跡方あとかた)” の例文
そのほの暗い車室の中に、私達二人丈けを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方あとかたもなく消えせてしまった感じであった。
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しかし其処そこまで出ることは出られたが、数年前まで其処にごとごとと音立てながらまわっていた古い水車はもう跡方あとかたもなくなっていた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
片足でケンケンしているような危なッかしさに、自分自身に腹たてながら、そのくせ、昨日たてたプランも今日は跡方あとかたもなく見失ってしまう。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
名物の煎餅屋せんべいやの娘はどうしたか知ら。一時跡方あとかたもなく消失きえうせてしまった二十歳時分はたちじぶんの記憶を呼び返そうと、自分はきょろきょろしながら歩く。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
あんな悲慘事ひさんじ自分じぶんむらおこつたことを夢想むそうすることも出來できず、翌朝よくあさ跡方あとかたもなくうしなはれたむらかへつて茫然自失ぼうせんじしつしたといふ。
地震の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
その間、耳にもし眼にも見たいわゆる国家の大事というものは、勘定してみるとずいぶん少くないが、わたしの心の中には何の跡方あとかたも残らない。
些細な事件 (新字新仮名) / 魯迅(著)
瑞木と花木が朝の涙などは跡方あとかたもない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙をこぼしながら書いて居る母の傍へ来て
帰つてから (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
あはしては百年めといふ者サアなにも彼も決然きつぱりと男らしく言て仕舞しまへいふにぞ段右衞門コレ汝ぢは跡方あとかたないこしらへ事を言かけ我につみ
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
あの昔噺むかしばなし事実じじつそのままでないことはもうすまでもなけれど、さりとてまった跡方あとかたもないというのではありませぬ。
跡方あとかたは潰れてもそれまでと思いきり、国のいえを出て江戸へめえりやしたが、頼るものはなく、仕様がなくって
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方あとかたもない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
昨日きのふ晩方ばんがた受取うけとつてから以來いらいこれ跡方あとかたもなしにかたちすのに屈託くつたくして、昨夜ゆうべ一目ひとめねむりません。
艶書 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
とうとうおしまいにこの日本国にほんこく皇子おうじまれてて、ほとけみち跡方あとかたもないところ法華ほっけたねいた。
夢殿 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
情婦は、思いあまって、自殺の意を決し、自分の働いている工場の熔融炉キューポラに飛びこんで、ドロドロにけたなまりの湯の中に跡方あとかたもなく死んでしまった。こんどは、若い男の番だった。
夜泣き鉄骨 (新字新仮名) / 海野十三(著)
つつましやかな氣持で甲板かんぱん一隅ひとすみにぢつとたゝずみながら、今まで心の中に持つてゐた、人間的なあらゆるみにくさ、にごり、曇り、いやしさ、暗さを跡方あとかたもなくふきぬぐはれてしまつたやうな
処女作の思い出 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
あの沙門の加持かじを受けますと、見る間にその顔が気色けしきやわらげて、やがて口とも覚しい所から「南無なむ」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方あとかたもなく消え失せたと申すのでございます。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そして気がついて見ると、も一つのしゃりこうべの跡方あとかたもなく崩れてしまったのを見て嘆いた。が、そのぎにはまだ自分がこのようにがっしりした形をもっていることを何より喜んだ。
しゃりこうべ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
彼等は地の底に避難のへやを作った為に助かったのだ。もっともこの研究所の入口に当たる設備は、悉く大熱火の為、大嵐の為、跡方あとかたも無くぬぐい去られた。それが為彼等は暗室の最下層に潜んでいた。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
このはかは、そのこはしてしまつて、いまでは跡方あとかたのこつてをりません。また旅順りよじゆんひがし營城子えいじようしといふところにも、漢時代かんじだいはかがありまして、平壤へいじよう附近ふきんはかからるのとおなじような漆器しつきなどがました。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
「それは跡方あとかたもないことじゃ、あれはきつねたぬきいておる」
累物語 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
今は殆ど跡方あとかたもないようになってしまった。
亡びゆく花 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それらの音響とそれに伴う情景とが吾々の記憶から跡方あとかたもなく消え去ってから、歳月はすでに何十年過ぎているであろう。
虫の声 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
