くす)” の例文
くすぶった、黒い暗い室の奥の方に、爐に赤く火の燃えるのが見える。私はこの爐の辺で一生を送る人、送った人の身の上を思った。
帰途 (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
義太郎 (苦しそうに咳をしていたが、弟を見ると救い主を得たように)末か、お父や吉がよってたかって俺を松葉でくすべるんや。
屋上の狂人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
一間半の古格子附いたる窓は、雨雲色にくすぶりたる紙障四枚を立てゝ、中の二枚に硝子まり、日夕庭の青葉の影を宿して曇らず。
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
カチッ、カチッ……と燧石ひうちいしをすりながら、書院の中でいっている。やがて、ぼうと灯がついて、あたりへくすんだ灯影が流れてきた。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
色はくすんだ赤黄色のもので、よいいろどりを与えます。この窯でかつて長方形の片口のような擂鉢すりばちを作りましたが、惜しいことに絶えました。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
かたわらの方に山菅やますげで作った腰簑こしみのに、谷地草やちぐさで編んだ山岡頭巾やまおかずきんほうり出してあって、くすぶった薬鑵と茶碗が二つと弁当が投げ出してあるを見て
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
飢餓の火はじりじりとくすんで、人間の白い牙はさっと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光せんこうで変貌する。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
兵粮は嫌でも他から仰がなければならぬのであるから、大概たいがいの者は頭と腕だけが膨大ぼうだいになつて、胃の腑が萎縮ゐしゆくする。從つて顏の色がくすむ。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
ところ杉原すぎはらはうでは、めう引掛ひつかゝりから、宗助そうすけ此所こゝくすぶつてゐることして、いて面會めんくわい希望きばうするので、宗助そうすけやむつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
焼野が原は、一層かっきりと、その半ば炭化しかけた材木だの、建前だのがくすぶって、まだ臭いと余燼よじんをくすぶらしているのがよくわかる。
大菩薩峠:31 勿来の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
最初はけば/\しい新屋根が気障きざに見えたが、数年の風日は一をくすんだ紫に、一を淡褐色たんかっしょくにして、あたりの景色としっくり調和して見せた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
ただくすぼれて、口をいびつに結んで黙りこくってしまったような小さい暗い家が並んでいた。漆喰壁しっくいかべには蜘蛛の巣形に汚点しみびついていた。
巴里祭 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
このくすんだようなバー・オパールの雰囲気とは凡そ正反対な、俗にいう眼の覚めるような美少女がまるで手品のように忽然と現われたのである。
白金神経の少女 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
ひっそりとした四辺あたりであった。しめやかな、光の外の光と、影の中の影とが相縺あいもつれて、それらが物の隅々にまで柔かにうちくすんでゆきつつあった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
この坊様ぼんさまは、人さえ見ると、向脛むこうずねなりかかとなり、肩なり背なり、くすぼった鼻紙を当てて、その上から線香を押当てながら
露肆 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
家にくすぶっている時とも違って、その日の節子はつくりまさりのする彼女の性質や、目立たない程度で若い女が振舞うような気取りをさえ発揮した。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それでなくても、空気が新鮮でないために、妙に息苦しく、もしこの際松火たいまつを使ったとしたら、それは、輝かずにくすぶり消えるだろうと思われた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
障子ふすまくすぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が二棹ふたさおならんでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
実際胸釦むねぼたん穿めて、鏡の前に立つてみると、中将自身すら気が咎めてならない程折目折目が痛むでゐる上に、肝腎の金ぴかが厭にくすんだ色をしてゐた。
永い間通っているものと見えて、駅長とは特別懇意でよく駅長室へ来ては巻煙草まきたばこくすべながら、高らかに外国語のことなどを語り合うているのを聞いた。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
「おい、おめえが腕を貸せっていうから、おれ達は加勢に来たんだ。こんな穴ん中へくすぶりに来たんじゃねえ」
錢形平次——江戸開府以來と言はれた捕物の名人平次は相變らず貧乏臭い長屋にくすぶつて、火の消えた煙管を横ぐはへに、世話甲斐のない三文植木を並べては
彼は、煙草たばこをふかしていた。二本一緒にくわえたらいいだろうと思われるほどむやみにスパスパとふかしていた。彼一人でおもてをくすべ上げるに充分であった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
万作のうちには蚊帳がありませんでしたから、夏になると宵の口から火鉢ひばちの中で杉つ葉をくすべて蚊を追出してそれから、ぴつしやり障子を閉め切つて寝たのでした。
蚊帳の釣手 (新字旧仮名) / 沖野岩三郎(著)
二十七八の出来さかりだ。これ程の男前の気取屋きどりやが、コンナ片田舎のチャチな床屋にくすぼり返っている。
山羊髯編輯長 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
陽が暮れて碧い空がくすぼり、山の尖りももう見えなかった。其処には一つの石が犬のうずくまったように朽葉の中から頭をだしていた。彼はその石へ崩れるように腰をかけた。
