはもう、私は私の心持ちを思いきって言わねばならぬ。
中村さんは「この色でしょうね、幼児のひとみをのぞいたような感じというのは」とそのうちの一つを指して教えてくれた。
南画を描く話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
しかし、その声は彼女の唇をもれなかったので、彼女の両のひとみの周囲には矢張り淡黄な光りが一ぱいにたゞよって、その静寂は一つも動かなかった。
青白き夢 (新字旧仮名) / 素木しづ(著)
ふとさうつぶやきながら、私はひとみを返して遠くなつた修道院の方を振り返つた。が、その時ポプラの林を背景にした建物の姿はもう岬のかげかくれてゐた。
処女作の思い出 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
それは太陽たいやう強烈きやうれつ光線くわうせんわたしひとみつたからではなかつた。反對はんたいに、ひかりやはらかにわたしむねつたのである……。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
クロオジヤスのきさきメッサライナ。メッサライナは、アグリパイナのひとみをひとめ見て、これは、あぶない、と思った。烈々の、野望の焔を見てとった。
古典風 (新字新仮名) / 太宰治(著)
アーサー君は、ひとみの青い、金髪のふさふさした可愛い少年だ。兎のように、耳を立てて、父の言葉に聞き入っている。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
怜悧りこうそうな少年のひとみに見入りながら岸本がそう答えると、少年はまだ見たことのない東洋の果を想像するかのように
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
やがてかすかに病人のくちびるが動いたと思うと、かわいた目を見開いて、何か求むるもののようにひとみを動かすのであった。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
雜木林ざふきばやし其處そこ此處こゝらに散在さんざいして開墾地かいこんちむぎもすつとくびして、蠶豆そらまめはな可憐かれんくろひとみあつめてはづかしさうあいだからこつそりと四はうのぞく。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
る日矢張松原に出て、空を眺めてゐますと、日のある方から何やら白いものが落ちて来るやうですから「ハテ何だらうか」と、ひとみをこらして見てゐると
子良の昇天 (新字旧仮名) / 宮原晃一郎(著)
私が最大級の讃辞さんじを博士にささげていると、ロッセ氏は、そうかそうかと、ペルシャねこのようにんだひとみをくるくるうごかして、しきりに感服かんぷく面持おももちだった。