笑いの影は二人の顔から跡方あとかたもなく消え去り、互の烈しい視線が、火花を発して空中に斬りむすんでいた。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
或いは生前にかしありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌みそたぐいまでも取り去りしかば、この村草分くさわけの長者なりしかども、一朝にして跡方あとかたもなくなりたり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
しかし少納言様の急に御歿おなくなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方あとかたのない嘘でございます。
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
私は自分自身の眼で見知るやいなや、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私のいだいていた、軽い嫉妬しっとのようなものは、跡方あとかたもなく消え去った。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
見ているうちに喧嘩となり、汝の父を討ったる刀、中身は天正助定なれば、是を汝に形見としてつかわすぞ、又此のつゝみうちには金子百両とくわしく跡方あとかたの事の頼み状、これをひらいて読下よみくだせば
以て主人の居間ゐまの金百兩紛失ふんじつせしこと申立て候是は跡方あとかたなきいつはりに候へ共右樣申立るに於ては御上にてもすけ十郎郷右衞門の兩人にうたがひかゝらんにより藤五郎兄弟きやうだいを盜み出せしは己等が罪を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
このとき大地だいち開閉かいへいによつて土民どみん勿論もちろん彼等かれらつてゐた畜類ちくるい牛馬ぎゆうば駱駝らくだとういたるまでこと/″\くそれにまれ、八千はつせん乃至ないし一萬いちまん人口じんこうゆうしてをつたこの部落ぶらくそのために跡方あとかたもなくうしなはれたといふ。
地震の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
浅草寺境内せんさうじけいだい弁天山べんてんやまの池も既に町家まちやとなり、また赤坂の溜池も跡方あとかたなくうづめつくされた。それによつて私は将来不忍池しのばずのいけまた同様の運命に陥りはせぬかとあやぶむのである。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
盲目縞の木綿の単衣ひとえのぼろぼろに破れたもので、殊に左の袖は跡方あとかたもなくちぎれてしまって、ちぎれた袖の間から、黒く汚れたメリヤスのシャツに包まれた腕のつけ根が
悪霊 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
次の朝行きて見ればもちろんその跡方あとかたもなく、また誰もほかにこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形とりどころとは昨夜の見覚みおぼえの通りなり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
前の琵琶法師の語った事が、跡方あとかたもない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはりい加減の出たらめなのです。
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
それより早々そう/\其の筋へ届けますと、証書もありますから、跡方あとかたさわりなく春見の身代は清水重二郎所有となり、前橋竪町の清水の家を起しましたゆえ、母はよろこびて眼病も全快致しましたは
浅草寺境内せんそうじけいだい弁天山べんてんやまの池も既に町家まちやとなり、また赤坂の溜池ためいけ跡方あとかたなくうずめつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかとあやぶむのである。
併し、その時分には、火の蜘蛛は、もう跡方あとかたもなく闇の中へ溶込んでいたのです。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
丈「跡方あとかたは清次どのお頼み申す早く此の場をお引取ひきとりなされ」
庭は跡方あとかたもなく伐開きりひらかれ本堂の横手の墓地も申訳らしくわずか地坪じつぼを残すばかりであった。
彼等の死と共に、彼等の本拠、彼等の製造工場は、跡方あとかたもなく焼きはらわれ、百年に一度、千年に一度の大陰謀も、遂に萠芽ほうがにして刈られてしまった。人類のため慶賀此上このうえもなきことである
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
丹「跡方あとかたの知れるような事が有ってはならんよ」
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
しかし小林翁の版物はんものに描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とはたぬうち、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次ぜんじ跡方あとかたもなく消滅して行きつつある。
五六時間もたてば跡方あとかたもなくけてなくなって了う氷のかたまりだったのである。
夢遊病者の死 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
まだしも自分とおとよの生きてゐるあひだは、あの人達は両人ふたりの記憶のうちに残されてゐるものゝ、やがて自分達も死んでしまへばいよ/\なにけむりになつて跡方あとかたもなく消えせてしまふのだ………。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人ふたりの記憶のうちに残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何もも煙になって跡方あとかたもなく消えせてしまうのだ……。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)