しん)” の例文
酒場は突然、しんとして水底の静けさに変つた。人々は奴の反感を購ふことを極度に怖れてゐた。多くの村人は奴の債務者であつた。
武者窓日記 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
表門の潜戸くゞりどばかりをけた家中は空屋敷あきやしきのやうにしんとして居る。自分は日頃から腹案して居る歌劇オペラ脚本の第一頁に筆を下して見た。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
そう二つの部屋をつないでいる横の長い棟の——先刻さっきからしんと閉めきっている窓障子の一室には、四男の右門が咳声しわぶきもしていなかった。
柳生月影抄 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
取出してのみ暫時しばし其處に休み居ける中段々夜も更行ふけゆき四邊あたりしんとしける此時手拭てぬぐひに深くおもてをつゝみし男二人伊勢屋のかどたゝずみ内の樣子を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
せみがその単調な眠そうな声で鳴いている、しんとした日の光がじりじりと照りつけて、今しもこの古い士族屋敷は眠ったように静かである。
河霧 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
雪は屋外そとに降り積ると見え、時々窓の戸にあたつて、はた/\と物の崩れ落ちる音より外には、しんとして声一つしない、それは沈静ひつそりとした
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
其処そこ魔所ましよぢやとたかい。時々とき/″\やまくうつてしんとすると、ころころとさいげるおと木樵きこりみゝひゞくとやら風説ふうせつするで。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
何を見てもしづむ光彩くわうさいである。それで妙に氣がくづれてちつとも氣がツ立たぬ處へしんとしたうちなかから、ギコ/\、バイヲリンをこする響が起る。
青い顔 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
昼飯を終えた眼に静かに見渡すあたりは、ひとしきり風も無く、しんとして日影が色濃くすべてのものに沁み入っている。
茸をたずねる (新字新仮名) / 飯田蛇笏(著)
あたりがしんとなつた。蚊の唸り聲が急に大きく高くなつた。菅原は眼をくしやくしやさせて、つづけさまに、音を立てて、大きな欠伸をした。駿介は
生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
そしてまたしんとする。……風が索具リギンを鳴らし、スクリューが動悸を打ち、波がざざっとぶつかり、釣床がきしむ。
グーセフ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
あたかもこの大きな闇に、一人残らずその存在を打ち消されて、影も形もなくなったかのごとくにしんとしている。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
お室はしんとして淋しいのよ。そして四方が暗いのよ。窓からはね、黄いろいお日様がのぞいているばかり……。
レモンの花の咲く丘へ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今と違って若春わかはる余寒よかんも強く、松の内はると人ッ子一人通りませんからしんとして居りまして、往来はぱったり有りません。日光おろしがビー/\と吹来る。
天も地も何所ともなくしんと静まりかへつて、息を呑んで居るやうだ。秋だ、まさしく秋が来て居るのだ。
秋の第一日 (新字旧仮名) / 窪田空穂(著)
また向き直ると昼の恐怖がしんとしてうしろからそつと髪の毛を引つ張る。
桐の花 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
暫時ざんじ船室せんしつないしんとなる。
「男は力も尽き果てたかの女を抱いて、立ちあがると——」といふ鯨井の声で再びしんとした。「田上、続けて呉れ、俺は苦しい。」
まぼろし (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
「今日はどんな様子じゃな」と、まず声をひそめて、薬湯くすりのにおいの中にしんとしてかしこまっている侍女かしずきのものに訊くのが例であった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
路地ろじうちしんとしているので、向側むこうがわの待合吉川で掛ける電話のりんのみならず、仕出しを注文する声までがよく聞こえる。
雪解 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ふと気色ばんだお珊のさまに、座がしんとして白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、じめの音が響いたのである。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
上野の鐘はしんとした空気に響いて聞えて来た。留守居の女達は、楽しい雑談にふけりながら、皆なの帰りを待っていた。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そしてまたしんとする。……骨牌の三人組は、怒ったり呶鳴ったりしながら二時間もやっていたが、やはり揺れるので参ったらしい。札を投げ出して横になった。
グーセフ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
しんとしづまつて植物の莖や葉の息づきのみが聞えるやうな時、その莖や葉が一とき五分ぐらゐぐんと抽き出るだらうといふことは、動かし難い實感でもあつた。
続生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声はなしごえが聞え折々しんと静まり。又折々老人の咳払せきばらいが聞えた。
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
ただむなしいものがいっぱい詰っている。そうして、それがしんとしてこおっている。隣の庭もその通りである。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