陳宝祠 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
遺跡發見物中にははいも有りけたる木片ぼくへんも有りてコロボツクルがようを知り居りし事は明なるが、鉢形はちがた鍋形なべがたの土器の中には其外面のくすぶりたる物も有れば、かし
コロボックル風俗考 (旧字旧仮名) / 坪井正五郎(著)
右手に見える谷間は、牧場と穀物畑と森とで埋められ、黄金こがねかす一筋の川は大小の緑の蔭、豐熟した穀物やくすんだ森、鮮やかな光の草地の間をうね/\と流れて行く。
その上色彩がまた非常に豊富で、プリズムで分けたスペクトル光のように恐ろしく純粋な色があるかと思うと、西洋の古い名画のように思い切ってくすんだ色彩のものもいた。
雑魚図譜 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
『火よりも煙りが恐ろしいのです。それはまるで古帽子からくすぶる反動思想のように——。』
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
世間には余り名が出ないからには、どこかにくすぶっておるのかも知れぬ。居士号もあって見性も済んでおるもの故、わしらは種々いろいろと、禅のこと公案のことを尋ねたものである。
鹿山庵居 (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁むぎわらくすべて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日濛々もうもうとして曇って来た。
花園の思想 (新字新仮名) / 横光利一(著)
涅槃会ねはんゑの日にはくすぼつた寝釈迦さんの軸をかけ、そのまへに小机をすゑて香華をそなへる。
銀の匙 (新字旧仮名) / 中勘助(著)
見るともなく見ると、昨夜想像したよりもいっそうあたりはきたない。天井も張らぬきだしの屋根裏は真黒にくすぶって、すすだか虫蔓だか、今にも落ちそうになって垂下ぶらさがっている。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
皆之を押臥わうぐわし其上に木葉或はむしろきて臥床となす、炉をかんとするに枯木かれきほとんどなし、立木を伐倒きりたをして之をくすふ、火容易やうゐうつらず、寒気かんき空腹くうふくしのぶの困難亦甚しと云ふべし
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
決してこれらのおあしをいちいち自分のものにしようのどうしようというのじゃなかったが、ただ、青黒くくすんだお銭を見ると、本能的に小さな紙包みをこしらえてはお銭を包み
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
貸す室というのは、袋小路のなかの、ひどくくすぶった煉瓦の二階建の家の地階にあった。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そのどこにも、大英老帝国のくすんだ渋さなり落ち着きなりが漂っているように思われた。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
日が、くすべられたやうな色の雨戸の隙間から流れ入つて、室の中はむん/\してゐた。
哀しき父 (旧字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
戸外に彼女がでると、萎黄いおう病のようにくすんでしめった月が建物の肋骨ろっこつにかかっていた。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
畳み目の消えた衣服をぎ捨てて、ことにきれいなのを幾つも重ね、薫香たきものそでくすべることもして、化粧もよくした良人が出かけて行く姿を、の明りで見ていると涙が流れてきた。
源氏物語:40 夕霧二 (新字新仮名) / 紫式部(著)
日があかねさしたのか、東の空が一面に古代紫のようにくすんだ色になった……富士の鼠色はただれた……淡赭色の光輝を帯びたが、ほんの瞬く間でもとの沈欝に返って、ひッそりと静まった。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
この道筋には古風な民家が散在し、その破れた築地ついじのあいだより、秋の光りをあびてかきの実の赤く熟しているのがながめられた。くすんだ黄色い壁と柿のくれないとがよく調和して美しい。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
晝餐ひるあとつめたくつたときなどにはかれはそこらのあつめてやす。くすぶつていつでもあをけむりすこしづゝつてる。かれそのけむり段々だんだんとほざかりつゝ唐鍬たうぐはんでる。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
過去四年間の『錘』以來の詩にも屡〻その厭世的な陰鬱な心持の中から吾れ知らず迸つて來るのは何等くすんだ色のない都會を歌つた詩、海を歌つた詩にある快活な樂天的なリズムである。
太陽の子 (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
(小田原時代や柳原時代は文壇とはよほど縁が遠くなっていた。)緑雨が一葉の家へしげしげ出入でいりし初めたのはこの時代であって、同じ下宿にくすぶっていた大野洒竹おおのしゃちくの関係から馬場孤蝶ばばこちょう
斎藤緑雨 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
何かみじめな生活のあかといったものをしみ込ませたようなくすんだ、しなびた、生気のない顔ばかりで、まるでヘットそのものを食うみたいな、ぶたの油でギロギロのお好み焼を食っていながら
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
俺あ江戸で仔細あって大罪犯した男だが、久々野に居ついてくすぶってれば、一生何事なしで過せたろうに、頼まれもしねえのに高山で、文太郎の奴を半殺しにした、それは何故なぜか知ってるか。
中山七里 二幕五場 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
消毒の方法は硫黄いおうにてくすべるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くによそおいたれば、雑沓ざっとうまぎれて咄嗟とっさの間にそれとなく言葉を交え
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
それが天下晴れて教室をくすべながら旧師と語るのだから今昔こんじゃくの感がある。
母校復興 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)