嫁のお雪が十畳の広間を往ったり来たりして不動さまへお百度をあげて居りますると、其の内だけ伊之助はトロ/\ねむられますから、しんとして居る処へ伊兵衞が参り
其處らがしんとして薄暗うすぐらい。體が快くものうく、そして頭が馬鹿に輕くなツてゐて、近頃ちかごろになく爽快さうくわいだ………恰で頭の中に籠ツてゐた腐ツたガスがスツカリ拔けて了ツたやうな心地である。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
はや其夜もすで亥刻よつどき過皆々とこへ入たる樣子やうすにて座敷々々ざしき/\しんと成ければ瀬川せがは用意ようい短刀たんたうかくもち八重咲やへざきの座敷へゆき八重咲やへざきさん/\とよぶ八重咲やへざきは何のつかずアイとこたへて廊下らうかへ出るをなにか用を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
侍従が酒場へ現われるや否や酒場は俄にしんとなった。
闘牛 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ひく藁屋わらや二三軒にさんげん煙出けむだしのくちかず、もなしに、やみから潜出もぐりだしたけもののやうにつくばつて、しんまへとほつたとき
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
暫くしんとすると今度は書生の詩吟が聞えて、寺の時の鐘が長く尾を引く中に、九段坂上の兵營の喇叭らつぱが交つて響いた。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
そう風があるわけでもないのに、庭まわりの樹木が、時折、こずえまでうごいた。白い宵の星が、裏河岸の火の見やぐらから、しんとした留守の空気をのぞいていた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
参観人の群が戸を開けてあらはれた時は、一時靴の音で妨げられたが、やがて其も静つてもとの通りに成つた。しんとした教室の内には、石盤を滑る石筆の音ばかり。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
昼間からあまり車の音を聞かない町内は、よいくちからしんとしていた。夫婦は例の通り洋灯ランプもとに寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
此の長家ながやかせにんが多いゆえ、昼間の疲れで何処どこもぐっすり寝入り、一際ひときわしんといたしました。
教会の裏の方から、物悲しいさかんな歌声が湧き起った。歌詞は聞き取れず、声だけが聞えて来た。テノールが二人とバスである。皆がそれに聴き入ったので、庭先はしんとしてしまった。
女房ども (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
家ぢうは水を打つたやうにしんとして、祖父が叱ツ/\と遠くの跫音まで制した。
淡雪 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
一時、しんとした。無氣味な數瞬間であつた。しかし總代がそのやうな出方に出たといふことは、彼はそれによつて痛快の感を味はふことは出來たであらうが、勝負としては負けであつた。
生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
彼是と勘考かんかうするに今度の儀も篤實とくじつすぎ汝が身の難儀なんぎに成しかも量り難し水清ければうをすまず人明らかならばまじはり少なしとは汝が事ならん扨々憫然あはれ至極しごくしばらく默止もくして居られしかば白洲しらすしんしづまりたりやゝ有りて大岡殿再び九助に向はれ番人を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢はかないほど、夜も更けて、しんと寒くなったが、話に実がったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
毎日の曇天どんてん。十一月の半過なかばすぎ。しんとした根岸の里。湿った道の生垣いけがきつづき。自分はひとり、時雨しぐれを恐れる蝙蝠傘こうもりがさつえにして、落葉の多い車坂をあがった。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
五分乃至ないし十分はじっとしていた。しかし家の中の様子はまるで分らなかった。すべてがしんとしていた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
た室の内はしんとして暫時しばらく声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許すこしふるへて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐あはれみの心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早もうこらへかねるといふ風で
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
人のうちは何うも寝附の悪いもので、モジッカして居りまする内に、段々更け渡り、世界がしんといたし、聞えるものは河岸へあたる浪の音、かすかに茶飯屋と夜蕎麦売よそばうりの声のみで
両軍とも一瞬、槍をそろえて見せ合ったきりで、何ともいえぬ殺気の中にしんとなって、誰も出る者もなかったが、思いきって、自分が真っ先に槍をすすめ、それから乱軍になり
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
もう、人だかりも散つて、二階はしんと静まつて、人の声も聞えなかつた。
茜蜻蛉 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
が五分もすると、またしんとする。
グーセフ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
わめく、トタンに、吉原八町、しんとして、くるわの、の、真中まんなかの底から、ただ一ツ、カラカラと湧上わきあがったような車の音。
吉原新話 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
隣の話し声は先刻さっきからぱったりと途絶えたまま今は人なき如くしんとしているのである。お千代はしばらく覗いていたが次第に息使いせわしく胸をはずませて来て
夏すがた (新字新仮名) / 永井荷風(著)